2014年
8月
31日
日
平成26年9月1日
死は誰にも必ず訪れます。
読者の皆さんは、どのような死を迎えたいと思っていますか?
「自宅の畳の上でポックリ死にたい」
「ボケるくらいなら死んだ方がマシだ」
「病院の集中治療室で、何本ものチューブに繋(つな)がれたまま、生かされるのはご免だ」
「治る見込みが無いなら、いっそ殺して欲しい」
「私が植物人間になったら助けないでね」
このように考える方が多いのではないでしょうか?
日本尊厳死協会は、尊厳死を次のように定義しています。
「尊厳死とは、傷病(しょうびょう)により不治(ふじ)かつ末期になった時に、自分の意思で、死に行く過程を引き延ばすだけに過(す)ぎない延命措置(えんめいそち)をやめてもらい、人間としての尊厳を保ちながら死を迎える事です」
そして、同協会は尊厳死の宣言書「Living Will (リビング・ウィル)(生前発効の遺言)」の普及を推進しています。
以下にリビング・ウィルの全文を掲載します。
「私は、私の傷病が不治であり、かつ死が迫っていたり、生命維持措置無しでは生存できない状態に陥(おちい)った場合に備えて、私の家族、縁者ならびに私の医療に携(たずさ)わっている方々に次の要望を宣言いたします。
この宣言書は、私の精神が健全な状態にある時に書いたものであります。
したがって、私の精神が健全な状態にある時に私自身が破棄するか、または撤回する旨(むね)の文書を作成しない限り有効であります。
1.私の傷病が、現代の医学では不治の状態であり、既(すで)に死が迫っていると診断された場合には、ただ単に死期を引き延ばすためだけの延命措置はお断りいたします。
2.ただしこの場合、私の苦痛を和(やわ)らげるためには、麻薬などの適切な使用により十分な緩和(かんわ)医療を行ってください。
3.私が回復不能な遷延性(せんえんせい)意識障害(持続的植物状態)に陥った時は生命維持措置を取りやめてください。
以上、私の宣言による要望を忠実に果たしてくださった方々に深く感謝申し上げるとともに、その方々が私の要望に従ってくださった行為一切の責任は私自身にあることを付記いたします。」
日本尊厳死協会は尊厳死運動を、「無意味な」延命行為を拒否する、人権確立の運動だとも言っています。
同協会の提言は一見もっともで、多くの方が賛同しています。
しかし、この「尊厳死」という概念には大いに問題があります。
従って、むやみに「尊厳死」を推進してはいけないと、私は思います。
次回以降、私が「尊厳死」に反対する理由を述べます。
次号に続く
2014年
9月
30日
火
平成26年10月1日
「尊厳死」と似た概念で、「安楽死」という言葉があります。
「安楽死」は「尊厳死」より古くから用いられていた言葉ですが、立場によって見解が異なり、明確な定義が確立されていません。
「安楽死」の種類に関しても、観点により複数の分類が存在します。
行為と死の因果関係の観点からは、「安楽死」は次の3つに分類されます。
1.積極的安楽死(作為(さくい)安楽死)
医師が薬物の投与を患者に対して行い、その行為によって死に至らしめる事です。
これは現在の日本では合法化されておらず、殺人行為として処罰の対象となっています。一般に「安楽死」と言われるものは、この積極的安楽死を指す場合が多いのです。
2.消極的安楽死(不作為(ふさくい)安楽死)
医療行為を中止する事によって結果的に患者を死に至らしめる事を意味しています。
代表的な消極的安楽死としては、人工呼吸器を装着しなければ確実に死に至る状態でありながら装着しないという場合が挙げられます。
延命処置を行わない事による死という点から、多くは「尊厳死」と同義で用いられます。
消極的安楽死は、患者の延命拒否の意思と自己決定権を尊重するという理由から、これまで慣習的に正当性を与えられてきました。
3.間接的安楽死(結果安楽死)
患者が感じている苦痛を除去するために行った行為が結果として患者の生命を短縮させる事になってもやむを得ない場合、この行為を間接的安楽死と呼びます。
死期を早めるかも知れない麻薬などの投与や処置を指します。
これも、患者の自己決定権を尊重するという理由から、これまで罪に問われる事はありませんでした。
上に述べたように、「安楽死」と言えば、一般的に積極的安楽死を意味します。
「安楽死」を法で定めているのは、世界でもオランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、米国オレゴン州などごく少数です。
1991年(平成3年)に起きた「東海大学付属病院事件」に対して1995年(平成7年)に横浜地方裁判所が下した判決では、積極的安楽死として認められるための条件として以下の4つを挙げました(事件の詳細は本稿の目的から外れるため割愛します)。
1.患者が耐え難く激しい肉体的苦痛に苦しんでいる事。
2.患者は死が避けられず、その死期が迫っている事。
3.患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替手段が無い事。
4.生命の短縮を承諾するという、患者の明白な意思表示がある事。
これら4つの条件をすべて満たしていると判断された事件は未だにありません。
現在の日本で積極的安楽死が認められる可能性は限りなくゼロに近いのです。
従って、日本では「(積極的)安楽死」という言葉が肯定的に用いられる事は無くなり、代わりに「尊厳死」という言葉が用いられるようになったのです。
次号に続く
2014年
11月
01日
土
平成26年11月1日
「尊厳死」に賛同する方は多く、日本尊厳死協会の会員数は現在約13万人だそうです。
国会でも、超党派の「尊厳死法制化を考える議員連盟」が「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案」(いわゆる尊厳死法案)を昨年3月に発表しました。
法案の内容は次の通りです。
1.回復の可能性がなく死期が間近(まぢか)な状態を終末期と定義し、終末期かどうかは2人の医師が判断する事。
2.終末期の患者が延命措置を望まない意思を書面などで表示していれ ば、医師が延命治療を開始しなくても刑事責任を問われない。
発表会場には、車椅子に乗った障害者や人工呼吸器を付けた難病患者さん達も参加しました。
支援団体関係者らは、「終末期や障害者の定義が曖昧だ」「命の軽視が始まる」「人の命の切り捨てに繋(つな)がりかねない」「過去に書いたリビング・ウィルが現在の本人の意思と言えるのか?」と、この法案に懸念を示していました。
尊厳死法案には、障害者や難病患者の団体、日本弁護士連合会などが反対しています。日本医師会も「終末期医療の現場は多様で、法律で縛(しば)って混乱を招くのは望ましくない」と慎重な姿勢を示しています。
尊厳死法案に真っ向から反対する、その名もズバリ「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」が発表した声明を抜粋(ばっすい)します。
「日本尊厳死協会のリビング・ウィルは、将来起こるかも知れない状態を想定して前もって行う意思表示であり、実際に延命措置に直面しての意思表示ではない。
尊厳死の法制化は、人に『死ぬ義務』を課し、『弱者に死の選択を迫る』権利を周囲の人間に与えようとするものだ。
ただでさえ弱い立場の人に『周りに迷惑をかけずに自分から進んで早く死ね』と死を迫るのは許せない。
『あのようになってまで生きていたくない』と、生きている人の状態を『あのように』と見る、自らの内に潜(ひそ)む選別の思想こそ反省する必要がある。
尊厳死法制化の動きは、人工呼吸器を使って呼吸し、栄養・水分補給を受けて生活している人々をはじめ、障害者や高齢者に『死を強制される』という目に見えない恐怖を抱(いだ)かせるものとなる。
今日、医療の進歩により、遷延性(せんえんせい)意識障害(持続的植物状態)者の回復例が何例も報告されている。
また、『死期が間近である』との判定の後、蘇生した事例も数多くある。
命ある限り精一杯生き抜く事が人間の本質である。
生きようとする人間の意思と願いを、気兼(きが)ねなく全うできる医療体制や社会体制が不備のまま、『尊厳死』を法制化する事は、病に苦しむ人や高齢者に『死の選択を迫る』圧力になりかねない。
我々は真に生命を尊重する社会、弱い立場の人やその家族が人的・経済的負担を心配する必要のない社会を目指すべきだ」
全くその通りだと、私も思います。
次号に続く
2014年
11月
29日
土
平成26年12月1日
厚生労働省医政局が作成した「在宅医療・介護あんしん2012」によると、日本では入院医療・施設介護が中心であり、自宅で死亡する人の割合が、1950年の80%から2010年には12%にまで低下したそうです。
しかしながら「国民の60%以上が自宅での療養(死)を望んで」おり、「今後は、可能な限り、住み慣れた生活の場において必要な医療・介護サービスが受けられ、安心して自分らしい生活を実現できる社会を目指す」のが国策だそうです。
昨今、「無駄な延命治療など受けないで、家族みんなに看(み)取られて自宅で穏やかに死にたい」という考え方が流布(るふ)しています。
医師、看護師、介護職などの医療福祉関係者にもこの考えを支持する人が増えており、「在宅死」や「家庭での看取り」をテーマにした研修会があちこちで開かれています。
「尊厳死」の概念も、この潮流の中で生じたものです。
私には、この風潮が、厚生労働省によって巧妙にまき散らされた「在宅死は素晴らしく、病院死は不幸である」という幻想の産物であるとしか思えないのです。
そもそも、本当に「国民の60%以上が自宅での療養(死)を望んで」いるのでしょうか?中央社会保険医療協議会(中医協)の在宅医療に関する資料(平成23年11月)を見てみましょう。
1.本人が介護状態になった時に希望する療養場所として、自宅・子供の家などの居宅を希望する人は45%ほどで、50%は病院・介護施設への入院・入所を希望しています。
2.介護が必要な家族を自宅で療養させたいと希望する人は僅(わず)か13.9%です。
3.終末期の療養場所に関する希望として、自宅で最後まで療養したい人は何と8.8%しかいません。
9割以上の人が自宅以外の場所で最期(さいご)を迎えたいと思っているのです!
つまり、患者や介護利用者においては、多くの人が「できれば住み慣れた自宅で療養したいが、いざとなれば入院して最期を迎えなければならないだろう」と考えているのです。
一方、実際に世話をする家族においては、「今の状況では満足な介護はできない。
環境の充実した病院・施設に入院・入所を希望しても、空きも無ければ費用も無い。
当面、在宅医療をお願いしながら、不十分な介護保険を利用しつつ、最後まで在宅介護を覚悟しなければならない」と考える方が多いのでしょう。
在宅、施設のいずれを希望するにせよ、不本意な状況を余儀なくされているのが、多くの患者・家族の実情でしょう。
現状は、厚生労働省が目指す「住み慣れた生活の場において必要な医療・介護サービスが受けられ、安心して自分らしい生活を実現できる社会」ではないのです。
この様な状況では、「尊厳死」など絵に描いた餅です。
次号へ続く
2015年
1月
01日
木
平成27年1月1日
皆様、明けましておめでとうございます。
今年も、お付き合い下さい。
前回述べたように、多くの国民が自宅を「安心して最後を迎える場」とは考えていません。それにも拘(かか)わらず、なぜ国(厚生労働省)は、「可能な限り、住み慣れた生活の場(自宅)において医療・介護サービスが受けられる」ようにしたいのでしょうか?
理由は簡単です。医療費削減が目的なのです。
決して、医療・介護の質の向上や、国民の安心・安全を目的にしている訳ではないのです。
国は「在宅医療・介護あんしん2012」の中で、「国民の希望に応えるために自宅に療養・看取(みと)りの場を提供する」と言っていますが、真っ赤なウソです。
国が在宅医療・在宅死を声高(こわだか)に叫ぶのは、医療費を削減したいからに過ぎないのです。決して、「国民のため」ではないのです。
これまで本欄で何度も述べたように、世界規模で比較すれば、日本の医療費は先進国の中でも最低レベルです。
それにも拘わらず、政府は1980年代から「医療費亡国論」に基づき、医療費抑制政策を執(と)り続けてきました。
そして、1992年には膨張した入院医療費を削減すべく、在宅を医療提供の場として正式に位置づけたのです。
現在、政府が主導している「社会保障と税の一体改革」は、少子高齢化に伴う医療費の高騰(こうとう)を危惧するがゆえに、社会保障費抑制と消費税増税を中心とした国民負担増大を目的とした政策です。
そこでは、入院医療費抑制を図るために、病床数の削減と入院日数の短縮を至上命令として、強引なまでの在宅誘導が企図されています。
現在も今後も、高齢化は、地方と同様に都市でも進行します。
その上、都市は土地代が高く、介護施設などを整備するのは困難です。
しかも、今後、死亡者数が増大します。
現在の年間死亡者数は100万人程度ですが、2025年には160万人程度まで増えると予想されています。
しかしながら、政府は病院の病床数を削減し続けており、介護療養病床廃止(2017年)の方針も変えてはいません。
必然的に、「死に場所」として、自宅しか残らないのです。
本来なら社会保障で行うべき医療や介護を、家族やボランティアの無償の労働力に肩代わりさせようというのが、「在宅医療・在宅介護・在宅死」推進政策の真の目的です。
政府は、予防から急変期、回復・安定期、終末期に至るまで、地域全体で対応できる「地域包括ケア」の確立を唱(とな)えていますが、安上がりな医療・介護提供体制に舵(かじ)を切ろうとしているだけなのです。
その実体は、医師が行う訪問診療を看護師の病状観察に、看護師が行う痰(たん)吸引などの医療ケアを介護士に、介護士が行う生活支援を地域住民に、それぞれ担(にな)わせようというだけの、安易な制度改変に過(す)ぎません。
「医療から介護へ、入院から在宅へ、施設から地域へ」を狙(ねら)う「社会保障・税の一体改革」は、医療・介護給付費を押さえ込もうとする、誤(あやま)った国策に他(ほか)なりません。
民間団体が行っている「尊厳死」推進運動は、国の医療・介護給付費抑制政策に乗せられている、としか私には思えません。
まさしく、国の思う壺(つぼ)です。
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2015年
2月
02日
月
平成27年2月1日
先日、あるテレビ番組で、在宅医療について考えさせられる話がありました。
80才代のおじいちゃん、おばあちゃんの二人暮らしの家庭があります。
おばあちゃんは認知症で寝たきりですが、おじいちゃんの顔は分かります。
おばあちゃんを定期的に訪問診療している医師は、次のように取材陣に話しました。
「私は高齢の患者には特別な治療は行いません。
家族には、容態が悪化しても決して救急車を呼ばないように伝えてあります。
もし、おばあちゃんが肺炎になったら、熱だけを冷ましてあげます。
80才という年齢を考えたら、やり過ぎない治療というものが大事で、自然に着地させてあげる。
何でもかんでも入院っていうふうにしないで、基本的には家で引っ張っていく。
なるべくご主人の力を借りながら、家での治療を続けたらどうかと思います。
そのためなら力になってあげたいと思いますので、何かあったらいつでも電話下さいとご主人には言ってあります」
そのおばあちゃんが、ある日、本当に誤嚥性(ごえんせい)肺炎になってしまいました。
38℃の熱があり、食欲もほとんどありません。
おじいちゃんは「食事も取れなくなっているから、病院に入院させて点滴してやって欲しい」と医師に懇願(こんがん)しました。
しかし、医師は「おばあちゃんはもう80歳だからさ、入院なんてしないでこのまま様子を見ようよ」と、おじいちゃんを諭(さと)しました。
おじいちゃんは渋々(しぶしぶ)医師の指示に従う事にしましたが、あきらめられません。
呼びかけても反応しないおばあちゃんを前に、動揺もしていました。
翌日、往診に来た医師に、「家内は丸(まる)一日何も食べていない。
元気をつけさせるため、何か食べさせたい」と言い出しました。
医師は、「意識がない老人に無理やり食べさせても、また、誤嚥するだけだ。
それより、このまま看取(みと)った方が良い」と考えていましたから、
「やめといた方が良いと思うよ」と答えました。
幸い、翌日、おばあちゃんは意識を取り戻しました。
おじいちゃんは大喜びです。
「おっ、笑顔になったじゃん。なあ、分かるか?おっ、声も出てきたぞ。ようし」
そう言いながら、おじいちゃんは、おばあちゃんの口に好物の卵豆腐(たまごどうふ)を運びました。
その様子を見ながら、医師は
「また、誤嚥する恐れがあるので、食事は危険だと思いますが、ダメだとは言えませんね。
自宅で看取るためには、介護する家族の気持ちをくみ取る事も大切だと考えているからです」と取材陣に話しました。
その後、おばあちゃんの容態は徐々に回復し、小康状態を保っているそうです。
皆さんはこの話を聞いてどう思いますか?
次号に続く
2015年
2月
28日
土
平成27年3月1日
皆さんは、前回のおじいちゃん・おばあちゃんの話を聞いてどう思いますか?
「この医師の対応は正しい。
おじいちゃんも立派だ。
おばあちゃんの容態が回復して良かったが、もし、あのまま亡くなったとしても仕方がない・・・」
こう思われるでしょうか?
私はそうは思いません。
この医師は、「老人は救急車を呼んだり、入院して濃厚な治療を受けてはいけない。
年をとったら治療もほどほどに、余計な医療費を使わないで、自宅でおとなしく死ななければならない」という考えに凝(こ)り固まっています。
「やり過ぎない治療」「家で引っ張る」など、何と失礼な言い方でしょう!
おばあちゃんの容態が持ち直したから良かったものの、もし、あのまま亡くなったとしても、この医師は「自分の責任を果たした」と言うだけでしょう。
一体、人の命を何だと思っているのでしょうか?
80歳を過ぎたら救急車を呼んではいけないのでしょうか?
認知症のおばあちゃんは入院してはいけないのでしょうか?
いけないとしたら、何歳までなら人に気兼ねする事なく救急車を呼んだり入院したりしても良いのでしょうか?
私は、肺炎で死にそうになったおばあちゃんも、妻を入院させたいという願いを咎(とが)められたおじいちゃんも、気の毒でなりません。
患者を愛している家族も、もう一人の患者なのです。
現代は、「社会に貢献し、何かを生産し、他人に迷惑をかけないで自分の力だけで生きている人しか認めない」という風潮が広がっています。
そして、「社会に貢献せず生産能力が無く他人に厄介(やっかい)をかける弱者は切り捨てられても仕方がない」という世の中になってしまっています。
そして、「厄介者」の患者の「生きたい」という希望や、その家族の「助けたい」という願いを、ないがしろにしているのです。
このように由々(ゆゆ)しき風潮に拍車をかけているのが、国の医療費抑制政策なのです。
政府は国民の健康や生命よりも国の財政に重きを置き、在宅医療・在宅介護・在宅死を強力に推進しようとしています。
そして、この誘導にまんまと乗せられた多くの医師、看護師、介護職達が病(やまい)や障害に苦しんでいる人達に自宅で死ぬ事を強制し、家族に自宅で看取るよう圧力をかけているのです。
前回紹介したテレビに登場した医師も、政府の誤った在宅死推進政策に乗せられている一人です。
彼は、肺炎で苦しんでいるおばあちゃんに、このまま自宅で死ぬよう強要しました。
そして、妻を入院させたいおじいちゃんに、「歳だからあきらめろ」と治療を拒否したのです。
この医師は、自分が間違っているとは思っていません。
彼は自分が正しい事をしていると信じているのです。
次号に続く
2015年
3月
31日
火
平成27年4月1日
社会に貢献できなくても、何も産み出さなくても、どんなに人の世話になっていても、「生きたい」という本人の気持ちや、「最後の最後まで希望を失わずに助けたい」という家族の気持ちこそ、最も大切にしなければならない、と私は思うのです。
「介護に手がかかり、治る見込みの無い人は周囲に迷惑をかけないで死ぬべきだ」という考えは、「尊厳死」という美名(びめい)の元(もと)に「死」を押しつけている事に他(ほか)なりません。
「スパゲティ症候群」という悲しい言葉を使う人がいます。
胃瘻(いろう)、輸液ルート、導尿カテーテル、気管チューブ、動脈ライン、心電図モニター等々、体中にチューブやセンサーが取り付けられた重症患者をこのように呼ぶのだそうです。
「あんな、スパゲティのような姿になってまで、生きていたくない」という、同情とも侮蔑(ぶべつ)とも言える感情が込められた、不快な名称です。
誰が言い出したかは分かりません。
「無駄な治療」という誤った概念を助長する、危険な言葉であるのは確かです。
「スパゲティ症候群」という言葉を聞いた多くの人が、「スパゲティのような姿になってまで、生きていたくない」と思います。いいえ、思わされます。
そして、そのうち何割かの人が、「管(くだ)に繋(つな)がれるような治療は受けたくない」と口に出して言います。これも、私から見れば、世の中の風潮によって言わされているのです。
つまり、この不快な呼び名が広まるにつれて、「管に繋がれるくらいなら死んだ方がマシだ」という考えが浸透して行ってしまうのです。
しかし、一方で、ある闘病中の方はこう言っています。
「私に管を何本か付けたら、私の尊厳は無(な)くなるのでしょうか?
人間の尊厳は、管の何本かで消し飛ぶようなものなのでしょうか?
治療をやめる事を尊厳死などと尊(たっと)ぶ人を見ると、自分は『尊厳の無い生(せい)に意地(いじ)汚(きたな)くしがみついている』と、批判されている気がします」
治る見込みがほとんど無く寝たきり状態、意識が無く人工呼吸器の助けを借りなければ生命が維持できない状態、何本ものチューブに繋がれながら生きる事、これらは全部「尊厳が無い生(せい)」なのでしょうか?
家族の介護の苦労や医療費の負担を考え悩んだ挙(あ)げく、「どんな姿であっても生きて欲(ほ)しい」と家族に言ってもらいたいという願いを我慢している人が大勢いるのです。
そのような人は、不本意ながら、死を選択させられてしまうのです。
「尊厳死」は自分の意志によるものだという話に、私は大いに疑問を覚えます。
もし日本が、誰もが最後まで金銭的な心配をする必要が無く、家族にも苦労をかけずに、最後の最後まで最善の医療・介護を受ける事が可能な国だとしたら・・・
「尊厳死」などという欺瞞に満ちた言葉が今ほど跋扈(ばっこ)するでしょうか?
人に遠慮せずに治療や介護を受けられる世の中であれば、「尊厳死」など心底(しんそこ)から希望する人は激減(げきげん)するに違いありません。
終末期を医療の中止で迎えるのも「尊厳」の在(あ)り方(かた)でしょうし、最後まで医療を続け命を永(なが)らえさせるのも「尊厳」の在り方です。
人の生き方は様々(さまざま)であり、死に方もまた様々です。
決して人から強制されるべきものではありません。
自ら率先して死を選ばずとも、尊厳ある生(せい)の延長上には必ず尊厳ある死があるはずです。
「尊厳死(そんげんし)」よりも「尊厳生(そんげんせい)」こそが、私達が追求するべき目標なのです。
「尊厳死の宣言書」(リビング・ウィル)を準備するのではなく、「私を最後まであきらめないで治療してもらいたい」という「尊厳生の宣言書」を誰に憚(はばか)る事なく堂々と残せる社会の到来(とうらい)を心から願います。
今回で「尊厳死」についての考察を終わります。