Message from the Directorを更新しました(Jan 1,2025)。
Exploring the History of Medicine, Part 51: Florence, Part 31
院長から一言を、掲載順に(現在から過去に、1年分)並べてあります。
2025年
9月
30日
火
令和7年10月1日
フォロ・ロマーノForo Romano(続き)
フォロ・ロマーノは全体的に道路面よりかなり低くなっています。
それもその筈(はず)、前号で述べたように、ここは古代ローマ時代に丘と丘の間の沼地を干拓して造られた広場だからです。
市民の集会や裁判、商業活動や政治討論の場として設けられた「公共広場forum」であり、買い物広場でもありました。
古代ローマの発展の中核だった訳です。
ちなみに、現代英語のforum(フォーラム)は、もっぱら「公開討論会」の意味で用いられています。
紀元前5世紀の共和政時代初期には、フォロ・ロマーノは市民の公共生活の中心となり、ローマの発展と共に繁栄していきました。
しかし、やがて帝政が敷かれて、諸皇帝の広場ができると、フォロ・ロマーノはその本来の役割(民主政治の中心)を失い、むしろローマの偉大さと栄光を示すシンボルに変わっていきました。
その後、たび重なる蛮族の侵入で破壊されたフォロ・ロマーノは、中世には放牧の原となり、残った遺跡は壊され、建築材料として持ち去られました。
19世紀になって考古学的な発掘が行われるまで、かつてここに偉大なローマの中心があったことさえ、忘れ去られていたのです。
フォロ・ロマーノの一番西の奥に「セヴェルス帝の凱旋門」が建っています。
その左脇には、「ローマの臍(へそ)」"Umbilicus Urbis"と呼ばれる、直径4mのレンガでできた円があり、文字通りローマの中心でした。
そして、セヴェルス帝の凱旋門のすぐ左下にある細長い台座が、ロストリ"Rostri"と呼ばれる演壇です。
紀元前1世紀にカエサル(ジュリアス・シーザー)が行ったフォロ・ロマーノの改修で、現在の場所に移されました。
高さ約3m、長さ12mの凝灰岩でできています。
ここで、キケロなどの雄弁家が、広場に集まった市民に向かって弁を振るいました。
ローマ時代には、公職を志願する候補者は、自らの清廉潔白を示すために、トーガ"toga"(布を緩やかに体に巻き付ける衣服)をチョークで白く塗り、人々の支援を求めて、この演壇で演説したり、町を歩き回ったりしました。
白衣を着ている人は一点の汚(けが)れもないことを示し、公職にふさわしいと訴えたのです。
白衣を着ている候補者を、当時candidatus(カンディダートゥス)と呼びました。
その元はラテン語のcandere(カンデーレ、白く輝く)です。
現代英語でも、候補者・志願者をcandidate(キャンディデイト)といいます。
candle(ローソク)、chandelier (シャンデリア)、オランダ語 kandelaar(カンテラ、携帯用の石油灯)など、すべて同じ語源に由来します。確かに、みんな「白く輝き」ますね。
さて、医学用語にもCandida (カンジダ)というカビの名前があります。
これも、このカビが乳白色で光沢のある塊(かたまり)を作るからです。
ちなみに、Candida albicans(白色カンジダ)という種類がありますが、直訳すると「白く輝く白い物」です。
いくら白いにしても、おかしな名前です。
次号に続く
2025年
8月
30日
土
令和7年9月1日
フォロ・ロマーノForo Romano(続き)
前号で述べたように、ローマは7つの丘から始まりました。
丘と丘の谷間には7つの丘から小川が流れ込み、湿地帯を形成していました。
そこでは、蚊が大量に発生し、人が住むには不向きでした。
そこで、沼地を干拓して人が住めるようにしようと考えたのが、紀元前6世紀のタルクィニウス王です。
彼は下水道の建設事業に市民を駆り立てました。
あまりに市民を酷使したため、彼はローマから追放されてしまいましたが、彼の着想は
後にクロアーカ・マッシマ(巨大な下水溝)と呼ばれる下水道として実を結びました。
1.5kmに亘(わた)って建設されたこの巨大な排水溝が、沼の水をテヴェレ川まで運び、湿地帯をローマの都に変えたのです。
その中心が、今も残る市民広場フォロ・ロマーノです。
排水溝は紀元前4世紀には暗渠(あんきょ)化されました。
このローマの幹線下水道は、ローマ帝国崩壊以来、掃除されたことがないそうです。それにもかかわらず、今もなお、立派に機能しています。
古代ローマの医学史上最大の功績が、上下水道、公衆浴場の建設など、公衆衛生の発達です。
クロアーカ・マッシマはCloaca Massimaと書きます。
massimaはmassimo(最大の)の変化形です。
英語の maximum と同様にラテン語の maximusマクシムス(最大の)に由来します。
cloacaは下水道排水溝という意味ですが、解剖学では総排泄腔(そうはいせつくう)と訳されます。
鳥やカエルなどに見られる、直腸・膀胱・尿道・生殖器を兼ねる器官です。
総排泄腔をもつ動物では、排泄物(糞や尿)も卵や精子も、同じ穴から体外に排出されるのです。
学生時代に解剖学で習いましたが、下水溝という意味があるとは知りませんでした。
私や皆さんは、帝王切開で産まれた人を除いて全員、下水から出て来たことになりますね!
次号に続く
2025年
7月
31日
木
令和7年8月1日
フォロ・ロマーノForo Romano
古代ローマの公共広場です。
理解し易いように、まず、ローマ発祥の伝承から説明します。
現在のトルコに「トロイ」という都市があります。
古代ギリシャ軍がトロイを攻め滅ぼしたのが「トロイア戦争」です。
生き残ったトロイアの青年アエネアスが、後にイタリア半島へ上陸しました。
そのずっと後の子孫である「ロムルス」と「レムス」という双子の兄弟は、赤ん坊の時にテヴェレ川に流され、メスの狼に育てられました。
双子の兄弟は成長し、自分たちが流れ着いた地点に町を建設することにしました。
その町に兄弟どちらの名前をつけるか喧嘩(けんか)になり、丘に登って鳥をたくさん見た方が勝ち、と決めました。
また、町の壁を越えて来る者は殺すという誓約も結びました。
弟のレムスは、アヴェンティーノの丘に登って6羽の鳥を見ました。
兄のロムルスは、パラティーノの丘に登って12羽の鳥を見ました。
ロムルスが勝ったので、彼は新しい街の城壁を築くために線を引き始めました。
街の名はロムルスの名に因(ちな)んで「ローマ」と呼ぶことにしました。
賭けに負けたレムスが、八つ当たりして街の壁をけり壊したため、ロムルスはレムスを殺してしまいました。
弟を立派に埋葬した兄ロムルスは、街に多くの人を住まわせました。
彼はローマを40年間統治し、雲の中へ消えていきました。
これが、紀元前8世紀のローマ発祥伝説です。
ローマは、パラティーノを初めとする7つの丘に囲まれています。
7つの丘は「ローマの七丘(しちきゅう)」と呼ばれます。
丘に囲まれた谷間は、丘の上から流れ込む水によって沼地を形成していました。
沼地は住むには適さず、もっぱら死者を葬(ほうむ)る場所として使われていました。
そこには、マラリアを媒介する蚊が群生(ぐんせい)していました。
当然、ローマ市民の間に、絶えずマラリアが流行しました。
紀元前1世紀前後には、マラリアが大流行したため人口が激減しました。
当時の有名な弁舌家キケロがローマを「悪疫(あくえき)の都」と呼んだくらいです。
人類を悩ませ続けてきた熱病をマラリアと名付けたのは、18世紀のイタリア人医師フランチェスコ・トルチです。
彼は、この熱病の原因が沼地の「悪い空気」"mal aria "であると考え、病名をイタリア語そのままのmalariaマラリアとしたのです。
マラリアに悩まされたのは古代ローマ人だけではありません。
マケドニアのアレキサンダー大王、エジプトの女王クレオパトラやツタンカーメン王、フィレンツェの詩人ダンテ、日本の平 清盛、カルカッタのマザー・テレサなどもマラリアに罹患したと言われています。
現代医学では、マラリアがハマダラカという蚊が媒介する感染症であることが明らかになっています。
残念ながら、今なお、世界中で毎年2億人以上の人がマラリアに感染し、40万人以上が亡くなっています。
私は医師になってから45年間、一度もマラリア患者に遭遇したことがありません。
しかし、地球温暖化に伴い、日本もマラリア流行地域になるのではないかと、危惧しています。
蛇足ですが、「良い空気」という意味の都市があります。
アルゼンチンの首都Buenos Airesブエノスアイレスです。
次号に続く
2025年
6月
30日
月
令和7年7月1日
コロッセオColosseo
ヴェスパシアヌス帝が1世紀に建設開始し、その息子ティトゥス帝が完成させた闘技場です。
長径188m・短径156m(円ではなく楕円形)・周囲521m・高さ57m・5万人収容という、文字どおり巨大な(コロッサーレcolossale)建造物でした。
東京ドームや甲子園球場より一回り小さい位の大きさです。
後世、表面を飾っていた大理石や上階部分の石材が持ち去られたため、現在のような姿になってしまいました。
観客席は身分・性別により仕切られていました。
地下には、猛獣の檻(おり)や器材・道具置き場のほか、人間・動物の移動のための大がかりな昇降装置(エレベーター)もありました。
猛獣と剣闘士、または剣闘士同士の凄惨(せいさん)な戦いが見世物にされました。
剣闘士(グラディエーター)となる者の大半は戦争捕虜や奴隷、犯罪者でした。
剣闘士は勝ち続ければ富を得ることもできましたが、ローマ人達からは「野蛮人」と見なされました。
その社会的地位は低く、売春婦と同類の最下等とされ、蔑(さげす)まされました。
剣闘士は養成所で長期にわたり訓練を施(ほどこ)されてから闘技会に出場しました。
しかし、重罪人は訓練を受けることもなく獄中から闘技会に引き出され、防具なしで戦い、大半は命を落としました。
養成所では闘技を指導する元(もと)剣闘士の訓練士や、高度な技術を持つ医師・マッサージ師などが働き、剣闘士の養成を行いました。
剣闘士は、訓練士によって、行進の仕方、武器の扱い、足技、突き刺した剣でどうやって動脈を切るかなどを指導され、徹底的にしごかれました。
藁(わら)人形を相手に殴りかかる練習をし、練習試合で経験を積みました。
訓練中の剣闘士は闘技会以外でのケガと反乱を防止するため、金属ではなく木製の武器を与えられました。
訓練についていけない落伍(らくご)者は闘獣士(とうじゅうし)になるか、過酷な罰が与えられ、耐えられずに自殺する者もいました。
ある者は便所の汚物洗浄用の棒を喉に突っ込み窒息死、また、別の者は馬車で移送中に車輪に頭を突っ込み絶命しました。
ローマ人の見世物として仲間同士で戦わされるのを嫌い、互いに喉を絞めあって果てた連中もいます。
訓練生の宿舎は厳重に監視され、夜は鍵を掛けて閉じ込められました。
彼らには栄養豊富な食事、特に大麦が主食として与えられました。
古代ローマでは、大麦を食べると脂肪が増えて出血を防げると考えられていたからです。
ただし、当時のローマ市民の主食は小麦であり、大麦は家畜の飼料だったので、剣闘士は侮蔑(ぶべつ)的に「大麦食い」と呼ばれました。
午前中は野獣狩りが催されました。世界中から集められたクマ、トラ、ライオン、ヒョウなどの猛獣やゾウ、キリンといった珍獣が闘技場に放たれ、闘獣士たちがこれを狩り殺しました。闘獣士は武装しており、猛獣と戦って生き残る者もいました。
しかし、無防備の重罪人と猛獣との戦いは公開処刑であり、大抵の重罪人が猛獣に食い殺されました。
午後は、罪人の処刑が行われました。
彼らは武器を持たされ、罪人同士で死ぬまで戦うか、剣闘士と戦って殺されました。
罪人の処刑が終わると、剣闘士の試合が始まりました。
決着がついた後、敗者について、観客が助命か処刑かを選択できました。
勝者にはシュロの小枝が与えられ、卓越した者には月桂冠が授けられました。
時には、詩人に讃(たた)えられ、壺(つぼ)などに肖像画が描かれたり、多額の金品や婦人達の愛顧(あいこ)を得る者もいました。
剣闘士は年に3回か4回程度の試合を行い、20戦ほどを経験するまでに死ぬか、引退しました。生き残る確率は20人に1人程度でした。
皇帝は見世物を提供して、庶民の人気を稼ぎ、社会に山積する問題から目をそらさせたのです。
キリスト教の公認後、血なまぐさい見世物は次第に下火になり、6世紀の半ばには廃止されました。
因みに、闘技場を英語でアリーナarenaといいます。
これは、ラテン語のharena(砂地)に由来します。
剣闘士や動物が流した血が貯まらないように、床に砂を敷き詰めたから「砂地」なのです。
横浜アリーナも、さいたまスーパーアリーナも、砂地という意味だったのですね。知りませんでした。
2025年
5月
31日
土
令和7年6月1日
テルミニ駅Stazione Termini
国際線、国内線の鉄道が頻繁に発着する、ローマ最大の駅で、町の交通の中心です。
ガラスと大理石を用いた、巨大な近代建築です。
ローマに鉄道が敷かれたのは比較的遅く、法王ピウス9世の発案で、1870年にテルミニ駅が建造されました。
その後、ローマが統一イタリアの首都となり、鉄道網が急速に発達したため、ムッソリーニの命により、「20世紀に即した」新しい駅の建設が始まりました。
途中、第2次世界大戦を挟み、完成までに13年の歳月を費やしました。
私は、「テルミニ」Terminiという言葉は、終着駅を意味する英語のterminal(ターミナル)やterminus(ターミナス)と関連した単語だと思っていましたが、そうではありませんでした。
ディオクレティアヌス帝の公衆浴場terme(テルメ)の跡地に造られたことに由来するのだそうです。
公衆浴場と言っても、日本の風呂屋とは段違いの大きさです。
370m×380m、約14万平方メートルの大きさで、甲子園球場の3.5倍位です。
ギリシャ語のtherme熱、thermos熱い、thermai温泉、から派生し、英語のthermae(サーミー)温泉・公衆浴場、イタリア語のterme温泉・公衆浴場となりました。
医療でも、thermometer(サーモメーター)温度計、thermostat(サーモスタット)温度調節器、thermography(サーモグラフィー)、hyperthermia(ハイパーサーミア)高熱・高体温、などなど日常的に用いますね。
「テルモTERUMO」という名前の医療機器メーカーもありますね。
この会社は、100年前の創業時、体温計の製造から始めたのだそうです。
当院でも、テルモの電子体温計を使っています。
「テルマエ・ロマエTHERMAE ROMAE」(ヤマザキ マリによる漫画)は、ラテン語で「ローマの公衆浴場」という意味です。
2012年、阿部 寛主演で映画化されました。
古代ローマ帝国の浴場設計師が現代日本にタイムスリップし、日本の風呂文化を学んでいく姿を描くコメディドラマです。
ところで、ディオクレティアヌス帝は、大浴場(カラカラ浴場)を建設したカラカラ帝からちょうど100年後の3世紀末に即位した皇帝です。
この皇帝が関わる最も重大な事件は、彼が4世紀始めに出した、キリスト教に対する禁教令です。
彼は自らをユピテル神になぞらえ、皇帝ディオクレティアヌスを神として崇拝するよう、キリスト教徒に強要しました。
また、ローマ古来の神々を崇拝し、ローマ古来の祭儀へ参加するようキリスト教徒に強要しました。
さらに、キリスト教徒を火あぶりの刑に処したり、見世物として円形闘技場に引き出してライオンの群れに食わせるといった公開処刑も行いました。
ついには、キリスト教の書物を焼却し、教会の財産も没収してしまいました。
結局、信仰の拠り所を無くすことを主眼としたものでした。
「ディオクレティアヌスの大迫害」と呼ばれます。
次のコンスタンティヌス大帝によってキリスト教が公認(313年「ミラノ勅令」)されるまで、約10年間続きました。
2025年
4月
30日
水
令和7年5月1日
大聖堂(ドゥオーモ)とガリレオ
大聖堂はピサ・ロマネスク様式建築の最高傑作です。
十字軍に参戦したピサは、11世紀にシチリアのパレルモ沖にてイスラム艦隊と海戦し、勝利しました。
この勝利を記念して、イスラム教徒から奪った金銀財宝を基(もと)に、50年の歳月をかけて、大聖堂が建てられました。
建築に用いられた円柱は、パレルモのギリシャ神殿から戦利品として運んできた物です。
内部には、歴史的・美術的に価値の高い作品が数多くありますが、特筆すべきは14世紀始めの説教壇(だん)です。
これは、イタリアン・ゴシックの彫刻の中でも最高傑作と言われています。
けれども、私達にとってもっと重要な物が、この説教壇の前にぶら下がっているランプです。
前号で述べた「落下の法則」の発見より以前の1583年の事です。
当時、ガリレオ・ガリレイはピサ大学医学部の学生でした。
教育熱心な父親から英才教育を受けた彼は、17歳で医学部に進学していたのでした。
彼は、ドゥオーモの説教壇の真ん前で、天上から吊り下がっているブロンズのシャンデリア(ランプ)が風に揺れるのを眺(なが)めていました。
そして、ランプの振り子の揺れ幅がしだいに小さくなっても、1往復の時間は変わらない事に気付きました。
医学生だったため、自分の脈で確かめたそうです。
これが「振り子の等時性(とうじせい)」という法則です。
以後、ピサの大聖堂のシャンデリアは「ガリレオのランプ」と呼ばれるようになりました。今日では、彼はこのランプより6年も前に、振子の法則を発見していたと考えられています。
その後、ガリレオは、医学部の講義に幻滅し、医学部を退学して数学・物理学・天文学の道に入っていきました。
ピサ大学やパドヴァ大学で長い間、これらの学問を教えました。
中でも、歴史的に重要なのが天文学における功績です。
①木星に衛星が存在する。②金星が満ち欠けする。③太陽に黒点が存在する。
以上3つの発見により、ガリレオはこれらが地動説(地球が太陽の周りを回っている)の証拠であると確信しました。
ガリレオが地動説を主張し続けたため、天動説(太陽が地球の周りを回っている)を信じるカトリック教会から有罪判決を受けた話は有名です。
ガリレオは教会の神父達よりも、キリスト教の本質をよく理解し、科学的な言葉で説いたために快く思われず、デタラメな裁判で有罪判決を受けたのです。
ガリレオへの刑は無期懲役でしたが、直後に減刑され軟禁となりました。
しかし、フィレンツェの自宅への帰宅は認められず、その後、死ぬまで監視付きの家屋に住まわされ、外出も禁じられました。
もちろん、すべての役職を剥奪されました。
死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬(ほうむ)ることも許されませんでした。
ガリレオの庇護(ひご)者のトスカーナ大公は、ガリレオを異端者として葬るのは忍びないと考え、ローマ教皇の許可が下りるまでガリレオの葬儀を延期しました。
ようやく、ガリレオの死後100年以上経った18世紀に、教皇の許可に基づく埋葬がフィレンツェのサンタ・クローチェ教会で行われました。
やがて、1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したのを発端に、ガリレオ裁判の見直しが始まりました。
そして、ついに1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、この裁判が誤りであったことを正式に認め、ガリレオに謝罪しました。
これは我々の記憶にも新しい出来事です。
ガリレオの死去から実に350年後のことです!
感慨深いですね。
2025年
3月
30日
日
令和7年4月1日
ピサの斜塔とガリレオ
ピサはフィレンツェから西へ90km、アルノ川がリグリア海に注ぐ河口の港町です。
最盛期(11~13世紀)にはヴェネツィア、ジェノヴァ、アマルフィと並ぶ海洋貿易国家として地中海に君臨しました。
その後、ピサが大学都市として名声を博するようになった16世紀に、ガリレオ・ガリレイがこの地に生まれました。
ガリレオはピサ大学で教鞭をとり、科学分野における同大学の名声を不動にしました。
ピサと言えば斜塔です。
イタリアで最も有名な建物です。
隣接する大聖堂(ドゥオーモ)の付属鐘楼(しょうろう)として、12世紀(日本では平安時代)に建築が始まりました。
湿地帯で地盤が弱いため、建築開始後、間もなく、塔は傾き始めました。
何度かの工事中断を経て、着工から200年後の14世紀(日本では室町時代)に、約5度傾いた状態で、塔が完成しました。
傾いた塔の高さは、北側で55.2m、南側で54.5mと、70cmの差があります。
最上層は最下層より、3mもずれているのです。
この斜めに傾いた塔を利用して、有名な実験を行ったのがガリレオ・ガリレイです。
彼はアリストテレス(古代ギリシアの哲学者)の「落下運動の速度は、物体の重さに比例する(重い物は軽い物より速く落下する)」という説が誤りだと主張しました。
これを実証するため、この斜塔の屋上南端から、大小二つの鉛の砲弾を落とすという実験を行ったのです。
鉛の砲弾を使用したのは、空気抵抗を無視できるほど小さくするために、比重の大きい(体積の小さい)物体を用いる必要があったからです。
その結果、大小両方の玉が同時に地面に落下することを確認しました。
そして、「物体の落下速度は、空気抵抗がなければ、その物体の重さによらず一定である」という説を17世紀、「新科学対話」で発表しました。
これがガリレオの有名な学説「落下の法則」です。
フィレンツェ編でも述べましたが、ガリレオ・ガリレイは天文学や物理学において、「自分の目で観察して確かめる」という手法を採りました。
彼は観察を重視し、自分の考えを証明するには実験するしかないと考えました。
今では当然の手法ですが、当時は伝統やカトリック教会という大きな壁が立ちはだかっていました。
しかし、ガリレオは屈することなく、己を信じて研究を続けたのです。
2025年
2月
28日
金
令和7年3月1日
サン・ジョヴァンニ洗礼堂 Battistero di San Giovanni 続き
洗礼者聖ヨハネ Saint John the Baptist に関連して、医療者が忘れてならないのは、セント・ジョンズ・ワート Saint John's Wort (「聖ヨハネの草」セイヨウオトギリソウ)という薬草です。
学名はHypericum perforatum(ヒペリクム・ペルフォラートゥム)。
古代ギリシャでこの花が「悪魔よけの像」の上に置かれていたことから、学名が「像icon」の「上hyper」を意味するラテン語ヒペリクムHypericumになったそうです。
その名のとおり、災いから身を守るための儀式で使用され、古くから「魔よけ」の植物として親しまれてきました。
ヨーロッパ原産ですが、後にアメリカなどへ伝播(でんぱ)し、現在では日本の一部地域でも野生化したセント・ジョンズ・ワートを見ることができます。
聖ヨハネの誕生日(聖ヨハネの日、6月24日)頃に黄色い花が咲き、伝統的にこの日に収穫されているため、聖ヨハネの名が付けられました。
ちなみに、日本の北海道では、7月中頃にかわいらしい黄色い花を咲かせます。
花びらをこすると赤い液体が出てくるので、洗礼者ヨハネの血からこの草が芽生えたと言い伝えられています。
セント・ジョンズ・ワートは古代ギリシャ以来、「悪魔を追い払うハーブ」と呼ばれ、儀式に用いられただけではなく、外用(塗布)して切り傷やヤケドに、内服してうつ病の治療薬として、用いられてきました。
アメリカ大陸の原住民族(アメリカ・インディアン)も人工妊娠中絶薬、抗炎症薬、消毒薬として使用していました。
また、赤や黄色の色素を作るためにも用いられています。
我が国においても、最近、セント・ジョンズ・ワートを含むサプリメント(錠剤、カプセル)やティーバッグ(ハーブ)が薬局やインターネット通販で売られています。
しかし、この草に含まれるヒペリシンやヒペルフォリンという物質を摂取することにより、体内で、ある種の薬物代謝酵素が誘導されます。
そのため、薬物の代謝(分解)が促進され、その血中濃度が低下するため、薬効が減少します。
また、セント・ジョンズ・ワートの摂取を急に中止すると、薬物分解促進作用がなくなるため、薬物の血中濃度が上昇し、副作用を招く危険もあります。
セント・ジョンズ・ワートにより影響を受ける薬物は以下の通りです。
これらの薬物を服用している方は、 セント・ジョンズ・ワートを摂取しないで下さい。
鉄剤
オメプラゾール(酸分泌抑制薬)
リバロキサバン、ワルファリン(血液凝固阻害薬)
フルボキサミン、パロキセチン、セルトラリン(抗うつ薬)
ジゴキシン、ジギトキシン、メチルジゴキシン(強心薬)
アミオダロン、キニジン、ジソピラミド、プロパフェノン(抗不整脈薬)
テオフィリン、アミノフィリン(気管支拡張薬)
フェニトイン、カルバマゼピン、フェノバルビタール(抗てんかん薬)
エストラジオール(卵胞ホルモン薬)
ボリコナゾール(抗真菌薬)
シクロスポリン、タクロリムス、エベロリムス(免疫抑制薬)
ゲフィチニブ、イマチニブ(抗悪性腫瘍薬)
インジナビル(エイズ治療薬)
2025年
1月
31日
金
令和7年2月1日
サン・ジョヴァンニ洗礼堂 Battistero di San Giovanni
花の聖母(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)大聖堂(ドゥオーモ)より早く、11世紀に、街の守護聖人、聖ジョヴァンニ(洗礼者聖ヨハネ)に捧(ささ)げて建造されました。
ドゥオーモが出来るまでは礼拝堂(聖堂)として使われ、フィレンツェの象徴でしたが、ドゥオーモが出来たため、改修されて洗礼堂となりました。
フィレンツェに生まれた詩人ダンテも、ここで洗礼を受けました。
8角形の建物で、南、北、東の扉にはブロンズのレリーフ装飾が施されています。
特に有名なのが北と東の扉です。
北の扉:ぺストの大流行から復興したフィレンツェが、15世紀初頭、新しい時代を祈って、洗礼堂の扉のコンクールを行いました。
そして、ロレンツォ・ギべルティの作がブルネッレスキに勝ち、採用されました。
新約聖書に基づき、「キリストの生涯」と「諸聖人像」から成ります。
一方、敗れたブルネッレスキは、失意のうちにフィレンツェを離れ、ローマで建築の勉強をしました。その後、彼がフィレンツェに戻り、設計したのが花の聖母教会(ドゥオーモ)の大クーポラ(丸い屋根)です。
東の扉:北の扉の約20年後、やはりギベルティが製作しました。
後に、ミケランジェロが「天国の門」と呼び、賞賛しました。
多くの人々が触れたため、扉全体が金色に輝いています。
旧約聖書を題材にした10枚の金色のレリーフは、遠近法を巧みに取り入れています。
洗礼者ヨハネは、『新約聖書』に登場する古代ユダヤの預言者です。
その名のとおり、ヨルダン川でイエス・キリストに洗礼を授(さず)けました。
洗礼とは、キリスト教徒となるために行う儀式です。
頭に水を注ぐことによって罪を洗い清め、神の子となる証(あかし)とします。
もちろん、洗礼者ヨハネは、イエスの弟子である使徒ヨハネとは別人です。
「ヨハネJohannes」の名は、ヘブライ語の「主は恵み深い」を意味する「ヨーハーナーン」に由来します。
キリスト教がヨーロッパで主たる宗教として普及した結果、各国で、聖書に登場するJohannes(ヨハネ;ラテン語)に由来する男性名が広がりました。
John(ジョン;英語)
Jean(ジャン;フランス語)
Juan(フアン;スペイン語)
João(ジョアン;ポルトガル語)
Johannes(ヨハネス;ドイツ語)
Ioannes(イオアネス;ラテン語)
Giovanni(ジョヴァンニ;イタリア語)
Evan(エヴァン;ウェールズ語)
などです。
この中でも、英語名ジョンJohnは世界中で最も多い男性名だと言われています。
確かに、ジョン・F・ケネディやジョン・レノンなど、ジョンの名を持つ有名人は多いですね。
2025年
1月
02日
木
令和7年1月1日
ウッフィツィ美術館
11.バッカスBacchus
16世紀末、カラヴァッジョ作。
酩酊して赤らんだ顔で、手にはワイングラスを持っています。
ギリシャ神話で酒(ワイン)の神、酩酊の神、豊饒の神、演劇の神です。
本名はディオニュソスDionysus(「若いゼウス」という意味)で、別名をバッコスBakkhosといいました。
ローマ神話ではバックスBacchusと呼ばれ、これの英語読みがバッカスです。
一般的に「ディオニュソス」より「バッカス」の名の方が有名で、日本を始め世界中に「バッカス」の名が付く飲食店があります。
ゼウスはテーバイ国の王女セメレを愛人にして、妊娠させました。
しかし、ゼウスの本妻へラの陰謀に引っかかったゼウスはセメレを雷の熱で焼き殺してしまいました。
セメレの死を嘆き悲しんだゼウスは、その焼けただれた腹から胎児を取り出し、自分の大腿に埋め込みました。その4ヶ月後にゼウスは子供を取り出し、ディオニュソス(バッカス)と名付けたのです。
成長したディオニュソスは、ブドウ栽培とブドウ酒の製法を教える酒の神となりました。
彼の周りには熱狂的な女性信徒が集まり「バッカイ」(バッコスの信女)と呼ばれました。
昼間から酒を飲み、ディオニュソスの神秘によって、恍惚とした熱狂状態に陥った信女達は、狂喜乱舞し、乱交し、動物を八つ裂きにし、生肉を食らうなど、狂乱の酒宴を行いました。
この狂った祭儀は「ディオニュソスの密議(バッカナリア)」と呼ばれ、後にギリシャ悲劇に発展しました。
そのため、バッカスは演劇の神でもあるのです。
狂乱の女性信徒達は、ツタの冠を被(かぶ)り、ツタが絡んだ杖を振りかざし、叫びながら乱舞しました。
狂暴・猥褻(わいせつ)で理性を失っていました。
この様子は、「マイナス」mainas(狂った女)(複数形:マイナデス)と称されました。
"mainas"は"mania"(躁病、熱狂、マニア)の語源になりました。
「マイナス」という発音から、「プラス・マイナス」の"minus"を思い浮かべてしまいますが、「狂乱」の"mainas"とは無関係です。
集団的陶酔の祭儀「ディオニュソスの密議(バッカナリア)」はまさにアルコール依存症患者が酩酊し乱痴気騒ぎを起こしている様子と一致します。
そこで荒れ狂う"mainas"達は、バッカ(馬鹿)でマイナスのイメージに満ちていますね。
ところで、アルコール"alcohol"の語源は、アラビア語の"al-kuhl"です。
"al"は定冠詞(英語では"the")、"kuhl"は「コール(墨)」を指しますから、平たく言えば、"alcohol"は「墨」という意味なのです。
アラブ人は男女共に古来より、風土病であった眼病の予防のために「コール (墨)」を瞼(まぶた)や眉毛に塗ります。
顔に塗るため、サラサラした微粒子であることが必要で、火で熱する「昇華」法によって作られます。
一方、ワインを「蒸留」して強い酒(ブランデー)を作ることが盛んに行われるようになりました。
「昇華」も「蒸留」も火で熱して精製するという点では同じです。
そのため、15-16世紀の医師・化学者パラケルススはワインを蒸留して得られた酒を"alcohol vini"(ワインから作ったコール(墨))と呼んだのです。
その後、"alcohol vini"はブランデーと呼ばれるようになりました。
そして、アルコールという言葉は、通常エチルアルコールを指すようになり、酒の代名詞になりました。
2024年
12月
01日
日
令和6年12月1日
ウッフィツィ美術館
10.アポロンApollon
アポロンは、既に何度か登場していますので、今回は違う話を紹介します。
アポロンはギリシア神話に登場するオリンポス十二神の一人であり、ゼウスの息子です。
ローマ神話ではアポロと呼ばれます。
詩歌や音楽など芸能・芸術の神、羊飼いの守護神、兵隊を次々と倒す「遠矢(とおや)の神」、疫病の矢を放ち人を殺す神、病を払う治療神、神託を授ける予言の神など、付与された性格は多岐に亘ります。
古代ギリシャにおいては理想の青年像と考えられ、光明(こうみょう)の神でもあったため、後には太陽神ヘリオスと混同されるようになりました。
アメリカが20世紀後半の宇宙開発を「アポロ計画」と名付けたのも、光の神アポロが輝く馬車に乗り天空を駆け巡(めぐ)る姿にあやかりたかったからです。
アポロンは美青年だったので、無数の恋愛をしましたが、一人だけアポロンの求愛を拒否した娘がいます。それがダプネーDaphneです。英語ではダフネと発音します。
彼女は川の神ペネイオスの愛娘(まなむすめ)で大変な美女でした。
大蛇(だいじゃ)ピュトンを射殺したアポロンが、愛の神エロスが持つ小さな弓を「そんな弓では何も仕留められまい」とからかいました。
怒ったエロスは仕返しに、黄金の矢(愛情を芽生えさせる矢)をアポロンに、鉛の矢(愛情を拒絶させる矢)をダプネーに、放ったのです。
このため、アポロンはダプネーを追いかけましたが、ダプネーは逃げました。
ダプネーを追いつめたアポロンが彼女を捕まえかけた時、父ペネイオスは娘を月桂樹に変身させました。
失意のアポロンが「私の妻になれないのなら、せめて私の樹になって欲しい」と頼むと、ダプネーは枝を揺らしてうなずき、月桂樹の葉をアポロンの頭に落としました。
以後、競技の勝者や大詩人に「月桂冠」を与え、名誉を讃(たた)えるようになりました。
月桂樹は、後世では、魔女や悪魔を防ぐ魔除けとして使われました。
また、キリスト教では、「不滅」の象徴として、殉教者の冠に用いられました。
ついでに言うと、日本の10円硬貨の裏面にも、月桂樹の葉が描かれています。
アポロンとダフネの故事に因(ちな)み、古代ギリシャ語では月桂樹をdaphneと呼びます。
月桂樹の学名(ラテン語)はラウルス・ノビリスLaurus nobilis といいます。
「気品のある緑の葉」という意味で、その名のとおり、葉は芳香成分を含んでいます。
そのため、葉を乾燥させたものは、フランス語ではローリエlaurier、英語ではローレルlaurelまたはベイリーフbay leafと呼ばれ、香辛料として世界中で使われています。
我が家でもカレーやビーフシチューにローリエを欠かしません。
月桂樹の葉には、強い香りの他に、アルコール吸収抑制作用や唾液・胃液の分泌亢進作用などがあるそうです。
古代ギリシャ語で月桂樹を意味したdaphneは、現在の英語では沈丁花(じんちょうげ)を意味する言葉fragnant daphne(良い香りのダフネ)に転用されています。
沈丁花の学名もDaphne odoraで、やはり「良い香りのダフネ」という意味です。
月桂樹の葉と沈丁花の花のどちらも、良い香りがするため、混同されたのだと思います。
蛇足ですが、花王の生理用品「ロリエ」は「月桂樹」と「月経」の掛詞(かけことば)だそうです。
どちらも「げっけい」ですが「けい」の字が違いますね。
2024年
10月
31日
木
令和6年11月1日
ウッフィツィ美術館
9.ゼウス
ゼウスZeusは、ギリシャ神話の主神で全知全能の神です。
全宇宙や天候を支配し、人類と神々双方の秩序を守護する天空の神であり、オリンポス十二神を始めとする神々の王です。
全宇宙を破壊できるほど強力な雷を武器とし、多神教の中にあっても唯一神的な存在で、強大で絶対的な力を持ちます。
ゼウスはローマ神話ではユピテルJuppiterです。
ユピテルは英語読みではジュピターJupiterで、太陽系で最大の惑星「木星 Jupiter」の名の由来となりました。
木星は最大だから、全能の神ゼウス(ユピテル)の名が与えられたのです。
ゼウスは世界の中心を定めるため、世界の両端から2羽の鷲(わし)を放ちました。
2羽は世界を横切って飛び、デルポイ(デルフィ)で交差しました。
デルポイは、ちょうど「大地の女神」ガイアの𦜝(へそ、オンファロスOmphalos)の部分にあたりました。
ガイアはここに神託(しんたく)所を置いて、人間に未来を教えていました。
神託所はガイアにも人間にも大切な場所ですから、ガイアは自分の息子である大蛇(だいじゃ、龍)のピュトンに守らせていました。
ゼウスは、世界の中心で、自分の意志を人間に伝え、導こうと思っていました。
そこで、ゼウスは息子のアポロンに、ガイアの神託所を強奪するよう命じました。
アポロンは白鳥が引く車に乗ってデルポイに行き、金の矢で大蛇ピュトンを殺し、大地の裂け目に投げ込みました。
そして、裂け目を聖なる石で封印し、その上にアポロン神殿を建てました。
ここでは、以後、数百年に亘(わた)り、巫女(みこ)が人間達に神のお告げを伝えました。
「デルポイ(デルフィ)の神託」あるいは「アポロンの神託」として有名です。
また、大蛇ピュトンを封印した石は「オンファロス(𦜝)の石」として現存します。
元々「中心」を意味するラテン語「ウンビリクス umbilicus」は、ゼウスの「世界の中心」の故事に因(ちな)んで、「𦜝」を意味する解剖学用語になりました。
𦜝帯(ヘソの緒)umbilical cord、𦜝(さい)ヘルニア(出べそ)umbilical herniaなどと使います。
𦜝はギリシャ語ではオンファロスomphalos、ラテン語ではウンビリクスumbilicusと呼ぶ訳ですが、英語ではネイヴァルnavelやベリー・バトンbelly button(お腹のボタン)と言います。
2024年
9月
30日
月
令和6年10月1日
ウッフィツィ美術館
8.ヒュギエイア
ヒュギエイアについては平成34年10月1日号フィレンツェ編でも触れましたが、もう少し詳しく述べます。
ヒュギエイア"Hygieia"は、ギリシャ神話に登場する女神です。
医術の祖アポロンの子である医神アスクレピオスの娘の一人です。
つまり、アポロンにとっては孫です。
父アスクレピオス神と同様、蛇を従え、薬や水を入れる杯(さかずき)(または壺(つぼ))を携(たずさ)えています。
(アスクレピオスの蛇に、杯(壺)に入れた餌(えさ)を与えている、という説もあります)
この蛇と杯をモチーフにした「ヒュギエイアの杯」を、多くの国の薬剤師会がシンボルマークにしています。
アスクレピオスの杖が医学の象徴で、ヒュギエイアの杯は薬学の象徴という訳です。
アスクレピオス信仰が広がるにつれて、ヒュギエイアに対する信仰も厚くなりました。
ヒュギエイアは女性神であったため、女性の健康を守る神として崇(あが)められるようになりました。
当時の女性の間に、ヒュギエイアの彫像を髪飾りにすることが流行したそうです。
Hygieiaはギリシャ語の"hygies"(ヒュギエス)(健康な)に由来しており、英語の"hygiene"(ハイジーン)(清潔、衛生、衛生学)の語源でもあります。
ギリシャ神話のヒュギエイアは、ローマ神話ではサルース"Salus"と呼ばれます。
"Salus"が健康の女神ですから、イタリア語では健康を"salute"(サルーテ)といいます。
「ハイジーン」と聞くと女性用生理用品を思い浮かべる人がいるかも知れません。
本稿を読んだ今日からは、ギリシャ神話の健康の 女神を思い出して下さいね。
以下にヒュギエイア像と種々のロゴマークを示します。
いずれも、「ヒュギエイアの杯」が薬学の象徴です。
2024年
8月
31日
土
令和6年9月1日
ウッフィツィ美術館
7.受胎告知(さらに続き)
新約聖書の4つの福音書の一つ、「ルカによる福音書」を残した聖ルカは医師でした。
さらに、彼は、初めて聖母子(せいぼし)(マリアとイエス)の肖像画を描いた人物と言われています。
そのため、彼は医師・画家、双方の職種の守護聖人とされています。
医師と画家は、共に聖ルカという聖人の守護の元に仕事をする職業だった訳です。
このため、中世ルネサンスの時期には、医師・薬剤師・画家は、同じギルド(組合)に属していました。
医学と美術の密接な関係はキリスト教に由来することが分かりましたが、次のような別の理由もあるそうです。
「医師や薬剤師は、肉体を癒(いや)す薬の調剤のために鉢(はち)を用いる。
画家も、病(や)める者の心を癒す絵を描くための顔料(絵の具)を作るために鉢を用いる。
医師も画家も、鉢を用いる点で同業者である」
ところで、医師であった聖ルカの「聖母マリアは処女受胎し、イエスを産んでも未(いま)だなお処女であった」という記述は、現代の医学では到底認められません。
それどころか、4世紀のミラノ司教アンブロシウス(聖アンブロージョ)に至っては、「聖母マリアには腹門(ふくもん)があった。ゆえに、膣が塞(ふさ)がれていたにもかかわらず、キリストは無事に胎外(たいがい)に出られたのだ」と言ったそうです。
21世紀の今、私のような凡人が同じことを言っても一笑に付されるだけです。
しかし、キリスト教が広まっていった時代にあっても、「永遠の処女、聖母マリア」説に対して懐疑(かいぎ)的な人達がいました。
特に、出産に臨(のぞ)み、胎児を取り出していた産婆(さんば)達は、経験的に「子供を産んだ女性が処女である筈(はず)がない」と知っていました。
15世紀から16世紀、全ヨーロッパに吹き荒れた魔女狩りの嵐は、特に産婆に対して厳しいものでした。
キリスト教の教義を心から信じることができない産婆達が魔女狩りの標的にされたのは、気の毒ではありますが理解できます。
中世の人文学者エラスムスの「愚神礼賛(ぐしんらいさん)」から、この問題についての揶揄(やゆ)にあふれた文章を紹介します。
「皆さんに伺いますが、人間は一体どこから生まれるのでしょうか?
頭からですか?顔、胸からですか?
手とか耳とかいう、いわゆる上等な器官からでしょうか?
いいえ、違いますね。
人類を増やしてゆくのは、笑わずにその名も言えないような、実に気違いめいた、実にこっけいな別の器官なのですよ」
聖ルカ(Saint Lucas, St. Luke)は、日本語では「路加」と書きます。
築地にある聖路加国際病院は、その名の通り、聖ルカを医学の守護者として仰(あお)ぎ、キリスト教精神に則(のっと)り運営されています。
聖路加国際病院については、いずれ「医学の歴史を訪ねて 東京編」の項でお話します。