Message from the Directorを更新しました(Jan 1,2025)。
Exploring the History of Medicine, Part 51: Florence, Part 31
院長から一言を、掲載順に(現在から過去に、1年分)並べてあります。
2025年
4月
30日
水
令和7年5月1日
大聖堂(ドゥオーモ)とガリレオ
大聖堂はピサ・ロマネスク様式建築の最高傑作です。
十字軍に参戦したピサは、11世紀にシチリアのパレルモ沖にてイスラム艦隊と海戦し、勝利しました。
この勝利を記念して、イスラム教徒から奪った金銀財宝を基(もと)に、50年の歳月をかけて、大聖堂が建てられました。
建築に用いられた円柱は、パレルモのギリシャ神殿から戦利品として運んできた物です。
内部には、歴史的・美術的に価値の高い作品が数多くありますが、特筆すべきは14世紀始めの説教壇(だん)です。
これは、イタリアン・ゴシックの彫刻の中でも最高傑作と言われています。
けれども、私達にとってもっと重要な物が、この説教壇の前にぶら下がっているランプです。
前号で述べた「落下の法則」の発見より以前の1583年の事です。
当時、ガリレオ・ガリレイはピサ大学医学部の学生でした。
教育熱心な父親から英才教育を受けた彼は、17歳で医学部に進学していたのでした。
彼は、ドゥオーモの説教壇の真ん前で、天上から吊り下がっているブロンズのシャンデリア(ランプ)が風に揺れるのを眺(なが)めていました。
そして、ランプの振り子の揺れ幅がしだいに小さくなっても、1往復の時間は変わらない事に気付きました。
医学生だったため、自分の脈で確かめたそうです。
これが「振り子の等時性(とうじせい)」という法則です。
以後、ピサの大聖堂のシャンデリアは「ガリレオのランプ」と呼ばれるようになりました。今日では、彼はこのランプより6年も前に、振子の法則を発見していたと考えられています。
その後、ガリレオは、医学部の講義に幻滅し、医学部を退学して数学・物理学・天文学の道に入っていきました。
ピサ大学やパドヴァ大学で長い間、これらの学問を教えました。
中でも、歴史的に重要なのが天文学における功績です。
①木星に衛星が存在する。②金星が満ち欠けする。③太陽に黒点が存在する。
以上3つの発見により、ガリレオはこれらが地動説(地球が太陽の周りを回っている)の証拠であると確信しました。
ガリレオが地動説を主張し続けたため、天動説(太陽が地球の周りを回っている)を信じるカトリック教会から有罪判決を受けた話は有名です。
ガリレオは教会の神父達よりも、キリスト教の本質をよく理解し、科学的な言葉で説いたために快く思われず、デタラメな裁判で有罪判決を受けたのです。
ガリレオへの刑は無期懲役でしたが、直後に減刑され軟禁となりました。
しかし、フィレンツェの自宅への帰宅は認められず、その後、死ぬまで監視付きの家屋に住まわされ、外出も禁じられました。
もちろん、すべての役職を剥奪されました。
死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬(ほうむ)ることも許されませんでした。
ガリレオの庇護(ひご)者のトスカーナ大公は、ガリレオを異端者として葬るのは忍びないと考え、ローマ教皇の許可が下りるまでガリレオの葬儀を延期しました。
ようやく、ガリレオの死後100年以上経った18世紀に、教皇の許可に基づく埋葬がフィレンツェのサンタ・クローチェ教会で行われました。
やがて、1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したのを発端に、ガリレオ裁判の見直しが始まりました。
そして、ついに1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、この裁判が誤りであったことを正式に認め、ガリレオに謝罪しました。
これは我々の記憶にも新しい出来事です。
ガリレオの死去から実に350年後のことです!
感慨深いですね。
2025年
3月
30日
日
令和7年4月1日
ピサの斜塔とガリレオ
ピサはフィレンツェから西へ90km、アルノ川がリグリア海に注ぐ河口の港町です。
最盛期(11~13世紀)にはヴェネツィア、ジェノヴァ、アマルフィと並ぶ海洋貿易国家として地中海に君臨しました。
その後、ピサが大学都市として名声を博するようになった16世紀に、ガリレオ・ガリレイがこの地に生まれました。
ガリレオはピサ大学で教鞭をとり、科学分野における同大学の名声を不動にしました。
ピサと言えば斜塔です。
イタリアで最も有名な建物です。
隣接する大聖堂(ドゥオーモ)の付属鐘楼(しょうろう)として、12世紀(日本では平安時代)に建築が始まりました。
湿地帯で地盤が弱いため、建築開始後、間もなく、塔は傾き始めました。
何度かの工事中断を経て、着工から200年後の14世紀(日本では室町時代)に、約5度傾いた状態で、塔が完成しました。
傾いた塔の高さは、北側で55.2m、南側で54.5mと、70cmの差があります。
最上層は最下層より、3mもずれているのです。
この斜めに傾いた塔を利用して、有名な実験を行ったのがガリレオ・ガリレイです。
彼はアリストテレス(古代ギリシアの哲学者)の「落下運動の速度は、物体の重さに比例する(重い物は軽い物より速く落下する)」という説が誤りだと主張しました。
これを実証するため、この斜塔の屋上南端から、大小二つの鉛の砲弾を落とすという実験を行ったのです。
鉛の砲弾を使用したのは、空気抵抗を無視できるほど小さくするために、比重の大きい(体積の小さい)物体を用いる必要があったからです。
その結果、大小両方の玉が同時に地面に落下することを確認しました。
そして、「物体の落下速度は、空気抵抗がなければ、その物体の重さによらず一定である」という説を17世紀、「新科学対話」で発表しました。
これがガリレオの有名な学説「落下の法則」です。
フィレンツェ編でも述べましたが、ガリレオ・ガリレイは天文学や物理学において、「自分の目で観察して確かめる」という手法を採りました。
彼は観察を重視し、自分の考えを証明するには実験するしかないと考えました。
今では当然の手法ですが、当時は伝統やカトリック教会という大きな壁が立ちはだかっていました。
しかし、ガリレオは屈することなく、己を信じて研究を続けたのです。
2025年
2月
28日
金
令和7年3月1日
サン・ジョヴァンニ洗礼堂 Battistero di San Giovanni 続き
洗礼者聖ヨハネ Saint John the Baptist に関連して、医療者が忘れてならないのは、セント・ジョンズ・ワート Saint John's Wort (「聖ヨハネの草」セイヨウオトギリソウ)という薬草です。
学名はHypericum perforatum(ヒペリクム・ペルフォラートゥム)。
古代ギリシャでこの花が「悪魔よけの像」の上に置かれていたことから、学名が「像icon」の「上hyper」を意味するラテン語ヒペリクムHypericumになったそうです。
その名のとおり、災いから身を守るための儀式で使用され、古くから「魔よけ」の植物として親しまれてきました。
ヨーロッパ原産ですが、後にアメリカなどへ伝播(でんぱ)し、現在では日本の一部地域でも野生化したセント・ジョンズ・ワートを見ることができます。
聖ヨハネの誕生日(聖ヨハネの日、6月24日)頃に黄色い花が咲き、伝統的にこの日に収穫されているため、聖ヨハネの名が付けられました。
ちなみに、日本の北海道では、7月中頃にかわいらしい黄色い花を咲かせます。
花びらをこすると赤い液体が出てくるので、洗礼者ヨハネの血からこの草が芽生えたと言い伝えられています。
セント・ジョンズ・ワートは古代ギリシャ以来、「悪魔を追い払うハーブ」と呼ばれ、儀式に用いられただけではなく、外用(塗布)して切り傷やヤケドに、内服してうつ病の治療薬として、用いられてきました。
アメリカ大陸の原住民族(アメリカ・インディアン)も人工妊娠中絶薬、抗炎症薬、消毒薬として使用していました。
また、赤や黄色の色素を作るためにも用いられています。
我が国においても、最近、セント・ジョンズ・ワートを含むサプリメント(錠剤、カプセル)やティーバッグ(ハーブ)が薬局やインターネット通販で売られています。
しかし、この草に含まれるヒペリシンやヒペルフォリンという物質を摂取することにより、体内で、ある種の薬物代謝酵素が誘導されます。
そのため、薬物の代謝(分解)が促進され、その血中濃度が低下するため、薬効が減少します。
また、セント・ジョンズ・ワートの摂取を急に中止すると、薬物分解促進作用がなくなるため、薬物の血中濃度が上昇し、副作用を招く危険もあります。
セント・ジョンズ・ワートにより影響を受ける薬物は以下の通りです。
これらの薬物を服用している方は、 セント・ジョンズ・ワートを摂取しないで下さい。
鉄剤
オメプラゾール(酸分泌抑制薬)
リバロキサバン、ワルファリン(血液凝固阻害薬)
フルボキサミン、パロキセチン、セルトラリン(抗うつ薬)
ジゴキシン、ジギトキシン、メチルジゴキシン(強心薬)
アミオダロン、キニジン、ジソピラミド、プロパフェノン(抗不整脈薬)
テオフィリン、アミノフィリン(気管支拡張薬)
フェニトイン、カルバマゼピン、フェノバルビタール(抗てんかん薬)
エストラジオール(卵胞ホルモン薬)
ボリコナゾール(抗真菌薬)
シクロスポリン、タクロリムス、エベロリムス(免疫抑制薬)
ゲフィチニブ、イマチニブ(抗悪性腫瘍薬)
インジナビル(エイズ治療薬)
2025年
1月
31日
金
令和7年2月1日
サン・ジョヴァンニ洗礼堂 Battistero di San Giovanni
花の聖母(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)大聖堂(ドゥオーモ)より早く、11世紀に、街の守護聖人、聖ジョヴァンニ(洗礼者聖ヨハネ)に捧(ささ)げて建造されました。
ドゥオーモが出来るまでは礼拝堂(聖堂)として使われ、フィレンツェの象徴でしたが、ドゥオーモが出来たため、改修されて洗礼堂となりました。
フィレンツェに生まれた詩人ダンテも、ここで洗礼を受けました。
8角形の建物で、南、北、東の扉にはブロンズのレリーフ装飾が施されています。
特に有名なのが北と東の扉です。
北の扉:ぺストの大流行から復興したフィレンツェが、15世紀初頭、新しい時代を祈って、洗礼堂の扉のコンクールを行いました。
そして、ロレンツォ・ギべルティの作がブルネッレスキに勝ち、採用されました。
新約聖書に基づき、「キリストの生涯」と「諸聖人像」から成ります。
一方、敗れたブルネッレスキは、失意のうちにフィレンツェを離れ、ローマで建築の勉強をしました。その後、彼がフィレンツェに戻り、設計したのが花の聖母教会(ドゥオーモ)の大クーポラ(丸い屋根)です。
東の扉:北の扉の約20年後、やはりギベルティが製作しました。
後に、ミケランジェロが「天国の門」と呼び、賞賛しました。
多くの人々が触れたため、扉全体が金色に輝いています。
旧約聖書を題材にした10枚の金色のレリーフは、遠近法を巧みに取り入れています。
洗礼者ヨハネは、『新約聖書』に登場する古代ユダヤの預言者です。
その名のとおり、ヨルダン川でイエス・キリストに洗礼を授(さず)けました。
洗礼とは、キリスト教徒となるために行う儀式です。
頭に水を注ぐことによって罪を洗い清め、神の子となる証(あかし)とします。
もちろん、洗礼者ヨハネは、イエスの弟子である使徒ヨハネとは別人です。
「ヨハネJohannes」の名は、ヘブライ語の「主は恵み深い」を意味する「ヨーハーナーン」に由来します。
キリスト教がヨーロッパで主たる宗教として普及した結果、各国で、聖書に登場するJohannes(ヨハネ;ラテン語)に由来する男性名が広がりました。
John(ジョン;英語)
Jean(ジャン;フランス語)
Juan(フアン;スペイン語)
João(ジョアン;ポルトガル語)
Johannes(ヨハネス;ドイツ語)
Ioannes(イオアネス;ラテン語)
Giovanni(ジョヴァンニ;イタリア語)
Evan(エヴァン;ウェールズ語)
などです。
この中でも、英語名ジョンJohnは世界中で最も多い男性名だと言われています。
確かに、ジョン・F・ケネディやジョン・レノンなど、ジョンの名を持つ有名人は多いですね。
2025年
1月
02日
木
令和7年1月1日
ウッフィツィ美術館
11.バッカスBacchus
16世紀末、カラヴァッジョ作。
酩酊して赤らんだ顔で、手にはワイングラスを持っています。
ギリシャ神話で酒(ワイン)の神、酩酊の神、豊饒の神、演劇の神です。
本名はディオニュソスDionysus(「若いゼウス」という意味)で、別名をバッコスBakkhosといいました。
ローマ神話ではバックスBacchusと呼ばれ、これの英語読みがバッカスです。
一般的に「ディオニュソス」より「バッカス」の名の方が有名で、日本を始め世界中に「バッカス」の名が付く飲食店があります。
ゼウスはテーバイ国の王女セメレを愛人にして、妊娠させました。
しかし、ゼウスの本妻へラの陰謀に引っかかったゼウスはセメレを雷の熱で焼き殺してしまいました。
セメレの死を嘆き悲しんだゼウスは、その焼けただれた腹から胎児を取り出し、自分の大腿に埋め込みました。その4ヶ月後にゼウスは子供を取り出し、ディオニュソス(バッカス)と名付けたのです。
成長したディオニュソスは、ブドウ栽培とブドウ酒の製法を教える酒の神となりました。
彼の周りには熱狂的な女性信徒が集まり「バッカイ」(バッコスの信女)と呼ばれました。
昼間から酒を飲み、ディオニュソスの神秘によって、恍惚とした熱狂状態に陥った信女達は、狂喜乱舞し、乱交し、動物を八つ裂きにし、生肉を食らうなど、狂乱の酒宴を行いました。
この狂った祭儀は「ディオニュソスの密議(バッカナリア)」と呼ばれ、後にギリシャ悲劇に発展しました。
そのため、バッカスは演劇の神でもあるのです。
狂乱の女性信徒達は、ツタの冠を被(かぶ)り、ツタが絡んだ杖を振りかざし、叫びながら乱舞しました。
狂暴・猥褻(わいせつ)で理性を失っていました。
この様子は、「マイナス」mainas(狂った女)(複数形:マイナデス)と称されました。
"mainas"は"mania"(躁病、熱狂、マニア)の語源になりました。
「マイナス」という発音から、「プラス・マイナス」の"minus"を思い浮かべてしまいますが、「狂乱」の"mainas"とは無関係です。
集団的陶酔の祭儀「ディオニュソスの密議(バッカナリア)」はまさにアルコール依存症患者が酩酊し乱痴気騒ぎを起こしている様子と一致します。
そこで荒れ狂う"mainas"達は、バッカ(馬鹿)でマイナスのイメージに満ちていますね。
ところで、アルコール"alcohol"の語源は、アラビア語の"al-kuhl"です。
"al"は定冠詞(英語では"the")、"kuhl"は「コール(墨)」を指しますから、平たく言えば、"alcohol"は「墨」という意味なのです。
アラブ人は男女共に古来より、風土病であった眼病の予防のために「コール (墨)」を瞼(まぶた)や眉毛に塗ります。
顔に塗るため、サラサラした微粒子であることが必要で、火で熱する「昇華」法によって作られます。
一方、ワインを「蒸留」して強い酒(ブランデー)を作ることが盛んに行われるようになりました。
「昇華」も「蒸留」も火で熱して精製するという点では同じです。
そのため、15-16世紀の医師・化学者パラケルススはワインを蒸留して得られた酒を"alcohol vini"(ワインから作ったコール(墨))と呼んだのです。
その後、"alcohol vini"はブランデーと呼ばれるようになりました。
そして、アルコールという言葉は、通常エチルアルコールを指すようになり、酒の代名詞になりました。
2024年
12月
01日
日
令和6年12月1日
ウッフィツィ美術館
10.アポロンApollon
アポロンは、既に何度か登場していますので、今回は違う話を紹介します。
アポロンはギリシア神話に登場するオリンポス十二神の一人であり、ゼウスの息子です。
ローマ神話ではアポロと呼ばれます。
詩歌や音楽など芸能・芸術の神、羊飼いの守護神、兵隊を次々と倒す「遠矢(とおや)の神」、疫病の矢を放ち人を殺す神、病を払う治療神、神託を授ける予言の神など、付与された性格は多岐に亘ります。
古代ギリシャにおいては理想の青年像と考えられ、光明(こうみょう)の神でもあったため、後には太陽神ヘリオスと混同されるようになりました。
アメリカが20世紀後半の宇宙開発を「アポロ計画」と名付けたのも、光の神アポロが輝く馬車に乗り天空を駆け巡(めぐ)る姿にあやかりたかったからです。
アポロンは美青年だったので、無数の恋愛をしましたが、一人だけアポロンの求愛を拒否した娘がいます。それがダプネーDaphneです。英語ではダフネと発音します。
彼女は川の神ペネイオスの愛娘(まなむすめ)で大変な美女でした。
大蛇(だいじゃ)ピュトンを射殺したアポロンが、愛の神エロスが持つ小さな弓を「そんな弓では何も仕留められまい」とからかいました。
怒ったエロスは仕返しに、黄金の矢(愛情を芽生えさせる矢)をアポロンに、鉛の矢(愛情を拒絶させる矢)をダプネーに、放ったのです。
このため、アポロンはダプネーを追いかけましたが、ダプネーは逃げました。
ダプネーを追いつめたアポロンが彼女を捕まえかけた時、父ペネイオスは娘を月桂樹に変身させました。
失意のアポロンが「私の妻になれないのなら、せめて私の樹になって欲しい」と頼むと、ダプネーは枝を揺らしてうなずき、月桂樹の葉をアポロンの頭に落としました。
以後、競技の勝者や大詩人に「月桂冠」を与え、名誉を讃(たた)えるようになりました。
月桂樹は、後世では、魔女や悪魔を防ぐ魔除けとして使われました。
また、キリスト教では、「不滅」の象徴として、殉教者の冠に用いられました。
ついでに言うと、日本の10円硬貨の裏面にも、月桂樹の葉が描かれています。
アポロンとダフネの故事に因(ちな)み、古代ギリシャ語では月桂樹をdaphneと呼びます。
月桂樹の学名(ラテン語)はラウルス・ノビリスLaurus nobilis といいます。
「気品のある緑の葉」という意味で、その名のとおり、葉は芳香成分を含んでいます。
そのため、葉を乾燥させたものは、フランス語ではローリエlaurier、英語ではローレルlaurelまたはベイリーフbay leafと呼ばれ、香辛料として世界中で使われています。
我が家でもカレーやビーフシチューにローリエを欠かしません。
月桂樹の葉には、強い香りの他に、アルコール吸収抑制作用や唾液・胃液の分泌亢進作用などがあるそうです。
古代ギリシャ語で月桂樹を意味したdaphneは、現在の英語では沈丁花(じんちょうげ)を意味する言葉fragnant daphne(良い香りのダフネ)に転用されています。
沈丁花の学名もDaphne odoraで、やはり「良い香りのダフネ」という意味です。
月桂樹の葉と沈丁花の花のどちらも、良い香りがするため、混同されたのだと思います。
蛇足ですが、花王の生理用品「ロリエ」は「月桂樹」と「月経」の掛詞(かけことば)だそうです。
どちらも「げっけい」ですが「けい」の字が違いますね。
2024年
10月
31日
木
令和6年11月1日
ウッフィツィ美術館
9.ゼウス
ゼウスZeusは、ギリシャ神話の主神で全知全能の神です。
全宇宙や天候を支配し、人類と神々双方の秩序を守護する天空の神であり、オリンポス十二神を始めとする神々の王です。
全宇宙を破壊できるほど強力な雷を武器とし、多神教の中にあっても唯一神的な存在で、強大で絶対的な力を持ちます。
ゼウスはローマ神話ではユピテルJuppiterです。
ユピテルは英語読みではジュピターJupiterで、太陽系で最大の惑星「木星 Jupiter」の名の由来となりました。
木星は最大だから、全能の神ゼウス(ユピテル)の名が与えられたのです。
ゼウスは世界の中心を定めるため、世界の両端から2羽の鷲(わし)を放ちました。
2羽は世界を横切って飛び、デルポイ(デルフィ)で交差しました。
デルポイは、ちょうど「大地の女神」ガイアの𦜝(へそ、オンファロスOmphalos)の部分にあたりました。
ガイアはここに神託(しんたく)所を置いて、人間に未来を教えていました。
神託所はガイアにも人間にも大切な場所ですから、ガイアは自分の息子である大蛇(だいじゃ、龍)のピュトンに守らせていました。
ゼウスは、世界の中心で、自分の意志を人間に伝え、導こうと思っていました。
そこで、ゼウスは息子のアポロンに、ガイアの神託所を強奪するよう命じました。
アポロンは白鳥が引く車に乗ってデルポイに行き、金の矢で大蛇ピュトンを殺し、大地の裂け目に投げ込みました。
そして、裂け目を聖なる石で封印し、その上にアポロン神殿を建てました。
ここでは、以後、数百年に亘(わた)り、巫女(みこ)が人間達に神のお告げを伝えました。
「デルポイ(デルフィ)の神託」あるいは「アポロンの神託」として有名です。
また、大蛇ピュトンを封印した石は「オンファロス(𦜝)の石」として現存します。
元々「中心」を意味するラテン語「ウンビリクス umbilicus」は、ゼウスの「世界の中心」の故事に因(ちな)んで、「𦜝」を意味する解剖学用語になりました。
𦜝帯(ヘソの緒)umbilical cord、𦜝(さい)ヘルニア(出べそ)umbilical herniaなどと使います。
𦜝はギリシャ語ではオンファロスomphalos、ラテン語ではウンビリクスumbilicusと呼ぶ訳ですが、英語ではネイヴァルnavelやベリー・バトンbelly button(お腹のボタン)と言います。
2024年
9月
30日
月
令和6年10月1日
ウッフィツィ美術館
8.ヒュギエイア
ヒュギエイアについては平成34年10月1日号フィレンツェ編でも触れましたが、もう少し詳しく述べます。
ヒュギエイア"Hygieia"は、ギリシャ神話に登場する女神です。
医術の祖アポロンの子である医神アスクレピオスの娘の一人です。
つまり、アポロンにとっては孫です。
父アスクレピオス神と同様、蛇を従え、薬や水を入れる杯(さかずき)(または壺(つぼ))を携(たずさ)えています。
(アスクレピオスの蛇に、杯(壺)に入れた餌(えさ)を与えている、という説もあります)
この蛇と杯をモチーフにした「ヒュギエイアの杯」を、多くの国の薬剤師会がシンボルマークにしています。
アスクレピオスの杖が医学の象徴で、ヒュギエイアの杯は薬学の象徴という訳です。
アスクレピオス信仰が広がるにつれて、ヒュギエイアに対する信仰も厚くなりました。
ヒュギエイアは女性神であったため、女性の健康を守る神として崇(あが)められるようになりました。
当時の女性の間に、ヒュギエイアの彫像を髪飾りにすることが流行したそうです。
Hygieiaはギリシャ語の"hygies"(ヒュギエス)(健康な)に由来しており、英語の"hygiene"(ハイジーン)(清潔、衛生、衛生学)の語源でもあります。
ギリシャ神話のヒュギエイアは、ローマ神話ではサルース"Salus"と呼ばれます。
"Salus"が健康の女神ですから、イタリア語では健康を"salute"(サルーテ)といいます。
「ハイジーン」と聞くと女性用生理用品を思い浮かべる人がいるかも知れません。
本稿を読んだ今日からは、ギリシャ神話の健康の 女神を思い出して下さいね。
以下にヒュギエイア像と種々のロゴマークを示します。
いずれも、「ヒュギエイアの杯」が薬学の象徴です。
2024年
8月
31日
土
令和6年9月1日
ウッフィツィ美術館
7.受胎告知(さらに続き)
新約聖書の4つの福音書の一つ、「ルカによる福音書」を残した聖ルカは医師でした。
さらに、彼は、初めて聖母子(せいぼし)(マリアとイエス)の肖像画を描いた人物と言われています。
そのため、彼は医師・画家、双方の職種の守護聖人とされています。
医師と画家は、共に聖ルカという聖人の守護の元に仕事をする職業だった訳です。
このため、中世ルネサンスの時期には、医師・薬剤師・画家は、同じギルド(組合)に属していました。
医学と美術の密接な関係はキリスト教に由来することが分かりましたが、次のような別の理由もあるそうです。
「医師や薬剤師は、肉体を癒(いや)す薬の調剤のために鉢(はち)を用いる。
画家も、病(や)める者の心を癒す絵を描くための顔料(絵の具)を作るために鉢を用いる。
医師も画家も、鉢を用いる点で同業者である」
ところで、医師であった聖ルカの「聖母マリアは処女受胎し、イエスを産んでも未(いま)だなお処女であった」という記述は、現代の医学では到底認められません。
それどころか、4世紀のミラノ司教アンブロシウス(聖アンブロージョ)に至っては、「聖母マリアには腹門(ふくもん)があった。ゆえに、膣が塞(ふさ)がれていたにもかかわらず、キリストは無事に胎外(たいがい)に出られたのだ」と言ったそうです。
21世紀の今、私のような凡人が同じことを言っても一笑に付されるだけです。
しかし、キリスト教が広まっていった時代にあっても、「永遠の処女、聖母マリア」説に対して懐疑(かいぎ)的な人達がいました。
特に、出産に臨(のぞ)み、胎児を取り出していた産婆(さんば)達は、経験的に「子供を産んだ女性が処女である筈(はず)がない」と知っていました。
15世紀から16世紀、全ヨーロッパに吹き荒れた魔女狩りの嵐は、特に産婆に対して厳しいものでした。
キリスト教の教義を心から信じることができない産婆達が魔女狩りの標的にされたのは、気の毒ではありますが理解できます。
中世の人文学者エラスムスの「愚神礼賛(ぐしんらいさん)」から、この問題についての揶揄(やゆ)にあふれた文章を紹介します。
「皆さんに伺いますが、人間は一体どこから生まれるのでしょうか?
頭からですか?顔、胸からですか?
手とか耳とかいう、いわゆる上等な器官からでしょうか?
いいえ、違いますね。
人類を増やしてゆくのは、笑わずにその名も言えないような、実に気違いめいた、実にこっけいな別の器官なのですよ」
聖ルカ(Saint Lucas, St. Luke)は、日本語では「路加」と書きます。
築地にある聖路加国際病院は、その名の通り、聖ルカを医学の守護者として仰(あお)ぎ、キリスト教精神に則(のっと)り運営されています。
聖路加国際病院については、いずれ「医学の歴史を訪ねて 東京編」の項でお話します。
2024年
7月
31日
水
令和6年8月1日
ウッフィツィ美術館
7.受胎告知(続き)
前号で、ビートルズの曲でも聖母マリアが歌われていると述べ、その1例として「レディー・マドンナ」を挙げました。
しかし、もっと有名な曲の中で、ビートルズは聖母マリアを礼賛しています。
皆さんもよくご存じの名曲"let it be"(レット・イット・ビー)です。
曲の冒頭の歌詞は以下の通りです。
When I find myself in times of trouble
Mother Mary comes to me,
Speaking words of wisdom, let it be.
この中の、"Mother Mary"とはもちろん聖母マリアを指します。
そして、"let it be"は、新約聖書「ルカによる福音書 第1章」の中で、マリアがイエスを身ごもったことを告げた天使に向かって、マリアが返した言葉、
"Let it be to me according to your words."
「あなたのお言葉の通りになりますように」
(つまり、「神の御心(みこころ)に従い、私は神の子イエスを産みます」という意味)
から引用しているのです。
私はつい最近まで、"let it be"は「なるようになるさ」という意味だと思っていましたが、違いました。
以上より、名曲「レット・イット・ビー」の冒頭の歌詞を和訳すると、こうなります。
私が困難に直面すると
聖母マリアが現れ
叡智(えいち)に満ちた言葉をおっしゃる
どうか神の思(おぼ)し召(め)すままに
何と素晴らしい歌詞でしょうか!
確かに、聖母マリアの叡智に満ちた言葉が「なるようになるさ」ではオカシイですね。
やはり、「どうか神の思し召すままに」が正しいのだと、改めて思います。
医学分野にも「マリア」の名が付く病名があります。
「シスター・メアリー・ジョセフの結節」:
これは、癌が臍(へそ)に転移したため生じる結節で、予後(よご)不良(余命が短い)を示唆する皮膚転移として知られています。
メアリー・ジョセフは発見者である看護婦の名前です。
彼女はアメリカにある有名なメイヨー・クリニックの前身「聖マリア病院」の看護婦で、この臍変化がある患者の多くは胃癌で死亡することを報告したのです。
蛇足ながら、看護婦・病院の名前まで"Mary(Maria)"(メアリー(マリア))です。
2024年
6月
30日
日
令和6年7月1日
ウッフィツィ美術館
7.受胎告知(じゅたい こくち)
15世紀、レオナルド・ダ・ヴィンチが20才頃の最初の単独作品です。
キリスト教の新約聖書に書かれている題材を、遠近法を用いて見事に描いています。
処女マリア(向かって右)の前に天使ガブリエル(向かって左)が舞い降り、マリアが聖霊によってキリストを懐妊したことを告げ、マリアがそれを受け入れている場面です。
私の手許(てもと)にある新約聖書の「ルカによる福音書 第1章」から抜粋(ばっすい)します。
天使ガブリエルは、ナザレに住むマリアという乙女(おとめ)の元(もと)に神から遣(つか)わされた。
マリアはヨゼフの婚約者であった。
天使はマリアに近寄り、「あなたは子を身ごもっています。その子が生まれたらイエスと名付けなさい。彼は主(しゅ)なる神の御心(みこころ)に従い、永遠に国を治めるでしょう」と言った。
そこで、マリアが「男を知らない私が、どうして母になれるのでしょうか?」と尋ねた。すると、天使は「聖霊があなたに下ったのです。生まれる御子(みこ)は神の子です」と答えた。そこで、マリアは「私は神のしもべです。あなたのお言葉の通りになりますように!」と答えた。そして、天使は去った。
皆さんもよくご存じのように、精子と卵子が融合し(受精)、その後、受精卵が子宮内膜に着床(ちゃくしょう)することによって妊娠が成立します。
新約聖書によると、ヨゼフと結婚する前の処女マリアの子宮内に、聖霊が神の子を着床させました。やがてマリアはその子を分娩し、イエスと名付けたのです。
世界中のキリスト教信者は、これを信じて疑いませんし、イエスが生まれた12月25日をクリスマスと呼んで盛大に祝っています。
仏教国である日本でも、多くの人が、イエス・キリストの生誕(せいたん)祝いであることを知らずに、クリスマスを年中行事にしています。
マリアが夫であるヨゼフと交わった結果、生まれた子がイエスであると思っている人も多いようですが、そうではありません。
あくまで、処女でありながら、イエスの母となった点が重要なのです。
天使が携(たずさ)えている白百合の花は、マリアの純潔・貞操の象徴であり、フィレンツェの象徴でもあります。
聖母マリアの「マリア」とは、ヘブライ語で「神に愛された者」という意味です。
世界では"Holy Mother"(聖母)より、"Virgin Mary"(処女マリア)、"the Virgin"(処女)、"Saint Mary"(聖女マリア)、"Santa Maria"(サンタ・マリア)、"Our Lady"(我らが貴婦人)、"the Madonna"(マドンナ)などと呼ばれることが多いのです。
フランスのノートルダム大聖堂の"Notre Dame"(ノートル・ダム)も「我らが貴婦人」という意味で、聖母マリアを指します。
そう言えば、ビートルズの曲に"Lady Madonna"(レディー・マドンナ)というのがありましたね。
これも、聖母マリアです。
ポール・マッカートニーは自分の母親がMaryであったせいか、聖母マリアがとても好きです。
同じく、彼が作った名曲”Let it be”(レット・イット・ビー)にも”Mother Mary”(聖母マリア)が登場しますね。
"Mary"(マリー、メアリー、メリー)や"Maria"(マリア)は聖母マリアに因(ちな)んだ名前で、当然、女性の名前として世界で最も多いものです。
日本でも「マリ」や「マリア」と発音する名前の女性は多いですね。
真理(まり)さん、真理子(まりこ)さん、茉莉(まり)さん、麻里(まり)さん、真莉愛(まりあ)さん、麻里亜(まりあ)さん、・・・。
他にも、沢山(たくさん)あります。
聖母マリアが日本でも愛されていることが分かります。
2024年
5月
30日
木
令和6年6月1日
ウッフィツィ美術館
7.ヒポクラテス 続き
「医学の父」だけあって、「ヒポクラテス」の名は医学用語に多く用いられています。
① ヒポクラテス顔貌(がんぼう)
目・頬は窪(くぼ)み、鼻はとがり、顔の皮膚は硬くて黒ずんでいます。
癌末期など、重態患者の顔貌です。
決して、ヒポクラテスのような顔つきという意味ではありません。
瀕死の患者さんの顔つきを、ヒポクラテスが初めて記録したため、こう呼ばれます。
②ヒポクラテス爪(つめ)
爪が大きくなり、丸く隆起した状態です。
ヒポクラテスが肺疾患との関係を最初に発見したため、こう呼ばれます。
時計皿(とけいざら)を逆さに伏せたような形状から、時計皿爪ともいいます。
手足の指先が太鼓ばちのように肥大する「ばち状指(し)」に伴います。
指の末端の軟部組織にムコ多糖類が沈着するために生じる、と考えられています。
肺癌・肺気腫・慢性気管支炎などの肺疾患だけでなく、心不全や肝硬変などでも見られます。
② ヒポクラテス法
ヒポクラテスが考案した、肩関節脱臼(「肩がはずれる」こと)や顎(がく)関節脱臼(「アゴがはずれる」こと)の整復法をヒポクラテス法と呼びます。
2024年
4月
27日
土
令和6年5月1日
ウッフィツィ美術館
7.ヒポクラテス
ヒポクラテス(紀元前5世紀生まれ)は古代ギリシャの医師です。
エーゲ海のコス島に生まれ、ギリシャ神話の医神アスクレピオスを祀(まつ)ったアスクレピオン神殿で医学を学びました。
ヒポクラテスの最も重要な功績は、医学を迷信や宗教から切り離し、臨床と観察を重んじる自然科学へと発展させたことです。
彼は、病気が神や悪霊の仕業(しわざ)ではなく、血液・粘液・黄胆汁(おうたんじゅう)・黒胆汁(こくたんじゅう)の4つの体液のアンバランスにより生じると考えました。
また、骨折した腕(うで)や脚(あし)の牽引(けんいん)、脱臼(だっきゅう)の整復、出血をくい止める止血帯(しけつたい)の使用、心肺の聴診など、先進的な診断・治療を行いました。
ヒポクラテスは、各地を旅し、医学を教え、診療を行いました。
彼の教科書・講義録・随筆・メモなど70以上の文書が収められた「ヒポクラテス全集」が今日まで残っています。
古代ギリシャ語で書かれていますが、様々な文体が用いられており、著者はヒポクラテスだけでなく、彼の弟子達を含め、20人位いると考えられています。
さらに、医師が守るべき規範と倫理について述べた「ヒポクラテスの誓い」は現代まで受け継がれ、医学教育の現場で引用されています。
彼は、「医師は身だしなみを整え、専門家であるべきだ。冷静、誠実、正直、率直な態度で患者に向き合わなければならない。師を尊(たっと)び、知識を他の者に伝えよ」と教えています。私も肝に銘じています。
ヒポクラテスは、人間の置かれた環境(自然環境、政治的環境)が健康に及ぼす影響についても、先駆的(せんくてき)な研究をしました。
また、「人生は短く、医術の道は長い」という有名な言葉も残しています。
これらヒポクラテスの功績は、古代ローマの医学者ガレノスを経(へ)て、今の西洋医学に継承(けいしょう)されています。
そのため、ヒポクラテスは「医学の父」、「医聖(いせい)」などと呼ばれます。
「ヒポクラテスの誓い」の主要な箇所(かしょ)を抜粋(ばっすい)します。
① 医神アポロン、アスクレピオス、ヒュギエイア、パナケイア、及び全ての神よ。私は、この誓約(せいやく)を守ることを誓(ちか)う。
アポロン:アスクレピオスの父親、ヒュギエイア:アスクレピオスの長女、パナケイア:アスクレピオスの次女)
② 私は、患者に利(り)すると思う治療法を選択し、有害な方法を選択しない。
③求められても、死をもたらす薬を与えない。
④婦人に、流産をもたらす道具を与えない。
⑤どんな家を訪れる時も、病者の利益を目的とし、不適切な行為、特に男性や女性との性的関係を避ける。
⑥人々の生活について、恥となることを見たり聞いたりしても、他言(たごん)しない。
⑦この誓いを守り続ける限り、私は人生と医術を享受(きょうじゅ)し、全ての人から尊敬されるであろう。
しかし、誓いを破れば、反対の運命を賜(たまわ)るだろう。
この中で、特に⑤は、いかにも古代ギリシャらしいですね。
私は医者になってから今日に至るまで、「往診先で性的関係」などという話は、見たことも聞いたこともありません。
「ヒポクラテスの誓い」の倫理的精神を現代的に改定した「ジュネーブ宣言」が1948年、第2回世界医師会総会にて採択されました。
その後、5回の改定を経て、現在の版に至りました。
抜粋します。
①生涯を人道のために捧げる。
②人道的立場にのっとり、医を実践する(道徳的・良識的配慮)。
③人命を最大限に尊重する(人命の尊重)。
④ 患者の健康を第一に考慮する。
⑤ 患者の秘密を厳守する(守秘(しゅひ)義務)。
⑥患者に対して偏見を持たず、差別しない(患者の非差別)。
現在、日本を始め、多くの国で、この考え方が採用されています。
2024年
3月
31日
日
令和6年4月1日
ウッフィツィ美術館
6.アリアドネ
ギリシャ神話には、次のような話があります。
全能の神ゼウスの子ミノスが、クレタ島の王様になりたいと思いました。
ミノスは「自分が王になるのが神の意志」であることを示すため、海神ポセイドンに頼み、後で返す約束で、海から生まれた雄牛を貰(もら)いました。
ミノスは海神から貰った雄牛を人々に見せて、「自分は神から王として認められた」と主張し、政敵を押さえてクレタ島の王となりました。
しかし、その後、ミノスはこの雄牛があまりに美しいため、海神ポセイドンに返すのが惜しくなり、隠してしまいました。
ミノスの約束違反に怒ったポセイドンは、罰として、ミノスの妃パシファエをこの雄牛への邪恋(じゃれん)に狂わせるように、仕向けました。
雄牛に恋した王妃パシファエは、雄牛と交わり、「頭が牛・身体が人間(牛頭人身)」の怪物ミノタウロス(「ミノスの牛」という意味)を産みました。
ミノタウロスは成長するにつれて乱暴になり、手に負えなくなりました。
そこで、ミノスは、この怪物を迷宮ラビリントス"Labyrinthos"(クノッソス宮殿)に閉じ込め、属国のアテナイ(アテネ)から送られてくる少年少女を餌(えさ)として与えました。
この迷宮ラビリントスは、入ったら2度と出られないと言われていました。
アテナイの英雄テセウスは自ら志願し、ミノタウロスの餌食(えじき)としてラビリントスに侵入しました。この際に、テセウスを手引きしたのが、ミノス王の娘 アリアドネです。
テセウスに恋したアリアドネは、テセウスに糸の玉を渡し、糸の端を迷宮の扉に結び付けました。糸をほぐしながら迷宮を進んだテセウスは、怪物ミノタウロスを退治した後、糸をたどりながら来た道を戻りました。
この神話が元になり、迷宮を表す紋様(もんよう)は「苦難の旅」の象徴となり、難問解決の手段を「アリアドネの糸」と呼ぶようになったのです。
解決しない難事件が「迷宮入り」と言われるのも、この神話に基づきます。
また、古代のクレタ島では、実際に人間と牛が交わる(?)という儀式があったそうです。
迷宮ラビリントスを脱出したテセウスは、アリアドネを連れて船でアテナイへの帰国の途につきました。その途中、一行はナクソス島に寄港しました。
ところが、この島では、眠っているアリアドネを、酒の神ディオニュソス(バッカス)が連れ去ってしまいました。ディオニュソスは彼女に金の冠を与えました。
その冠は、後に星座「かんむり座」となりました。
アリアドネを失い悲嘆にくれたテセウスは、クレタ島への出発前にアテナイの王である父アイゲウス"Aegius"と、「生きて帰れた時は船の帆を黒から白に張り替える」と約束していたことを忘れてしまいました。
息子の生還を待ちわびていたアイゲウスは、黒い帆を見て息子が死んだと思い、絶望のあまり、海に身を投げて死にました。その海は、「アイゲウスの海」という意味の「エーゲ海」"Aegean Sea"と呼ばれるようになりました。
耳の奥の内耳は聴覚と平衡感覚を司(つかさど)る重要な器官ですが、その解剖学的構造が甚(はなは)だ複雑なため、「迷路」"Labyrinth"(ラビリンス)と呼ばれます。
迷宮ラビリントスに因(ちな)みます。