平成27年4月1日
社会に貢献できなくても、何も産み出さなくても、どんなに人の世話になっていても、「生きたい」という本人の気持ちや、「最後の最後まで希望を失わずに助けたい」という家族の気持ちこそ、最も大切にしなければならない、と私は思うのです。
「介護に手がかかり、治る見込みの無い人は周囲に迷惑をかけないで死ぬべきだ」という考えは、「尊厳死」という美名(びめい)の元(もと)に「死」を押しつけている事に他(ほか)なりません。
「スパゲティ症候群」という悲しい言葉を使う人がいます。
胃瘻(いろう)、輸液ルート、導尿カテーテル、気管チューブ、動脈ライン、心電図モニター等々、体中にチューブやセンサーが取り付けられた重症患者をこのように呼ぶのだそうです。
「あんな、スパゲティのような姿になってまで、生きていたくない」という、同情とも侮蔑(ぶべつ)とも言える感情が込められた、不快な名称です。
誰が言い出したかは分かりません。
「無駄な治療」という誤った概念を助長する、危険な言葉であるのは確かです。
「スパゲティ症候群」という言葉を聞いた多くの人が、「スパゲティのような姿になってまで、生きていたくない」と思います。いいえ、思わされます。
そして、そのうち何割かの人が、「管(くだ)に繋(つな)がれるような治療は受けたくない」と口に出して言います。これも、私から見れば、世の中の風潮によって言わされているのです。
つまり、この不快な呼び名が広まるにつれて、「管に繋がれるくらいなら死んだ方がマシだ」という考えが浸透して行ってしまうのです。
しかし、一方で、ある闘病中の方はこう言っています。
「私に管を何本か付けたら、私の尊厳は無(な)くなるのでしょうか?
人間の尊厳は、管の何本かで消し飛ぶようなものなのでしょうか?
治療をやめる事を尊厳死などと尊(たっと)ぶ人を見ると、自分は『尊厳の無い生(せい)に意地(いじ)汚(きたな)くしがみついている』と、批判されている気がします」
治る見込みがほとんど無く寝たきり状態、意識が無く人工呼吸器の助けを借りなければ生命が維持できない状態、何本ものチューブに繋がれながら生きる事、これらは全部「尊厳が無い生(せい)」なのでしょうか?
家族の介護の苦労や医療費の負担を考え悩んだ挙(あ)げく、「どんな姿であっても生きて欲(ほ)しい」と家族に言ってもらいたいという願いを我慢している人が大勢いるのです。
そのような人は、不本意ながら、死を選択させられてしまうのです。
「尊厳死」は自分の意志によるものだという話に、私は大いに疑問を覚えます。
もし日本が、誰もが最後まで金銭的な心配をする必要が無く、家族にも苦労をかけずに、最後の最後まで最善の医療・介護を受ける事が可能な国だとしたら・・・
「尊厳死」などという欺瞞に満ちた言葉が今ほど跋扈(ばっこ)するでしょうか?
人に遠慮せずに治療や介護を受けられる世の中であれば、「尊厳死」など心底(しんそこ)から希望する人は激減(げきげん)するに違いありません。
終末期を医療の中止で迎えるのも「尊厳」の在(あ)り方(かた)でしょうし、最後まで医療を続け命を永(なが)らえさせるのも「尊厳」の在り方です。
人の生き方は様々(さまざま)であり、死に方もまた様々です。
決して人から強制されるべきものではありません。
自ら率先して死を選ばずとも、尊厳ある生(せい)の延長上には必ず尊厳ある死があるはずです。
「尊厳死(そんげんし)」よりも「尊厳生(そんげんせい)」こそが、私達が追求するべき目標なのです。
「尊厳死の宣言書」(リビング・ウィル)を準備するのではなく、「私を最後まであきらめないで治療してもらいたい」という「尊厳生の宣言書」を誰に憚(はばか)る事なく堂々と残せる社会の到来(とうらい)を心から願います。
今回で「尊厳死」についての考察を終わります。