Message from the Directorを更新しました(Jan 1,2025)。
Exploring the History of Medicine, Part 51: Florence, Part 31
生来、私はへそ曲がりで、人と同じ発言や行動をするのが嫌いです。
この場で、本音の発言をします。
世間一般の意見とは異なるかも知れませんが、私自身が正しいと信じる事しか書きません。
筆者に無断の転載や引用はご遠慮下さい。
2025年
4月
30日
水
令和7年5月1日
大聖堂(ドゥオーモ)とガリレオ
大聖堂はピサ・ロマネスク様式建築の最高傑作です。
十字軍に参戦したピサは、11世紀にシチリアのパレルモ沖にてイスラム艦隊と海戦し、勝利しました。
この勝利を記念して、イスラム教徒から奪った金銀財宝を基(もと)に、50年の歳月をかけて、大聖堂が建てられました。
建築に用いられた円柱は、パレルモのギリシャ神殿から戦利品として運んできた物です。
内部には、歴史的・美術的に価値の高い作品が数多くありますが、特筆すべきは14世紀始めの説教壇(だん)です。
これは、イタリアン・ゴシックの彫刻の中でも最高傑作と言われています。
けれども、私達にとってもっと重要な物が、この説教壇の前にぶら下がっているランプです。
前号で述べた「落下の法則」の発見より以前の1583年の事です。
当時、ガリレオ・ガリレイはピサ大学医学部の学生でした。
教育熱心な父親から英才教育を受けた彼は、17歳で医学部に進学していたのでした。
彼は、ドゥオーモの説教壇の真ん前で、天上から吊り下がっているブロンズのシャンデリア(ランプ)が風に揺れるのを眺(なが)めていました。
そして、ランプの振り子の揺れ幅がしだいに小さくなっても、1往復の時間は変わらない事に気付きました。
医学生だったため、自分の脈で確かめたそうです。
これが「振り子の等時性(とうじせい)」という法則です。
以後、ピサの大聖堂のシャンデリアは「ガリレオのランプ」と呼ばれるようになりました。今日では、彼はこのランプより6年も前に、振子の法則を発見していたと考えられています。
その後、ガリレオは、医学部の講義に幻滅し、医学部を退学して数学・物理学・天文学の道に入っていきました。
ピサ大学やパドヴァ大学で長い間、これらの学問を教えました。
中でも、歴史的に重要なのが天文学における功績です。
①木星に衛星が存在する。②金星が満ち欠けする。③太陽に黒点が存在する。
以上3つの発見により、ガリレオはこれらが地動説(地球が太陽の周りを回っている)の証拠であると確信しました。
ガリレオが地動説を主張し続けたため、天動説(太陽が地球の周りを回っている)を信じるカトリック教会から有罪判決を受けた話は有名です。
ガリレオは教会の神父達よりも、キリスト教の本質をよく理解し、科学的な言葉で説いたために快く思われず、デタラメな裁判で有罪判決を受けたのです。
ガリレオへの刑は無期懲役でしたが、直後に減刑され軟禁となりました。
しかし、フィレンツェの自宅への帰宅は認められず、その後、死ぬまで監視付きの家屋に住まわされ、外出も禁じられました。
もちろん、すべての役職を剥奪されました。
死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬(ほうむ)ることも許されませんでした。
ガリレオの庇護(ひご)者のトスカーナ大公は、ガリレオを異端者として葬るのは忍びないと考え、ローマ教皇の許可が下りるまでガリレオの葬儀を延期しました。
ようやく、ガリレオの死後100年以上経った18世紀に、教皇の許可に基づく埋葬がフィレンツェのサンタ・クローチェ教会で行われました。
やがて、1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したのを発端に、ガリレオ裁判の見直しが始まりました。
そして、ついに1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、この裁判が誤りであったことを正式に認め、ガリレオに謝罪しました。
これは我々の記憶にも新しい出来事です。
ガリレオの死去から実に350年後のことです!
感慨深いですね。