Message from the Directorを更新しました(Jan 1,2025)。
Exploring the History of Medicine, Part 51: Florence, Part 31
院長から一言を、掲載順に(現在から過去に、1年分)並べてあります。
2026年
5月
30日
土
令和8年6月1日
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂
ローマで、そして世界で、最も重要で、由緒ある教会です。
313年、ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス(大帝)はミラノ勅令を発して宗教の自由を認め、ローマ帝国として初めてキリスト教を公認しました。
その翌年(今から1,700年以上前)に、コンスタンティヌス大帝が創建したのがこの大聖堂です。
ローマの4大大聖堂(このラテラーノ大聖堂とサン・ピエトロ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂)のうち最古です。
14世紀に教皇庁がアヴィニョンに移るまで、1,000年もの長い間、すべてのカトリック教会の中心でした。
この大聖堂に、「聖なる扉Porta Santa(ポルタ・サンタ)」と呼ばれる大きな扉があります。
扉には、聖母子像(マリアとイエス)と、十字架に磔にされたイエスが浮き彫りされています。
扉は聖年にのみ開かれます。
聖年とは、カトリック教会において、「ローマ巡礼者に特別の赦しを与える」年として定められた年です。14世紀以降、およそ数10年ごとに巡ってきます。
porta(ポルタ)はラテン語で、城壁の「門」を意味します。
英語ではport(ポート)で、「港」を表します。
ラテン語のportaや英語のportの語源は、ラテン語のportare(運ぶ)です。
つまり、港は、国家や都市の門であり、外界との間で物資を搬入・搬出する場所という訳です。
portable(ポータブル、持ち運びができる)、porter(ポーター、ホテルなどの荷物運び人)なども、port(運ぶ)から派生した単語です。
解剖学でも、門脈 (英語ではportal vein(ポータル ヴェイン)、ラテン語ではvena portae(ヴェーナ ポルテー))という血管があります。
胃・腸から吸収した栄養を「運ぶ」血液が集まって肝臓の入り口(肝「門」部)へと注ぎ込む血管です。
「門」に「運ぶ」血管だから門脈portal veinと呼ぶのです。
平成33年3月のミラノ編、同年11月のヴェネツィア編、平成35年1月のフィレンツェ編で「メドゥーサの頭」について説明しました。
これは、肝硬変で門脈の血圧が上昇し、肝臓に入れなくなった血液が肝臓を迂回して心臓に帰るために発達した側副血行路の一つです。
皮下の静脈が累々と浮かび上がった様子が、怪物メドゥーサの頭の蛇のように見えるため、こう呼ばれます。
次号に続く
2026年
4月
30日
木
令和8年5月1日
ティべリーナ島(続き)
ローマ帝国第4代皇帝クラウディウス1世が、紀元1世紀、島のアスクレピオス神殿跡に初の病院を建てました。
従って、これがローマ最古、すなわち西洋最古の病院です。
現在もこの場所に病院がありますが、もう稼動していません。
10世紀には、オットー3世が病院に隣接して教会を建てました。
12世紀には改修されて、聖バルトロメオ教会となりました。
教会はその後の洪水などで被害を受けたため、17世紀に、オラツィオ・トッリアーニの手で、柱廊と2層のファサード(正面)を持つバロック式教会に建て直されました。
左後ろの鐘楼は12世紀のロマネスク様式です。
内部の司祭館に通じる階段の途中には、井戸が残っています。
この井戸は、アスクレピオス神殿当時、身体を清めるための聖なる水を汲み上げるために使われました。
身体を清めるのは治療の原点でした。
12世紀に彫刻が施されましたが、紀元前3世紀のままの状態で現存しています。
階段頂上に聖バルトロメオの遺体が安置されています。
また、教会内部の柱はアスクレピオス神殿の物がそのまま使われています。
誠に古めかしい石柱で、2,300年も前の物だと思うと、感慨深く感動的です。
聖バルトロメオ(ギリシャ語:バルトロマイ、英語:バーソロミュー)は、新約聖書に登場する、イエスの12使徒の一人です。
アルメニアで伝道中に捕まり、生きたまま皮を剥がれ、逆さ磔にされて殉教しました。
ヴァチカンのシスティナ礼拝堂にある、ミケランジェロ作「最後の審判」にも、剥がされた自分の皮とナイフを持った姿で描かれています。
この島にはもう一つ病院があります。
ファーテ・べネ・フラッテリ病院という名で、17世紀のぺスト大流行の際に、蔓延を防ぐため、患者をこの島に集めて収容するために建てられました。
古ぼけた病院ですが、消化器内視鏡科や循環器科など、日本の病院と同じ診療科があります。
2026年
3月
28日
土
令和8年4月1日
ティべリーナ島
ローマ市内を流れるテヴェレ川には、一つだけ中州(中の島)があり、ティべリーナ島といいます。
この島の東側にかかるファブリーチョ橋(紀元前1世紀)は、ローマに現存する橋の中で、ミルヴィオ橋(紀元前2世紀)に次いで2番目に古い物です。
今日まで、ほとんど修復されずに残っており、立派に現役です。私も渡りました。
また、島の南側の川の中には、古代ローマ時代最古(紀元前2世紀)の石造りの橋の遺構があります。
往時は「アエミリウス橋」という名でしたが、現在は、「ロット橋(壊れた橋)」と呼ばれています。
この島の橋は歴史的に重要なので、紙面を割いてお話しました。
しかし、この島には我々医療人にとって、橋以上に重要な物があります。
医学史上における意義は、間違いなく3本の指に入ります。
この島にローマ最古(即ち、西洋最古)の病院が建てられたのです。
紀元前3世紀初頭、ローマはぺストに襲われ、大勢の死者が出ました。
疫病の鎮静化を願ったローマ人は、ギリシャ神話の医学神アスクレピオスを招くため、遠くギリシャのエピダウロスまで船で赴きました。
アスクレピオスは蛇に姿を変えて迎えの船に乗り、ティベリーナ島に着いたそうです。
ローマの人々は、紀元前291年、アスクレピオスを祀る神殿を島に建てました。
神殿の前は病気の回復を願う人々であふれました。
島はローマ人の生活地域から離れているため、感染予防の点からも効果的でした。
この島は、全体として石灰岩でできていますが、アスクレピオスを船で運んだ故事を伝えるため、船の形に造られています。
島の南端には船首の形をした遺構もあります。
西洋医学では、ギリシャ神話に登場するアスクレピオスが医学の神様とされます。
このアスクレピオスは、オリンポス12神の一人であるアポロ(アポロン)の子です。
アスクレピオスについては、平成33年8月1日のヴェネツィア編、平成34年10月1日・平成35年9月1日・平成36年1月1日のフィレンツェ編でも述べましたので、ご覧下さい。
医神と崇められたのはアスクレピオスだけではありません。
長男マカオンは外科の、次男ボダレイオスは内科の守護神となりました。
長女ヒュギエイアは健康の女神として英語の「衛生学hygiene(ハイジーン)」の語源となり、次女パナケアPanaceaは薬・癒しの女神です。
パナケアPanaceaはギリシャ語では「全てを癒す」で、現代英語でも「万能薬」を意味します。
まさに、アスクレピオスの家族は医学神の一家なのです。
アスクレピオスは病人やけが人を往診して癒しを与えましたが、いつも一匹の蛇が巻きついた杖を持って訪れました。
そして、「1匹の蛇が巻きついた杖」その物が西洋医学のシンボルマークとなりました。
次号に続く
2026年
2月
28日
土
令和8年3月1日
トレヴィの泉Fontana di Trevi (続き)
ポセイドン、デーメーテール、ヒュギエイアの3人の神の前には、左右の2頭の海馬と、それぞれを操る二人のトリトーンがいます。
海馬とは、翼を持ち、上半身が馬で下半身が魚の怪獣です。
トリトーンは海神ポセイドンの息子で、上半身が人間、下半身が魚の姿をした神です。
父の跡継ぎとして海底の宮殿に住み、海馬にまたがり、ホラ貝を吹き鳴らしながら、海を鎮めていました。
右側のトリトーンは青年で強く、ホラ貝を吹きながら、穏やかで従順な海馬を率いています。
一方、左側のトリトーンは壮年で、暴れ馬の海馬を押さえつけています。
2頭の海馬が海の変化を表現している訳です。
ホラ貝は、英語でTriton's trumpet(トリトーンのラッパ)と言いますが、ギリシャ語ではporphura(ポルピュラ)と言います。
porph-は元来、「紫色の」という意味です。
内臓から赤紫色の染料(顔料)が採れるので、ホラ貝はポルピュラと呼ばれるのです。
porphyrin(ポルフィリン)という化学物質は、結晶が赤紫色なのでこう名付けられました。組織にポルフィリンが沈着するポルフィリン症では、尿が赤紫色を呈します。
英語のpurple(パープル、紫)やpurpura(プルプーラ、紫斑)はporph-から派生した言葉です。
紫斑とは皮内や皮下に生じた、出血による斑紋です。
老人性紫斑やうっ血性紫斑は、日常的によく見ます。
海苔の学名も、紫色の色調から、porphyra(ポルフィラ)です。
2026年
1月
31日
土
令和8年2月1日
トレヴィの泉Fontana di Trevi
ローマに来た観光客のほとんどが訪れる名所です。
treviは「三叉路」という意味で、泉の前から3本の道が延びているのが由来です。
「コインを肩越しに泉に投げると、再びローマに来られる」という言い伝えは有名です。
この泉が完成するまでには、紆余曲折がありました。
帝政ローマ時代、周囲の山からはるばる引いてきた水道の末端に、工夫を凝らした泉を造るのが習わしでした。
見事な噴水から勢いよくあふれる水は、資金を出した裕福な人々や工事に携わった関係者の、名誉と誇りの印でもありました。
トレヴィの泉も、紀元前19年、アウグストゥス帝の婿養子アグリッパが造らせた水道に遡(さかのぼ)ります。
水道は20kmに亘って水を運び、「アクア・ヴェルジネ(処女の水)」と呼ばれていました。
最初のトレヴィの泉は、樋から落ちる水を3つの水盤で受ける物でした。
これは、ローマの各所にあった泉や噴水と同様、蛮族の侵入で破壊されてしまいました。
15世紀以降、約300年に亘り、13代の法王が泉の再建に関わりました。
18世紀、法王クレメンス12世の命により建築家ニコラ・サルヴィが30年かかって、現在の姿を完成させたのです。
建築と彫刻と水が一体になった、バロック芸術の傑作です。
ポーリ宮殿を背景に、3体の立派な彫刻が立っています。
中央が、ギリシャ神話の「海と地震の神ポセイドン」(ローマ神話ではネプチューン)です。オリンポス12神の一人で、最高神ゼウスに次ぐ圧倒的な強さを誇ります。
海洋の全てを支配し、全大陸さえも支えています。
怒り狂うと、強大な地震を引き起こして世界を激しく揺さぶります。
また、泉の守護神でもありますので、トレヴィの泉の中央に立つのです。
ポセイドンの左に立つのが、ギリシャ神話の「大地・穀物・豊饒の女神デーメーテール」(ローマ神話ではケレスCeres)です。
デーメーテールの別名をクロエーChloeといいます。
Chloeが穀物の女神の別名にされたのは、元々「緑」という意味だからです。
chlorophyll(クロロフィル、葉緑素)などの英単語もこれから派生しています。
穀物の女神デーメーテールのローマ神話における名前ケレスCeresから英語のcereal(シリアル、穀物)が生まれました。
ポセイドンの右に立つのが、ギリシャ神話の「健康の女神ヒュギエイア」です。
彼女は医神アスクレピオスの娘で、医学の象徴である蛇(へび)の飼育係です。
右手に持っている「ヒュギエイアの杯」は薬学の象徴です。
ヒュギエイアについては、令和4年10月1日号や令和6年10月1日号(共にフィレンツェ編)で詳しく紹介しましたので、ご覧下さい。
次号に続く
2026年
1月
06日
火
謹告
診療体制縮小のお知らせ
新年早々ではありますが、苦渋の決断を申し上げます。
当院は本年3月末をもって、医療法人を解散し、4月1日より医師(片桐 一)一人、看護師 兼 事務員(片桐智英子)一人の、二人体制個人医院として、細々と診療を続けることと致しました。
2階で行っているリハビリとパワーリハビリは、誠に残念ながら、3月末で終了します。
理由は以下の4点です。
①20年以上続く診療単価削減の中、材料価格・人件費の高騰に加え、種々の医療
機器メンテナンス料の値上げ等が重なり、大勢の患者さんに受診して頂いてい
るにも拘わらず、経常収支が悪化の一途をたどっており、経営努力も限界であ
ること。
②本年6月に診療報酬改定を控え、財務省が「診療所は儲かっているから、診療
報酬をさらに下げろ」と、根拠無く声高に叫んでいること。
さらに、日本維新の会が「メリハリのある社会保障改革」を主張して、病院は
プラス改定、診療所はマイナス改定の方針が決定し、今後も減収が続くことが
確実なこと。
③私も今年、古稀を迎えるに当たり、連日連夜の激務に、精神・身体共に耐えら
れなくなってきたこと。
④良き患者さんを良き従業員と一緒に診療し、患者さんが元気になっていく姿を
見ることは、医師として掛け替えのない喜びです。
その為には、従業員一人一人を私が必要と考える水準に達するまで教育しなけ
ればなりません。同時に、各々の人生設計を考慮し、その要望(給料アップと
更なる休暇の付与)に応えなければなりませんが、遺憾ながら、無い袖は振れ
ないこと。
つきましては、4月から水曜・金曜の週2日、午前10時から午後2時までの4時間、1日5人限定の予約制とします。診療時間は一人45分、3ヶ月処方の予定です。予約の電話は4月以降、毎週水曜・金曜の午後2時から4時の間、承ります。
なお、1日5人限定の診療なので、予約を承るのは、私の治療方針に従って下さる方のみとします。私の治療方針に従えない方は、予約できません。
私自身の体調維持、目標実現のため、春期・秋期の休暇も頂く予定です。
診療以外の時間は、これまで時間が無くてできなかった勉強をし、自己研鑽に励みます。
急なお知らせではありますが、ご賢察、ご理解の程、宜しくお願い申し上げます。
令和8年1月5日
院長 片桐 一
2025年
11月
30日
日
令和7年12月1日
真実の口
「嘘つきがこの口に手を入れると、食べられてしまう」という言い伝えで有名な「真実の口」は、ギリシャ正教のサンタ・マリア・イン・コスメディン教会"Santa Maria in Cosmedin"にあります。
この教会は、この辺りに多く住んでいたギリシア人のために、6世紀に建てられました。
8世紀に改築された際に、ギリシャ人達によって装飾(コスメディン)されたため、こう呼ばれます。
英語でもcosmetic美容・化粧品、cosmetic surgery美容外科、cosmetician美容師などの言葉があります。
映画「ローマの休日」で、グレゴリー・ぺックが「真実の口」に手を入れ、食べられてしまう振りをして、オードリー・ヘップバーン扮する王女を驚かせた場面は、世界中の人が知っています。
「真実の口」がある石は、古代ローマ時代の下水道の蓋(マンホール)です。
描かれているのは髭(ひげ)もじゃのお爺さんに見えますが、実は人間ではなく、ギリシャ神話に登場する牧神(森・原・家畜の守護神)パンPanです。
パンは神々の使者ヘルメス神の子です。
生まれた時から髭もじゃで、額(ひたい)にはヤギの角が生え、脚にはヤギの蹄(ひづめ)がありました。
この奇妙な姿に驚いた母親は逃げ出してしまいましたが、ヘルメスは赤ん坊をオリンポス山に連れて行き、大勢の神々に見せました。
これを見た神々はみんな面白がって大喜びしました。
全ての神を喜ばせたので、ギリシャ語の「すべて」を意味するPanと名付けられたのです。
pan(すべて)が付く言葉は沢山あります。
panorama(パノラマ、全展望)、pandemic(パンデミック、感染症の大流行)、panperitonitis(パンペリトナイティス、汎発性腹膜炎)、pancytopenia(パンサイトペニア、汎血球減少症)などなど。
成長して牧神となったパンは、洞窟に住み、森を駆け巡り、茂みに身を隠して、妖精達を襲うのでした。
そして、失敗するとオナニーにふけるという、実に淫乱な牧神でした。
パンはエコーEchoという妖精にもしつこく言い寄りましたが、エコーが応じなかったため、エコーから、同じ言葉を繰り返す以外の、話す能力を奪ってしまいました。
この逸話から、echoが「反響、こだま」という意味になったのです。
医者が使うエコーという器械も、まさしく音の反響を利用した診断装置です。
また、パンはシュリンクスSyrinxという妖精にもチョッカイを出しましたが、彼女は逃げだし、川の岸辺の1本の葦(あし)に姿を変えました。
振られてしまったパンは数本の葦を切って葦笛を作り、これをsyrinxと名付けて、悲しい調べを鳴らしました。挿絵(さしえ)のパンも葦笛を吹いています。
この故事からsyrinxが「管」を表す言葉となり、英語のsyringe(シリンジ、注射器)が派生したのです。
牧神パンは森の木陰でよく昼寝をしていました。
これを邪魔されると、怒って大音響を発して騒ぎました。
これに驚いて、牛や羊が群れを乱して走り出し、人々も狼狽(ろうばい)して一目散に逃げ出すのでした。
ここから、panic(パニック、恐慌)という言葉が生まれたのです。
現代では、不安障害に分類される精神障害の一種「パニック障害」に悩む患者さんが増加していますね。
2025年
10月
31日
金
令和7年11月1日
フォロ・ロマーノForo Romano(続き)
カエサル(ジュリアス・シーザーJulius Caesar)は紀元前44年に暗殺されました。
カエサルの遺体が火葬され、アントニウスが有名な追悼(ついとう)演説をした場所に、カエサルの甥(おい)で養子となったアウグストゥス(ローマ帝国初代皇帝)が「カエサルの神殿」を建てました。
イオニア式の柱が残っています。
カエサルの正式な名は「ガイウス・ユリウス・カエサルGaius Julius Caesar」といい、ユリウス氏族に属するカエサル家のガイウスという意味です。
ちなみに、氏族名のユリウスとはローマ神話の神ユピテル(ジュピター、ギリシャ神話では全能の神ゼウス)の子孫という意味です。
カエサルはローマ史上最も有名な将軍・政治家です。
「賽(さい)は投げられた」「来た、見た、勝った」「ブルータス、お前もか?」などの特徴的な引用句でも知られています。
古代ローマで最大の野心家で、終身独裁官(ディクタトルdictator)となりましたが、ブルータスらに殺されました。
「カエサルCaesar」は、カエサルの甥のアウグストゥス(初代ローマ皇帝)以降、ハドリアヌスまでの代々ローマ皇帝の称号となりました。
ドイツ皇帝Kaiser(カイザー)、ロシア皇帝czar(ツァーリ)の語源でもあります。
「帝王切開(英語:cesarean section(セサリアン セクション)、ドイツ語: Kaiserschnitt(カイザー シュニット))」は子宮切開によって胎児を取り出す手術です。
この呼称は、シーザーが母の子宮切開手術によって産まれた、との伝説に基づきます。
我々医者は「帝切(ていせつ)」「カイザー」などと呼びます。
日本語の「帝王切開」は、ドイツ語のKaiserschnittを翻訳したものです。
しかし、紀元前の医学では、母の腹部・子宮を切開して母子共に健康などということはあり得ません。
実際にカエサルが帝王切開で生まれた可能性は極めて低いのです。
カエサルの神殿の前には煤(すす)けた石板が立っています。
この広場にはいつも、このような白い石板が立っていました。
市民に公示する掲示板の役割を果たし、album(アルブム)と言われていました。
ラテン語でalbusは「白い」という意味です。
写真を貼る帳面もアルバムといいますが、白い紙を綴じた物だから、こう呼ぶのです。
このalb (alp)が付く、白い物は沢山あります。
教会でミサの際、司祭や信者が着る白衣もalbといいます。
Alps(アルプス)山脈、albatross (アルバトロス、アホウドリ)など、みんな白い物です。 医学の世界でも、albumin (アルブミン、タンパク質の一種)、linea alba (白線)、albino (白子)、albism (白皮症)、corpus albicans(卵巣の黄体が瘢痕化した白体)、Candida albicans(白色カンジダ)など、白い物ばかりです。
次号へ続く
2025年
9月
30日
火
令和7年10月1日
フォロ・ロマーノForo Romano(続き)
フォロ・ロマーノは全体的に道路面よりかなり低くなっています。
それもその筈(はず)、前号で述べたように、ここは古代ローマ時代に丘と丘の間の沼地を干拓して造られた広場だからです。
市民の集会や裁判、商業活動や政治討論の場として設けられた「公共広場forum」であり、買い物広場でもありました。
古代ローマの発展の中核だった訳です。
ちなみに、現代英語のforum(フォーラム)は、もっぱら「公開討論会」の意味で用いられています。
紀元前5世紀の共和政時代初期には、フォロ・ロマーノは市民の公共生活の中心となり、ローマの発展と共に繁栄していきました。
しかし、やがて帝政が敷かれて、諸皇帝の広場ができると、フォロ・ロマーノはその本来の役割(民主政治の中心)を失い、むしろローマの偉大さと栄光を示すシンボルに変わっていきました。
その後、たび重なる蛮族の侵入で破壊されたフォロ・ロマーノは、中世には放牧の原となり、残った遺跡は壊され、建築材料として持ち去られました。
19世紀になって考古学的な発掘が行われるまで、かつてここに偉大なローマの中心があったことさえ、忘れ去られていたのです。
フォロ・ロマーノの一番西の奥に「セヴェルス帝の凱旋門」が建っています。
その左脇には、「ローマの臍(へそ)」"Umbilicus Urbis"と呼ばれる、直径4mのレンガでできた円があり、文字通りローマの中心でした。
そして、セヴェルス帝の凱旋門のすぐ左下にある細長い台座が、ロストリ"Rostri"と呼ばれる演壇です。
紀元前1世紀にカエサル(ジュリアス・シーザー)が行ったフォロ・ロマーノの改修で、現在の場所に移されました。
高さ約3m、長さ12mの凝灰岩でできています。
ここで、キケロなどの雄弁家が、広場に集まった市民に向かって弁を振るいました。
ローマ時代には、公職を志願する候補者は、自らの清廉潔白を示すために、トーガ"toga"(布を緩やかに体に巻き付ける衣服)をチョークで白く塗り、人々の支援を求めて、この演壇で演説したり、町を歩き回ったりしました。
白衣を着ている人は一点の汚(けが)れもないことを示し、公職にふさわしいと訴えたのです。
白衣を着ている候補者を、当時candidatus(カンディダートゥス)と呼びました。
その元はラテン語のcandere(カンデーレ、白く輝く)です。
現代英語でも、候補者・志願者をcandidate(キャンディデイト)といいます。
candle(ローソク)、chandelier (シャンデリア)、オランダ語 kandelaar(カンテラ、携帯用の石油灯)など、すべて同じ語源に由来します。確かに、みんな「白く輝き」ますね。
さて、医学用語にもCandida (カンジダ)というカビの名前があります。
これも、このカビが乳白色で光沢のある塊(かたまり)を作るからです。
ちなみに、Candida albicans(白色カンジダ)という種類がありますが、直訳すると「白く輝く白い物」です。
いくら白いにしても、おかしな名前です。
次号に続く
2025年
8月
30日
土
令和7年9月1日
フォロ・ロマーノForo Romano(続き)
前号で述べたように、ローマは7つの丘から始まりました。
丘と丘の谷間には7つの丘から小川が流れ込み、湿地帯を形成していました。
そこでは、蚊が大量に発生し、人が住むには不向きでした。
そこで、沼地を干拓して人が住めるようにしようと考えたのが、紀元前6世紀のタルクィニウス王です。
彼は下水道の建設事業に市民を駆り立てました。
あまりに市民を酷使したため、彼はローマから追放されてしまいましたが、彼の着想は
後にクロアーカ・マッシマ(巨大な下水溝)と呼ばれる下水道として実を結びました。
1.5kmに亘(わた)って建設されたこの巨大な排水溝が、沼の水をテヴェレ川まで運び、湿地帯をローマの都に変えたのです。
その中心が、今も残る市民広場フォロ・ロマーノです。
排水溝は紀元前4世紀には暗渠(あんきょ)化されました。
このローマの幹線下水道は、ローマ帝国崩壊以来、掃除されたことがないそうです。それにもかかわらず、今もなお、立派に機能しています。
古代ローマの医学史上最大の功績が、上下水道、公衆浴場の建設など、公衆衛生の発達です。
クロアーカ・マッシマはCloaca Massimaと書きます。
massimaはmassimo(最大の)の変化形です。
英語の maximum と同様にラテン語の maximusマクシムス(最大の)に由来します。
cloacaは下水道排水溝という意味ですが、解剖学では総排泄腔(そうはいせつくう)と訳されます。
鳥やカエルなどに見られる、直腸・膀胱・尿道・生殖器を兼ねる器官です。
総排泄腔をもつ動物では、排泄物(糞や尿)も卵や精子も、同じ穴から体外に排出されるのです。
学生時代に解剖学で習いましたが、下水溝という意味があるとは知りませんでした。
私や皆さんは、帝王切開で産まれた人を除いて全員、下水から出て来たことになりますね!
次号に続く
2025年
7月
31日
木
令和7年8月1日
フォロ・ロマーノForo Romano
古代ローマの公共広場です。
理解し易いように、まず、ローマ発祥の伝承から説明します。
現在のトルコに「トロイ」という都市があります。
古代ギリシャ軍がトロイを攻め滅ぼしたのが「トロイア戦争」です。
生き残ったトロイアの青年アエネアスが、後にイタリア半島へ上陸しました。
そのずっと後の子孫である「ロムルス」と「レムス」という双子の兄弟は、赤ん坊の時にテヴェレ川に流され、メスの狼に育てられました。
双子の兄弟は成長し、自分たちが流れ着いた地点に町を建設することにしました。
その町に兄弟どちらの名前をつけるか喧嘩(けんか)になり、丘に登って鳥をたくさん見た方が勝ち、と決めました。
また、町の壁を越えて来る者は殺すという誓約も結びました。
弟のレムスは、アヴェンティーノの丘に登って6羽の鳥を見ました。
兄のロムルスは、パラティーノの丘に登って12羽の鳥を見ました。
ロムルスが勝ったので、彼は新しい街の城壁を築くために線を引き始めました。
街の名はロムルスの名に因(ちな)んで「ローマ」と呼ぶことにしました。
賭けに負けたレムスが、八つ当たりして街の壁をけり壊したため、ロムルスはレムスを殺してしまいました。
弟を立派に埋葬した兄ロムルスは、街に多くの人を住まわせました。
彼はローマを40年間統治し、雲の中へ消えていきました。
これが、紀元前8世紀のローマ発祥伝説です。
ローマは、パラティーノを初めとする7つの丘に囲まれています。
7つの丘は「ローマの七丘(しちきゅう)」と呼ばれます。
丘に囲まれた谷間は、丘の上から流れ込む水によって沼地を形成していました。
沼地は住むには適さず、もっぱら死者を葬(ほうむ)る場所として使われていました。
そこには、マラリアを媒介する蚊が群生(ぐんせい)していました。
当然、ローマ市民の間に、絶えずマラリアが流行しました。
紀元前1世紀前後には、マラリアが大流行したため人口が激減しました。
当時の有名な弁舌家キケロがローマを「悪疫(あくえき)の都」と呼んだくらいです。
人類を悩ませ続けてきた熱病をマラリアと名付けたのは、18世紀のイタリア人医師フランチェスコ・トルチです。
彼は、この熱病の原因が沼地の「悪い空気」"mal aria "であると考え、病名をイタリア語そのままのmalariaマラリアとしたのです。
マラリアに悩まされたのは古代ローマ人だけではありません。
マケドニアのアレキサンダー大王、エジプトの女王クレオパトラやツタンカーメン王、フィレンツェの詩人ダンテ、日本の平 清盛、カルカッタのマザー・テレサなどもマラリアに罹患したと言われています。
現代医学では、マラリアがハマダラカという蚊が媒介する感染症であることが明らかになっています。
残念ながら、今なお、世界中で毎年2億人以上の人がマラリアに感染し、40万人以上が亡くなっています。
私は医師になってから45年間、一度もマラリア患者に遭遇したことがありません。
しかし、地球温暖化に伴い、日本もマラリア流行地域になるのではないかと、危惧しています。
蛇足ですが、「良い空気」という意味の都市があります。
アルゼンチンの首都Buenos Airesブエノスアイレスです。
次号に続く
2025年
6月
30日
月
令和7年7月1日
コロッセオColosseo
ヴェスパシアヌス帝が1世紀に建設開始し、その息子ティトゥス帝が完成させた闘技場です。
長径188m・短径156m(円ではなく楕円形)・周囲521m・高さ57m・5万人収容という、文字どおり巨大な(コロッサーレcolossale)建造物でした。
東京ドームや甲子園球場より一回り小さい位の大きさです。
後世、表面を飾っていた大理石や上階部分の石材が持ち去られたため、現在のような姿になってしまいました。
観客席は身分・性別により仕切られていました。
地下には、猛獣の檻(おり)や器材・道具置き場のほか、人間・動物の移動のための大がかりな昇降装置(エレベーター)もありました。
猛獣と剣闘士、または剣闘士同士の凄惨(せいさん)な戦いが見世物にされました。
剣闘士(グラディエーター)となる者の大半は戦争捕虜や奴隷、犯罪者でした。
剣闘士は勝ち続ければ富を得ることもできましたが、ローマ人達からは「野蛮人」と見なされました。
その社会的地位は低く、売春婦と同類の最下等とされ、蔑(さげす)まされました。
剣闘士は養成所で長期にわたり訓練を施(ほどこ)されてから闘技会に出場しました。
しかし、重罪人は訓練を受けることもなく獄中から闘技会に引き出され、防具なしで戦い、大半は命を落としました。
養成所では闘技を指導する元(もと)剣闘士の訓練士や、高度な技術を持つ医師・マッサージ師などが働き、剣闘士の養成を行いました。
剣闘士は、訓練士によって、行進の仕方、武器の扱い、足技、突き刺した剣でどうやって動脈を切るかなどを指導され、徹底的にしごかれました。
藁(わら)人形を相手に殴りかかる練習をし、練習試合で経験を積みました。
訓練中の剣闘士は闘技会以外でのケガと反乱を防止するため、金属ではなく木製の武器を与えられました。
訓練についていけない落伍(らくご)者は闘獣士(とうじゅうし)になるか、過酷な罰が与えられ、耐えられずに自殺する者もいました。
ある者は便所の汚物洗浄用の棒を喉に突っ込み窒息死、また、別の者は馬車で移送中に車輪に頭を突っ込み絶命しました。
ローマ人の見世物として仲間同士で戦わされるのを嫌い、互いに喉を絞めあって果てた連中もいます。
訓練生の宿舎は厳重に監視され、夜は鍵を掛けて閉じ込められました。
彼らには栄養豊富な食事、特に大麦が主食として与えられました。
古代ローマでは、大麦を食べると脂肪が増えて出血を防げると考えられていたからです。
ただし、当時のローマ市民の主食は小麦であり、大麦は家畜の飼料だったので、剣闘士は侮蔑(ぶべつ)的に「大麦食い」と呼ばれました。
午前中は野獣狩りが催されました。世界中から集められたクマ、トラ、ライオン、ヒョウなどの猛獣やゾウ、キリンといった珍獣が闘技場に放たれ、闘獣士たちがこれを狩り殺しました。闘獣士は武装しており、猛獣と戦って生き残る者もいました。
しかし、無防備の重罪人と猛獣との戦いは公開処刑であり、大抵の重罪人が猛獣に食い殺されました。
午後は、罪人の処刑が行われました。
彼らは武器を持たされ、罪人同士で死ぬまで戦うか、剣闘士と戦って殺されました。
罪人の処刑が終わると、剣闘士の試合が始まりました。
決着がついた後、敗者について、観客が助命か処刑かを選択できました。
勝者にはシュロの小枝が与えられ、卓越した者には月桂冠が授けられました。
時には、詩人に讃(たた)えられ、壺(つぼ)などに肖像画が描かれたり、多額の金品や婦人達の愛顧(あいこ)を得る者もいました。
剣闘士は年に3回か4回程度の試合を行い、20戦ほどを経験するまでに死ぬか、引退しました。生き残る確率は20人に1人程度でした。
皇帝は見世物を提供して、庶民の人気を稼ぎ、社会に山積する問題から目をそらさせたのです。
キリスト教の公認後、血なまぐさい見世物は次第に下火になり、6世紀の半ばには廃止されました。
因みに、闘技場を英語でアリーナarenaといいます。
これは、ラテン語のharena(砂地)に由来します。
剣闘士や動物が流した血が貯まらないように、床に砂を敷き詰めたから「砂地」なのです。
横浜アリーナも、さいたまスーパーアリーナも、砂地という意味だったのですね。知りませんでした。
2025年
5月
31日
土
令和7年6月1日
テルミニ駅Stazione Termini
国際線、国内線の鉄道が頻繁に発着する、ローマ最大の駅で、町の交通の中心です。
ガラスと大理石を用いた、巨大な近代建築です。
ローマに鉄道が敷かれたのは比較的遅く、法王ピウス9世の発案で、1870年にテルミニ駅が建造されました。
その後、ローマが統一イタリアの首都となり、鉄道網が急速に発達したため、ムッソリーニの命により、「20世紀に即した」新しい駅の建設が始まりました。
途中、第2次世界大戦を挟み、完成までに13年の歳月を費やしました。
私は、「テルミニ」Terminiという言葉は、終着駅を意味する英語のterminal(ターミナル)やterminus(ターミナス)と関連した単語だと思っていましたが、そうではありませんでした。
ディオクレティアヌス帝の公衆浴場terme(テルメ)の跡地に造られたことに由来するのだそうです。
公衆浴場と言っても、日本の風呂屋とは段違いの大きさです。
370m×380m、約14万平方メートルの大きさで、甲子園球場の3.5倍位です。
ギリシャ語のtherme熱、thermos熱い、thermai温泉、から派生し、英語のthermae(サーミー)温泉・公衆浴場、イタリア語のterme温泉・公衆浴場となりました。
医療でも、thermometer(サーモメーター)温度計、thermostat(サーモスタット)温度調節器、thermography(サーモグラフィー)、hyperthermia(ハイパーサーミア)高熱・高体温、などなど日常的に用いますね。
「テルモTERUMO」という名前の医療機器メーカーもありますね。
この会社は、100年前の創業時、体温計の製造から始めたのだそうです。
当院でも、テルモの電子体温計を使っています。
「テルマエ・ロマエTHERMAE ROMAE」(ヤマザキ マリによる漫画)は、ラテン語で「ローマの公衆浴場」という意味です。
2012年、阿部 寛主演で映画化されました。
古代ローマ帝国の浴場設計師が現代日本にタイムスリップし、日本の風呂文化を学んでいく姿を描くコメディドラマです。
ところで、ディオクレティアヌス帝は、大浴場(カラカラ浴場)を建設したカラカラ帝からちょうど100年後の3世紀末に即位した皇帝です。
この皇帝が関わる最も重大な事件は、彼が4世紀始めに出した、キリスト教に対する禁教令です。
彼は自らをユピテル神になぞらえ、皇帝ディオクレティアヌスを神として崇拝するよう、キリスト教徒に強要しました。
また、ローマ古来の神々を崇拝し、ローマ古来の祭儀へ参加するようキリスト教徒に強要しました。
さらに、キリスト教徒を火あぶりの刑に処したり、見世物として円形闘技場に引き出してライオンの群れに食わせるといった公開処刑も行いました。
ついには、キリスト教の書物を焼却し、教会の財産も没収してしまいました。
結局、信仰の拠り所を無くすことを主眼としたものでした。
「ディオクレティアヌスの大迫害」と呼ばれます。
次のコンスタンティヌス大帝によってキリスト教が公認(313年「ミラノ勅令」)されるまで、約10年間続きました。
2025年
4月
30日
水
令和7年5月1日
大聖堂(ドゥオーモ)とガリレオ
大聖堂はピサ・ロマネスク様式建築の最高傑作です。
十字軍に参戦したピサは、11世紀にシチリアのパレルモ沖にてイスラム艦隊と海戦し、勝利しました。
この勝利を記念して、イスラム教徒から奪った金銀財宝を基(もと)に、50年の歳月をかけて、大聖堂が建てられました。
建築に用いられた円柱は、パレルモのギリシャ神殿から戦利品として運んできた物です。
内部には、歴史的・美術的に価値の高い作品が数多くありますが、特筆すべきは14世紀始めの説教壇(だん)です。
これは、イタリアン・ゴシックの彫刻の中でも最高傑作と言われています。
けれども、私達にとってもっと重要な物が、この説教壇の前にぶら下がっているランプです。
前号で述べた「落下の法則」の発見より以前の1583年の事です。
当時、ガリレオ・ガリレイはピサ大学医学部の学生でした。
教育熱心な父親から英才教育を受けた彼は、17歳で医学部に進学していたのでした。
彼は、ドゥオーモの説教壇の真ん前で、天上から吊り下がっているブロンズのシャンデリア(ランプ)が風に揺れるのを眺(なが)めていました。
そして、ランプの振り子の揺れ幅がしだいに小さくなっても、1往復の時間は変わらない事に気付きました。
医学生だったため、自分の脈で確かめたそうです。
これが「振り子の等時性(とうじせい)」という法則です。
以後、ピサの大聖堂のシャンデリアは「ガリレオのランプ」と呼ばれるようになりました。今日では、彼はこのランプより6年も前に、振子の法則を発見していたと考えられています。
その後、ガリレオは、医学部の講義に幻滅し、医学部を退学して数学・物理学・天文学の道に入っていきました。
ピサ大学やパドヴァ大学で長い間、これらの学問を教えました。
中でも、歴史的に重要なのが天文学における功績です。
①木星に衛星が存在する。②金星が満ち欠けする。③太陽に黒点が存在する。
以上3つの発見により、ガリレオはこれらが地動説(地球が太陽の周りを回っている)の証拠であると確信しました。
ガリレオが地動説を主張し続けたため、天動説(太陽が地球の周りを回っている)を信じるカトリック教会から有罪判決を受けた話は有名です。
ガリレオは教会の神父達よりも、キリスト教の本質をよく理解し、科学的な言葉で説いたために快く思われず、デタラメな裁判で有罪判決を受けたのです。
ガリレオへの刑は無期懲役でしたが、直後に減刑され軟禁となりました。
しかし、フィレンツェの自宅への帰宅は認められず、その後、死ぬまで監視付きの家屋に住まわされ、外出も禁じられました。
もちろん、すべての役職を剥奪されました。
死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬(ほうむ)ることも許されませんでした。
ガリレオの庇護(ひご)者のトスカーナ大公は、ガリレオを異端者として葬るのは忍びないと考え、ローマ教皇の許可が下りるまでガリレオの葬儀を延期しました。
ようやく、ガリレオの死後100年以上経った18世紀に、教皇の許可に基づく埋葬がフィレンツェのサンタ・クローチェ教会で行われました。
やがて、1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したのを発端に、ガリレオ裁判の見直しが始まりました。
そして、ついに1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、この裁判が誤りであったことを正式に認め、ガリレオに謝罪しました。
これは我々の記憶にも新しい出来事です。
ガリレオの死去から実に350年後のことです!
感慨深いですね。