院長から一言を、掲載順に(現在から過去に、1年分)並べてあります。

 

2022年

4月

29日

医学の歴史を訪ねて 第19回 ヴェネツィア編 その14

令和4年5月1日

 

井戸(ポッツォ)

 ヴェネツィアの街には、あちこちに昔の井戸があります。

ポッツォと呼ばれます。

井戸と言っても、天然の湧(わ)き水が出た訳ではありません。

 海の干潟(ひがた)に人工的に造られた街ヴェネツィアは、高潮(たかしお)という水との戦いの他に、飲料水の確保という切実な問題を抱えていました。

 地中海沿岸は比較的雨量の多い地域ですから、雨水を利用することを考えました。

これには、塩田(えんでん)開発の技術を応用しました。

 まず、広場や空地(あきち)などの中央の、可能な限り広い正方形の土地を、深く掘り下げます。

その内側をすり鉢(ばち)状に粘土で固め、すり鉢の底に石を敷き詰めます。

そして、その上に多量の砂を詰めて、最後に石畳(いしだたみ)を舗装します。

井戸の周囲に降った雨は砂の中に滲(し)みこみ、砂でろ過された浄水が底に溜(た)まります。

それを汲(く)み上げて飲料水にしたのです。

 井戸には様々(さまざま)な彫刻が施(ほどこ)され、広場の飾りになっています。

裕福な階層の人々は、自宅の中庭に同様な井戸を造りました。

これらの井戸は、現在では使われておらず、たいてい金属の蓋(ふた)覆(おお)われています。

 では、糞尿など下水はどうしたかと言うと、当然、海や運河へ、たれ流していました!

 

サン・ロッコ 大同信組合

 16世紀に、聖ロッコを信仰するサン・ロッコ信徒会の集会堂として、ルネッサンス様式で建てられ、後(のち)に病院として利用されました。

 現在は、ティントレットが旧約聖書・新約聖書に題材を得て20年以上の歳月をかけて描いた、圧倒的な天井画と巨大な油絵の、計70余(あま)りで埋め尽くされています。

 聖ロッコ"Rocco"(ラテン語:ロクス"Rochus"、英語:ロック"Roch")は、13世紀末、南仏モンペリエに生まれ、20歳で両親を亡くしたことを機に、全財産を貧しい人に譲(ゆず)り、ローマ巡礼の旅に出ました。その道程(どうてい)で、ペスト患者の看病に献身しました。

 彼が患者の頭上に十字架の印を結ぶと、ペストがたちまち癒(い)える奇跡が起きました。ローマでは枢機卿(すうききょう)を回復させ、教皇にも謁見(えっけん)しました。

 3年後、帰路についたロッコは、ついに自身がペストに罹患(りかん)してしまいました。

彼は人里(ひとざと)離れた森に籠(こも)りました。喉(のど)渇(かわ)きに悩み、祈ると、自然に泉が湧(わ)きました。

空腹に苦しむと、犬がパンを運んで来てくれました。

 旅を再開したロッコは生まれ故郷に戻りましたが、怪しい風体(ふうてい)の男として投獄され、5年後に獄中で亡くなりました。

今では、ペストに対する守護聖人として崇(あが)められています。

「大腿のペスト痕(こん)」と「パンをくわえた犬」が聖ロッコの象徴です。

2022年

3月

31日

医学の歴史を訪ねて 第18回 ヴェネツィア編 その13

令和4年4月1日

 

消防署

  前回、述べたように、ヴェネツィアには自動車がありません。

当然、消防車もなく、運河に面した消防署には消防ボートが停泊していました。

 

サン・ジャコモ・デル・オーリオ医学校 

 リアルト橋とサンタ・ルチア駅の中間辺りにサン・ジャコモ・デル・オーリオ教会があります。

その裏手の広場の一角に、サン・ジャコモ・デル・オーリオ医学校と、付属の解剖学研究所の跡があります。

パドヴァ大学の解剖学教室をモデルにして、17世紀に建てられました。

残念ながら、19世紀に、火事で廃校になったそうです。

この辺り一帯は、地元では「解剖学の広場」と呼ばれています。

 近傍の運河には、「解剖橋」という、世にも珍しい名前の橋があります。

研究所が運河に面して建てられたのには意味があります。

解剖に供する遺体を運ぶ船は、運河を通って、研究所の横に着き、遺体を荷揚げしたのです。

だから、ここに架かる橋が「解剖橋」と呼ばれるようになったのです。

 

 サン・ジャコモ"San Giacomo"とは、日本語では聖ヤコブ"Jacob"、スペイン語ではサンチャゴ"Santiago"と呼ばれる聖人で、イエス・キリストの十二使徒(弟子の中でも、特別の権威を与えられた12人)の一人です。

ちなみに、ラテン語ではJacobus(ヤコブス)、英語では Jacob(ジェイコブ)、 James(ジェームズ)、フランス語では Jacques(ジャック)です。いずれも男子の名です。

 後に福音書を記したヨハネ(やはり十二使徒の一人)の兄で、弟のヨハネと共にガリラヤ湖で漁師をしていましたが、網の手入れをしていたところをイエスに呼ばれ、ヨハネと共にイエスの弟子になりました。

 イエスが十字架で処刑された後、ヤコブはユダヤで布教活動をしていましたが、西暦44年、キリスト教徒を弾圧するユダヤの王ヘロデ・アグリッパ1世に処刑されました。

十二使徒の中で最初の殉教者です。

 処刑後、弟子たちが彼の遺体を小舟に乗せて海に出たところ、神に導かれるようにしてスペインのガリシアに到着し、ここで遺体を葬りました。

その後、イスラム教徒によるイベリア半島征服の混乱の中で墓は忘れ去られていましたが、9世紀、明るい星に導かれ、羊飼いが野原の中に聖ヤコブの墓を見つけました。

この場所が現在のサンティアゴ・デ・コンポステーラ"Santiago de Compostela"で、ヴァチカン、エルサレムと並んでカトリック教会の三大巡礼地の一つとされています。

コンポステーラ"Compostela"とは「星の野原」という意味です。

 その後も、キリスト教徒がイスラム教徒と領土争いを繰り返していた「レコンキスタ(国土回復運動)」と呼ばれる時代、たびたび白馬にまたがった騎士姿の聖ヤコブが天から現れ、キリスト教徒を勝利に導いたと言われています。

現代でも聖ヤコブがスペインの守護聖人として広く崇拝されている所以(ゆえん)です。

 ホタテ貝は聖ヤコブのシンボルで、フランスではホタテ貝を「聖ヤコブの貝」と呼ぶそうです

2022年

2月

26日

医学の歴史を訪ねて 第17回 ヴェネツィア編 その12

令和4年3月1日

 

ヴェネツィア市民病院

 サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ広場に面して建つ、中世の荘厳な建築です。

病院になる前は、スクオーラ・グランデ・ディ・サン・マルコ(サン・マルコ大同信(だいどうしん)組合)でした。スクオーラとはイタリア語で「学校」や「同業者組合」を意味します。

 ヴェネツィアでは、聖母や守護聖人を信奉する信者の団体や集会場所を、スクオーラと呼びます。

中世に誕生してから、18世紀末の共和国崩壊まで、活動が続けられました。

中産階級を中心に職人・商人らに深く浸透し、共通の出身地や職業によって団結しました。

互助会のようなものです。

結婚式、葬式などの相互扶助や、病気や貧困で困っている人を助ける慈善活動を行いました。

献金で集会堂も建てました。

 各スクオーラは、その本部として豪華な建物を所有し、その中に当時の贅(ぜい)と芸術の粋(すい)凝(こ)らした大サロンや礼拝堂を造ったのです。

言わば、コミュニティセンターの豪華版です。

 

その中でも、「グランデ」という名前が付くのは大規模のもので、たった6つしかありませんでした。

 ヴェネツィアの守護聖人マルコを信奉するこのスクオーラは、13世紀に創設されました。

現在の建物は、15世紀後半に建て替えられたものです。

一般市民だけではなく、特権階級の名士も多く所属していました。

富裕な人々は医者を自宅に呼び、最後まで家で治療・看護を受けました。

しかし、始終医療・看護を必要とする人々は、泣く泣く家を離れなければなりませんでした。そのような人達のために、スクオーラから市民病院になったのです。

19世紀初頭、ナポレオン・ボナパルトの支配下にあった時代のことです。

 遺(のこ)された建物を見ると、ヴェネツィアの巨万の富と繁栄の大きさに驚愕(きょうがく)します。

優雅で美しいファサード(正面)は、彫刻家のピエトロ・ロンバルドと建築家のジョヴァンニ・ブオラの合作で、白い大理石の中に、赤・黄・緑の大理石が散りばめられています。

初期ヴェネツィア・ルネッサンス様式と呼ばれています。

 

玄関ホールには柱が2列に並び、装飾が施された壁や床と共に、厳粛な雰囲気を醸(かも)し出しています。

 病院は運河に面しており、「救急ボート」入り口があります。

救急車入り口はありません。

ヴェネツィアには自動車が走る道路がないため、救急車が存在しないからです。

2022年

1月

30日

医学の歴史を訪ねて 第16回 ヴェネツィア編 その11

令和4年2月1日

 

リアルト橋とオッパイ橋

 リアルト橋(Ponte Di Rialto)は、大運河にかかる4つの橋のうち最大で、世界で最も有名な大理石の橋です。

ポンテ "ponte"は「橋」、リアルト "rialto"は、「高台」という意味です。

この辺りは周囲より少し高く、海上に姿を現していました。

最初の人々はここに住み始め、ここからヴェネツィアの建設が始まったのです。

当然、この一帯がヴェネツィアの商業・経済の中心地となりました。

 

今では、橋の上に貴金属店やみやげ物屋などが並び、両岸に貴族の邸宅や外国の商館が建ち並びます。

 

 リアルト橋の少し上流に、ポンテ・デッレ・テッテ "Ponte delle Tette"という小さな橋があります。

テッテ "tette"とは、イタリア語で「乳房」の意味であり、その名の通り「オッパイの橋」を意味します。

 人が集まれば、当然、「人類最初の商売」と呼ばれる営み(売春)も行われました。

15世紀頃、この地域は、娼館がひしめく歓楽街だったのです。

この付近の建物の窓やバルコニーには、乳房を出した娼婦達が並び、胸を見せたり、股を広げたりして、男どもを誘惑し、呼び込んでいました。

 この頃、ヴェネツィア共和国では、同性愛の蔓延が社会問題となっていました。

カトリック教会が「自然に反する罪悪だ」と主張したからだけではありません。

同性愛者が増加すると結婚・出産が減り、その結果、人口が減少し、国力が低下するからです。それを防止するため、ヴェネツィア政府が同性愛者に科した処罰は極刑でした。

同性愛者は、サンマルコ小広場の2本の柱の間で絞首刑にされた後、「完全な灰になるまで」焼かれました。

 同性愛を防ぐため、政府が法令で奨励したのが売春だったのです。

娼婦は、日没以降、橋の向かいの窓から顔と乳房をよく見せること

暗くて見えにくい場合は、キャンドルで照らすこと

などという条文までありました。

 1509年のヴェネツィアには約12,000人の娼婦がいた、という記録があります。

当時のヴェネツィアの人口が約10万人でしたから、10人に1人が娼婦だった訳です。

しかも、娼婦達の上納金(税金)がヴェネツィア共和国の財政に大きく寄与しました。

特に、1519年の上納金は、ヴェネツィア造船所(兵器工場)建造に充てられたそうです。

 

2021年

12月

31日

医学の歴史を訪ねて 第15回 ヴェネツィア編 その10

令和4年1月1日

 

明けましておめでとうございます。

今年も、楽しく、ためになる話をしますので、お付き合い下さい。

 

サンタ・ルチア(続き)

 

 ルチアの殉教(信仰する宗教のために自分の命を捨てること)はローマ全土に知れ渡りました。

6世紀には、彼女をキリスト教の守護者として、教会全体で讃(たた)えるようになりました。

現代では、目・視覚障害者・シラクサ・ナポリ・ヴェネツィアの守護聖女として知られています。

ナポリにはサンタ・ルチアという名の港もあります。

ダンテの「神曲」では、聖ルチアは天上の光を運ぶ女性として描かれています。

 第4回十字軍がシチリアから彼女の遺体を運び、ヴェネツィアの教会に祀(まつ)りました。

この教会はヴェネツィア本島の玄関サンタ・ルチア駅を新設する際、解体されました。

この時、教会に安置されていた遺体を移したのが、駅のすぐそばのサン・ジェレミア教会です。

沢山のランプが灯(とも)る主祭壇のガラスケースの中に、今も聖ルチアは眠っています。

 

 光の明るさを表す単位として、ルクス(lux)やルーメン(lumen)が国際的に用いられます。

この言葉の元は、ラテン語で「光」を意味するlux(ルークス)やluceo(ルーセオー)です。

合成語の前綴りとして用いられる時はluci-となり、「明るい」とか「透き通った」を表します。

聖ルチアの名前Luciaも、1ucidus via(ルーシドゥス ヴィア、光の道)の略です。

 医学用語でも、「透明」な体液や、「清明」な意識を表すのに、lucidと表現します。

lumen(ルーメン)は「内腔(ないくう)、管腔(かんくう)」を意味しますが、「光の入る開(ひら)けた所」なのです。

 ラテン語のlux(ルークス)から、英語のluxe(ラックス)(上等)やdeluxe(デラックス)(豪華な)、luxury(ラクシュリー)(贅沢(ぜいたく))などの言葉が生まれました。

日本語でも豪華な物をラグジュアリーと呼びます。

「光輝く」から、luxuryなのです。

 また、よく使われるillustrate (イラストレイト、図解する)illumination(イルミネーション、照明)も、元は「光をともす、明らかにする」という意味です。

 ローマ神話には、Lucina(ルーキーナ)という女神が登場します。

この名前は元来、「光の中に何かをもたらすもの」という意味ですが、「暗闇から明るい世界に子供を引き出す神」、すなわち出産の守り神です。

Lucina(ルーキーナ)には「月」という意味もあります。

暗闇を明るく照らすからです。

 

 ついでに、もう一つ。

ローマ神話にはDiana(ダイアナ)という「月と狩猟の女神」もいます。

ですから、Diana(ダイアナ)という女性名は「月」を連想させます。

  ダイアナと言えば、ウェールズ公妃ダイアナを思い出します。

彼女は、1981年にイギリスのチャールズ皇太子と結婚し、ウィリアム王子・ヘンリー王子の2子をもうけた後にチャールズと離婚し、1997年にパリで交通事故による不慮の死を遂げました。

ダイアナの名にふさわしく、暗闇を明るく照らすような、美しい女性でしたね。

 

 

2021年

11月

30日

医学の歴史を訪ねて 第14回 ヴェネツィア編 その9

令和3年12月1日

 

サンタ・ルチア

 

 サンタ・ルチア(Santa Lucia)はナポリ民謡「サンタ・ルチア」に歌われる聖女ルチア(英語ではSaint Lucy セイント・ルーシー)3世紀末~4世紀始め)です。

ローマ帝国皇帝ディオクレティアヌスが支配するイタリア・シチリア島の町シラクサで生まれました。

 ディオクレティアヌスが統治した時代は、ローマ帝国政府・軍内部にキリスト教徒が増加した時代です。

最初はキリスト教徒に対して融和的政策を執(と)っていた皇帝ですが、その信仰心や軍務放棄、統治への反抗心に警戒感を抱きました。

また、キリスト教徒が皇帝崇拝を認めなかったことも、ディオクレティアヌスを怒らせました。

 ついに、303年、ディオクレティアヌスはローマ全土に対し、キリスト教徒の強制的な改宗、聖職者全員の逮捕および投獄などの勅令を発しました。

そして、キリスト教徒への弾圧が全土で行われ、聖書は焼却、教会は破壊されて、財産は没収となりました。

それは、かつてない規模で行われ、国家に対し公然と反抗したキリスト教徒は処刑され、その数は全土で数千人に達しました。

「ディオクレティアヌスの大迫害」と呼ばれています。

 ルチアの母はルチアをある男と結婚させようとしましたが、ルチアは自身の処女を守るために拒否しました。

「自分にはより高貴な婚約者(すなわちイエス・キリスト)がいる」という理由からです。

その男は意のままにならぬルチアに怒り、彼女がキリスト教徒であり、火炙(あぶ)りにすべきだと、ローマ帝国に密告しました。

 しかし、問罪所に突き出すため、ルチアを引き立てに来た兵士達は、どうしても彼女を動かすことができませんでした。

牛に彼女をつないでも引きずり出せなかったと伝えられています。

ルチアは聖霊に守られ、山のように強固だったのです。

 そこで、ルチアには様々な拷問が行われました。

溶かした鉛を耳から流し込む、歯を引き抜く、乳房を切り取る、などです。

そして、ついにルチアは両目をえぐり出されてしまいました。

ところが、奇跡が起き、ルチアは目がなくとも見ることができたと伝えられています。

これ以降、彼女は目の守護聖女として崇(あが)められています。

多くの絵画や像でも、皿や器(うつわ)の上に自分の眼球を載(の)せた姿で描かれています。

 最後の火炙りの際、薪(まき)の火がどうしても彼女に燃え付かないため、結局、剣で喉(のど)を突き刺され、ルチアは絶命しました。

 

                               次号に続く  

2021年

10月

30日

医学の歴史を訪ねて 第13回 ヴェネツィア編 その8

令和3年11月1日

 

アカデミア美術館

 

 約500年間にわたるヴェネツィア派絵画の集大成がアカデミア美術館です。

海にかこまれた干潟(ラグーナ)の都市には、ほとんど緑がありません。

そのため、かえってヴェネツィア人は田園にあこがれ、自然の風景を好みました。

だから、ヴェネツィア派の絵は自然の中に人間を配するのです。

 中世では、長い間カトリック教会の解剖禁止令もあり、古代ギリシア・ローマ時代の解剖知識がさほど更新されていませんでした。

ところが、ルネッサンスの時代、アンドレア・ヴェサリウスという若き解剖学者が現れ、それまでの常識を覆(くつがえ)しました。

当時の偉い学者は、誰も自分で解剖しませんでしたが、ヴェサリウスは自らメスを持ち、細部まで克明に描写しました。

 そして、1543年、彼は素晴らしい解剖図譜を、「人体の構造」(ファブリカ)と題して出版しました。

様々なポーズを取った人体を、遠近法を活かした風景の中に描いたのです。

挿絵(さしえ)を描いた画家は、ヴェネツィア派のティツィアーノ達でした。

彼らは、自然の風景の中に裸体像を配するという技法を、解剖図にも用いたのです。

「考える骨」と命名された、骸骨(がいこつ)が「考える人」のようなポーズをとった挿絵もあります。

ユーモアさえ感じさせる出来映(できば)えです。

  1543年は、コペルニクスが地動説を唱え、ポルトガル人が日本の種子島(たねがしま)に鉄砲を伝えた年です。

今から500年近くも昔に、こんな素晴らしい解剖学アトラス(図譜)を描いたのです。

私は医学生時代にこの教科書の存在を知りませんでした。

知っていれば、解剖学の勉強がもっと楽しくなっていたでしょう。

残念です。

 この解剖学書は大評判となり、ヴェサリウスは一躍(いちやく)、時代の寵児(ちょうじ)となりました。

しかし、彼がこの本で明らかにした解剖所見には、カトリック教会が支持する伝統的な考えとは対立する箇所がいくつもありました。

そのため、ヴェサリウスは異端の嫌疑をかけられてしまいました。

彼は疑いを晴らすため、エルサレムに巡礼しましたが、その帰途に船が難破して亡くなったそうです。

 

 アカデミア美術館では、フランチェスコ・マッフェイ作「ペルセウスとメドゥーサ」(17世紀)も見逃せません。                      

 既に説明しましたが、メドゥーサは、ギリシア神話に登場する怪物です。

髪の毛の一本一本がヘビで、見た者を石に変えてしまう魔力を持っていました。

肝硬変患者の腹壁皮下静脈が放射状に怒脹した様子は、ヘビのように見えることから、「メドゥーサの頭」と呼ばれます(参照:医学の歴史を訪ねて 第5回 ミラノ編 その5)。

 勇者ペルセウスは軍神アテナから盾(たて)を借り、眠っているメドゥーサに忍び寄りました。

目を合わせると石に変えられてしまうため、盾に映った怪物を見ながら、その首を見事、切り落とすことに成功したのです。

 

                               次号に続く   

 

2021年

9月

29日

医学の歴史を訪ねて 第12回 ヴェネツィア編 その7

令和3年10月1日

 

サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会

 

 大運河の河口近くにある、丸い大きなドーム(クーポラ)を持つ教会です。

17世紀、ヴェネツィアでペストが猛威をふるい、わずか2年で人口の3分の1が亡くなりました。

その後、感染が鎮(しず)まったことを聖母マリアに感謝して、ヴェネツィア政府がロンゲーナに教会の設計を命じました。

彼は、50年かけて建築を完成させました。

 真っ白な大理石が八角形を描き、その上に大きなクーポラが載(の)り、太陽と運河の水に照らし出されて輝く姿は、この街の象徴です。

ヴェネチアン・バロック建築の傑作です。

 現地では、「サルーテ(Salute)」と一言で呼ばれています。

Salute (救助、救済)の語源はラテン語のsalvare (サルヴァーレ、「救う」)です。

salvareから、英語のsalvage(海難救助、救命)salvation (救い、救済、救助)salvo (賛辞、慰め)salute(挨拶、敬礼、乾杯)などが派生しました。

 中米にあるエル・サルバドルEl Salvador(救世主)という国名、その首都のサン・サルバドルSan Salvador (聖なる救世主)、サルビアsalvia(人を救う花)なども、salvareから派生した言葉です。

 Elはヘブライ語で「神」「力」「強さ」を意味する言葉で、ユダヤ教の神ヤハウェYahweh(日本語ではエホバ)と同じです。

従って、エル・サルバドルEl Salvadorとは救い主、すなわち救世主イエス・キリストを指しています。

 聖書に登場する人物には、インマヌエルImmanuel(エマヌエル)、エリザべトElisabeth(エリザベス)、エリヤElijah(エリー)、ミカエルMichael(マイケル、ミッシェル)、サムエルSamuel(サム)、ダニエルDaniel(ダン、ダニー)、ガブリエルGabrielなど、El--elを持つ名前が多いのです。

  また、Elは、ギリシャ神話の太陽神ヘリオスHeliosと同じと考えられています。

イエスが十字架にかけられ息絶えた時に、日食が起きたと伝えられているのも、イエスが太陽神に繋がる存在であることを示しています。

  乾杯をする時、スペインではサルSalud、イタリアではサルーテSalute、ポルトガルではサウージSaude、フランスではサンテSante、ドイツではプローストProst、アメリカではチアーズCheersと叫びます。

これらには、みんな「健康を祈って」という意味が込められています。

イタリアでは、誰かがクシャミをすると、周りの人が「サルーテ」と言うのがエチケットだそうです。

 ところで、イタリアやフランスでは、サルーテSaluteやサンテSanteより、もっと砕(くだ)けた乾杯のかけ声があります。

「チンチン」です。

イタリアではCin-cin、フランスではTchin-tchinと表記されます。

これは中国語の「請請(ちんちん)(さあ、どうぞ)」をイタリア人が「乾杯!」と勘違いして、母国に伝えたのが始まりだそうです。

「チンチン」の発音が当時のヨーロッパ人には、グラスが触れ合う時の「カチン」という音を連想させたのが、広まった原因だと言われています。

私も今度の飲み会では、ご婦人方と声を合わせて「チンチ~ン!」と叫びます。

 

                                                              次号に続く

 

2021年

8月

29日

医学の歴史を訪ねて 第11回 ヴェネツィア編 その6

令和3年9月1日

 

ドゥカーレ宮殿のアトラス像

 

 ドゥカーレ宮殿にはアトラス像があります。

 ギリシャ神話では、「天」の神ウラノスと、「大地」の神ガイアとの間に生まれた神々と、その子孫をタイタンTitanと呼びます。

タイタン一族は、どの神も皆、怪力で巨大です。

  英語の"titanic"(タイタニック)という形容詞は「巨大な」という意味です。

"titanic"は元々、"Titanic"(ギリシャ神話のタイタンのように怪力で巨大な)という単語なのです。

 20世紀始め、大西洋に沈んだイギリスの豪華客船「タイタニック号(Titanic)」の名も、当時世界最大だったことに由来しています。

元素のチタン(titaniumチタニウム)は、非常に優れた強靭さと耐久性を併せ持つため、こう名付けられました。

 ギリシャ神話では、タイタンの一人がアトラスで、やはり怪力で巨大な神です。

タイタン一族はオリンポスの神々と戦って、敗れました。

オリンポスの神々の頂点に君臨するのが全能の神ゼウスであり、タイタン一族の中で最後までゼウスに抗(あらが)ったのがアトラスだったのです。

戦いに敗れたアトラスはゼウスの命令により、世界の西の果てで、天空(天球)を担(かつ)ぐ役を課せられました。

 人体の第1頚椎(一番上の頚の骨、頭蓋骨の直下の骨)は、丸い輪(わ)っかのような形状なので「環椎」と呼びます。

環椎の別名が「アトラス」です。

この骨が真下から頭蓋骨を支える様子を、アトラスが天球を支える姿になぞらえているのです。

  ギリシャ神話では、勇者ペルセウスが怪物メドゥーサを退治しました。

怪物メドゥーサは、睨(にら)みつけた相手を石に変えてしまう魔力を持っていました。

ペルセウスは切り落としたメドゥーサの首を持ち、アトラスを睨みつけさせました。

アトラスは大きな石の塊(かたまり)となり、天空を担ぐ役から解放されました。

こうして、アトラスは山に姿を変えました。

この神話に基づき、北アフリカの山脈が「アトラス山脈」と名付けられたのです。

 また、アトラスAtlasが西の果てで天空を担がされた故事(こじ)から、大西洋がAtlantic Ocean(アトランティック・オーシャン)と呼ばれるようになりました。

 さらに、地図帳をアトラスと呼ぶのは、16世紀にメルカトルが地図帳の表紙に、ギリシャ神話のアトラスを描いた事に由来します。

図表や図譜を集めた本もアトラスと言いますが、これらも一種の「地図帳」だからです。

 ギリシャ神話のアトラスが天空を担いだことから、ヨーロッパでは、組織や家庭で重荷を担(にな)う人、すなわち大黒柱となる人をアトラスと呼ぶそうです。

我々も、人からアトラスと言われるような大物になりたいものです。

 

                                                                       次号に続く   

 

2021年

7月

31日

医学の歴史を訪ねて 第10回 ヴェネツィア編 その5

令和3年8月1日

 

ドゥカーレ宮殿の聖クリストフォーロ

 

 医学関連の美術として見落とせないのが、ティツィアーノのフレスコ画「増水した河を渡る聖クリストフォーロ(Cristoforo) 」です。

宮殿のベランダへ上る階段の背面壁にあり、私は宮殿のスタッフに頼んで特別に見せてもらいました。

 英語名のクリストファーChristopherは、ギリシャ語のChristos(キリスト)と、pherein(運ぶ、捧げる)から派生したphoros(俸げ物)とから成る、クリストフォロスChristophorosが語源です。

テテン語ではクリストフォルスChristophorusです。

その原義は「キリストに捧げられた者」です。

 伝説では「聖クリストフォルス」は「キリストを運ぶ者」として知られており、救難聖人として有名です。

救難聖人とは、危急の際に、その名を呼ぶと神に救いをとりなしてくれると信じられている聖人達です。

中世の人々は、聖クリストフォルスの姿を一瞬でも頭に描いたり、聖クリストフォルスの名前を口にすると、死から逃れられると信じていたのです。

ぺストのような感染症が頻繁に流行した時代では、特にありがたい聖人として崇拝されたことが容易に想像できます。

 聖クリストフォルスは、伝説によると、ヨルダン川の西域に住んでいた「レプロブス」という名の庶民でした。

巨体と、いかつい顔の持ち主でした。

「レプロブス」は、ラテン語reprobus(下賎な)が固有名詞化したものです。

 クリストフォルスの名を口にすれば感染症による死から逃れられるという信仰は、ギリシア神話で医療の神とされたアスクレピオスの影響と考えられます。

クリストフォルスが持つ杖はアスクレピオスの杖に通じます。

 伝説によると、聖クリストフォルスは、ある暴風雨の夜、幼い男の子を肩に乗せて川を渡りました。

その子はだんだん重くなりましたが、クリストフォルスは水をかぶりながら、やっとのことで、渡りおおせました。

すると、その男の子は「自分はキリストである。自分の重さは全世界の罪の重さであり、水をかぶった事は洗礼を意味する」と語りました。

 以後、クリストフォルスは熱心なキリスト教徒となり、貧しい者や弱い者を背負って川を渡りました。

また、迫害されるキリスト教徒のために祈り、奇跡を行い、一生のうちに48千人もの人々を改宗させました。

 最後は、キリスト教を迫害するローマ皇帝デキウスにより処刑されました(3世紀)

彼は、真っ赤に焼けた兜(かぶと)を頭にかぶせられ、鉄の台に縛られ、下から火を付けられました。

鉄の台は蝋のように溶けましたが、彼は火傷(やけど)もせずに立ち上がったため、首をはねられたそうです。

 自らの信仰のために死ぬ事を殉教(じゅんきょう)といいます。

クリストフォルスも殉教した聖人の一人です。

 

 

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2021年

6月

27日

医学の歴史を訪ねて 第9回 ヴェネツィア編 その4

令和3年7月1日

 

ドゥカーレ宮殿 Palazzo Ducale

 

 ヴェネチア共和国総督(ドージェ)の政庁(合同庁舎)として9世紀に建てられました。その後、何度か火災に遭(あ)い、現在の建物は15世紀の物です。

ヴェネチア・ゴシック様式の巨大建築です。

ヴェネチア共和国の図抜けた富と権力を象徴しています。

ちなみに、ゴシック時代とは12世紀後半から15世紀を指し、この時代の建築は、伸びやかで装飾が多いのが特徴です。

 ビザンチン風の豪華なアーチが続く柱廊(ちゅうろう)や、繊細な飾りの施(ほどこ)された小尖塔(しょうせんとう)、壁面に菱形(ひしがた)を描くピンクと白の大理石など、異国情緒にあふれた外観です。

 内部はいくつもの評議員の部屋、大会議室などがあり、ティントレット、ヴェロネーゼなどのすばらしい絵画が飾られています。

言わば、巨大な美術館です。

 どの部屋でも、金箔(きんぱく)を施した化粧漆喰(しっくい)と華麗な絵画が、ヴェネツィア共和国の富を象徴しています。

その代表が、「元老院の間(ま)」の天井に描かれたティントレットの「ヴェネツィア称揚(しょうよう)」や、「謁見(えっけん)の間」の天井のヴェロネーゼによる11枚の板絵です。

 

  総督(ドージェ)のDogeとは、イタリア語で国家元首を指す言葉の一つで、ヴェネツィアをはじめ、ジェノヴァ、ピサなど海洋共和国の元首がドージェと呼ばれます。

 doge(ドージェ)の語源はラテン語dux(ドゥクス) で、イタリア語ducaドゥカ(公爵)や英語 dukeデューク(公爵)もこれから派生しています。

Palazzoは英語ではPalace(宮殿)ですから、Palazzo Ducaleとは「公爵の宮殿」という意味です。

公爵はヴェネツィア以外にも大勢いますから、ドゥカーレ宮殿と呼ばれる館もヴェネツィアだけでなくヨーロッパ各地にあります。

  ヴェネツィア共和国のドージェは、ドージェだけが着用を許されたコルノ・ドゥカーレ(Corno ducale「公爵の角(つの)」)と呼ばれる、後部に角(つの)状の突起が付いた独特の帽子を被(かぶ)っていました。

 corno(コルノ)とは「角(つの)」を意味するイタリア語で、ラテン語や英語ではcornu(コルヌ)です。

解剖学でも、突き出た形状の部分をcornuと呼び、子宮・仙骨・尾骨・甲状軟骨・脊髄・大脳半球側脳室など体中にcornu(角(かく))と呼ばれる部分があります(子宮角(しきゅうかく)、仙骨角(せんこつかく)、等々)。

 ギリシャ神話を知るヨーロッパ人には、cornucorno(角(つの))という言葉が、ゼウス(全能の神)が赤ん坊の時に乳を与えたというヤギの角(つの)を連想させました。

そのため、角(つの)は豊饒・力・勇気を象徴し、欲しい物を何でも与えてくれる御利益(ごりやく)があると考えられていました。

つまり、「公爵の角(つの)」はドージェの富や権力を見せつける小道具として使われた訳です。

 また、英語のdukeデューク(公爵)が複数形 dukesデュークスになると、拳(こぶし)やゲンコツを意味するそうです。

昔も今も、偉い人は拳を振り上げて演説するからでしょうね。

 

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2021年

5月

30日

医学の歴史を訪ねて 第8回 ヴェネツィア編 その3

令和3年6月1日

 

大運河

(Canal Grandeカナル・グランデ、英語ではGrand Canalグランド・カナル)

 

 サンタ・ルチア駅からサン・マルコ広場まで全長3,800mの、"S"の字を左右反転した形に蛇行する運河です。

「世界で最も美しい道」とも讃(たた)えられる水路です。

 運河沿いには、1318世紀に建てられた貴族たちの豪華な館(やかた)が建ち並びます。

当時、パドヴァ大学にいたガリレオ・ガリレイが議論した友人サグレードの館も、その一つです。

ガリレオ・ガリレイはこの議論を元に、17世紀に「天文対話」(プトレマイオスとコペルニクスの宇宙体系についての話)を著(あらわ)しました。

 

 Canal Grandecanalは、ラテン語のcanna、ギリシャ語のkannaで、「葦(あし)」や「よし」を表します。

これらの茎(くき)管(くだ)になっていて、水を通すチューブや笛(ふえ)などとして使われ、各国で色々な意味の言葉になりました。

 英語では、canal(管、運河)、canyon (峡谷)Grand Canyon(グランドキャニオン、大峡谷)cannon (大砲)、音楽のcanon(カノン、追復(ついふく)曲)、channelなどです。

 音楽のcanon(カノン)とcanna(葦)は、どう結びつくのでしょうか?

古代ギリシャでは、葦cannaが長さを測る棹(さお)として用いられました。

計量した結果は正確であるため、戒律、規則、法律、標準、厳密、経典(きょうてん)などを意味するcanonという言葉が生まれました。

そして、音楽においても、先行句を厳密に模倣(もほう)しながら組み立てられる追復曲をcanon(カノン)と呼ぶようになったのです。

 カメラ・コピー機メーカーのCanon(キヤノン)も同様です。

「標準」「厳密」という意味のcanonが正確第一の精密工業の名にふさわしく、しかも会社創立時に盛業を願った「観音(かんのん)」様に発音が似ている事から、この名称になったのだそうです。

 医学用語でも、inguinal canal (鼡径管)alimentary canal (消化管)recanalization (再開通)などと使われます。

  南米の楽器(縦笛(たてぶえ))ケーナ(quena)も昔はcanna(葦)から作られたから、こう呼ばれるのだそうです。

現在は、竹や木から作られます。

 ドイツ語でも、細長い管をカニューレと言います。

鼻から胃に入れる管や、点滴や人工呼吸に用いる管は、どれもカニューレと呼びます。

 南フランスのカンヌ(Cannes)は、昔は葦が一面に生い茂る沼地だったから、この名になったのだそうです。

今では、毎年カンヌ国際映画祭が開催される保養地として、世界的に有名ですね。

 

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2021年

4月

29日

医学の歴史を訪ねて 第7回 ヴェネツィア編 その2

令和3年5月1日

 

ヴェネツィアの歴史

 

 5世紀頃、ヴェネト族がフン族、ゴート族などの外敵侵入から逃れて、海の干潟(ひがた、ラグーナ)に避難し、街を作りました。

つまり、ヴェネツィアはイタリアの多くの都市と異なり、古代ローマ帝国時代の地方都市として始まったのではなく、何もない海に、土地その物をゼロから作り上げたのです。

 まず、干潟の軟弱な地盤に、何千・何万もの木の杭(くい)を打ち込みました。

水に浸(つ)かって空気に触れない木は、長い年月を経(へ)て、真っ黒なコンクリートの柱のようになりました。

その上に石、さらにレンガを敷(し)き詰め、家を建てる土台を作りました。

 浅いラグーナに、船が通れる航路(運河)も作りました。

自動車が走れる道路はありません。

ヴェネツィアの交通手段は船だけです。

 ヴェネツィア人は、自然の威力の前で、協力して、ラグーナにある土地を守らなければなりませんでした。

7世紀末に最初のドージェ(総督)が選出されて以来、ヴェネツィアではずっと市民による共和制が守られました。

独裁君主が現れることも、派閥に別れて権力闘争をすることもありませんでした。

 

 そして、海の上の街ゆえに、最初から、海上貿易に有利でした。

地中海をたどって、ギリシャの各都市や、当時の政治経済の中心、コンスタンチノープル(東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都、現在のイスタンブール)と交易する事ができたのです。

ヴェネツィアの繁栄の始まりです。

 11世紀、第1回十字軍が聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回するため、出発しました。

これは、ヴェネツィアの商人にとっては大きなビジネスチャンスでした。

十字軍戦士を船で東方へ運ぶことを請(う)負(お)い、東方貿易の商権を手に入れたのです。

ヴェネツィアなど北イタリア諸都市は、ライバルのビザンツ商人に替わって、東地中海に商圏を拡大し、香辛料(こうしんりょう)の貿易で巨万の富を得ました。

 

 一方、14世紀にヨーロッパを襲ったペスト(黒死病)は全ヨーロッパの3分の1(3,500万人)の命を奪いました。

そして、「疫病(えきびょう)元凶(がんきょう)はユダヤ人だ」という風評が流布(るふ)し、ユダヤ人の大量虐殺や追放が各地で行われました。

何万人ものユダヤ人がイタリアに渡り、ヴェネツィアにもユダヤ人が増加しました。

 当時、様々な職種から締(し)め出されていたユダヤ人(ユダヤ教徒)の多くは、金貸し業を営みました。

キリスト教徒は、「利子を取るのは神の教えに反する」という理由で、金貸し業が禁止されていたからです。

貿易によってお金が動く都市ヴェネツィアでは、ユダヤ人は大(おお)儲(もう)けしました。

 シェイクスピアの「ベニスの商人」は16世紀末の戯曲(ぎきょく)で、ユダヤ人同士のお金の貸し借りの話です。

ヴェネツィアでユダヤ人の多くが金融業に就(つ)いていたのを知っていたから、シェイクスピアはこんな話を書いたのでしょう。

 

 ヴェネツィア共和国の繁栄は、18世紀末、ナポレオンに征服されるまで、1,100年余りも続きました。

当然、イタリアを占領したナポレオンは、イタリアでは悪評です。

しかし、ナポレオンのお蔭でコムーネの時代に終焉(しゅうえん)がもたらされ、後にイタリアが統一国家になれたのだ、とも言えるのです。

 

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2021年

3月

30日

医学の歴史を訪ねて 第6回 ヴェネツィア編 その1

令和3年4月1日

 

ヴェネツィアVeneziaの地名

 5世紀頃、この地に移り住んだ「ヴェネトVenet(沼の居住者)族の街」という意味です。

 ヴェネト州の州都で、中世にはヴェネツィア共和国の首都として栄えた都市です。

英語ではVenice(ヴェニス、ベニス)と呼ばれます。

 人口約26万人(茅ヶ崎市と同じくらい)の自治都市です。

自治都市とは、市民自身が市政を運用する都市で、「コムーネcomune」と呼ばれます。

 イタリアの自治体には、日本のような行政上の都、道、府、県、市、町、村の区別はありません。

人口100万人を超えるナポリのような都市も、バローロのような1,000人以下の村もすべて「コムーネ」です。

 しかし、日本語に訳す際には「ナポリ市」や「バローロ村」のように、便宜的に日本の自治体の規模に合わせて呼ぶのが通例です。

この点は、フランスのコミューン(コミュヌ)と同様です。

 

 イタリアのコムーネは、共同体を表す英語のコミューンcommuneと同様、ラテン語のコミュニスcommunisが語源です。

英語のcommon(共通の)community(共同体、地域社会)、communication(伝達、情報、通信)、communism(共産主義)などは、communisからの派生語です。

 

 現地を訪ねるまで、私のヴェネツィアに関する知識は、シェイクスピアの「ベニスの商人」、ゴンドラが行き交(か)う「水の都」、美しい「ヴェネツィアン・グラス」、美味(おい)しいイカ墨(すみ)スパゲッティ、度々(たびたび)水没する「サン・マルコ広場」ぐらいの物でした。

                               

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インフルエンザ予防接種の予診票は当院受付にてお配りしている他、本サイトからもダウンロードできます。予め記入後お持ち下さい。

  ただし、「65歳以上の藤沢市民」は、当院にて専用の予診票に記入して頂きますので、ダウンロードは不要です。

お知らせ

5~11歳用の新型コロナワクチン接種は行っていません(令和4年3月3日)。

新型コロナワクチンの予約の電話が殺到し、業務に支障を来しています。本日より、予約は対面でのみ受け付けることに変更します。月・火・水・金の午後2時から3時の間に、接種券持参の上、当院窓口にお越し下さい。電話での予約はできません(令和4年2月1日)。

1月23日(日)は休日診療を行います。

発熱・急病・ケガの方は受診して下さい。

午前9時から午後5時まで。

新型コロナワクチンの3回目接種を開始しました。市から接種券が届いたら、電話もしくは窓口にて予約して下さい。

藤沢市以外の方も予約できます。

TEL 0466-31-0840

 1・2回目のワクチンも、受け付けています(令和4年1月17日)。

一般用インフルエンザワクチン20人分が入荷しました(令和4年1月11日)。

令和3年12月30日から令和4年1月3日まで休診します。

一般用インフルエンザワクチン48人分が入荷しました。(12月28日)。

一般用インフルエンザワクチン100人分が入荷しました。(12月23日)。

新型コロナワクチンの3回目接種を来年1月18日から開始します。

市から接種券が届いたら、電話にて予約して下さい。藤沢市以外の方も予約できます。

TEL 0466-31-0840

一般用インフルエンザワクチン92人分が入荷しました。在庫は300人分です(12月8日)。

一般用インフルエンザワクチン260人分が入荷しました(12月7日)。

一般用インフルエンザワクチンの在庫がなくなりました(12月6日)。

12月4日診療終了時点で、一般用インフルエンザワクチンの在庫は10人分です。

一般用インフルエンザワクチン300人分が入荷しました(11月30日)。

一般用インフルエンザワクチンの在庫がなくなりました(11月29日PM2:45)。

一般用インフルエンザワクチン20人分が入荷しました(11月29日AM11時)。

65歳以上の藤沢市民のインフルエンザ予防接種の予約を再開します(11月29日)。

ただし、接種は12月10日以降です。

一般用インフルエンザワクチンの在庫がなくなりました(11月26日PM4時)。

11月26日AM10:30、一般用インフルエンザワクチン40人分が入荷しました。

一般用インフルエンザワクチンの在庫がなくなりました(11月22日PM5時)。

11月22日PM0時、一般用インフルエンザワクチン50人分が追加入荷しました。

11月22日AM10時、一般用インフルエンザワクチン90人分入荷しました。65歳以上の藤沢市民には藤沢市から配給される筈ですが、未だ配給再開日が未定のため、希望者には一般用を転用して接種します。

11月22日午前、一般用インフルエンザワクチン約100人分入荷予定です。時間は未定です。入荷次第、お知らせします。電話での問い合わせはご遠慮下さい。

一般用インフルエンザワクチンの在庫がなくなりました(11月12日)。

一般用インフルエンザワクチン100人分が入荷しました(11月12日)。

一般用インフルエンザワクチンの在庫がなくなりました(11月10日)。

11月9日夕方4時頃入荷する予定の一般用インフルエンザワクチンが、60人分から90人分に増えました。

11月9日夕方4時頃、一般用インフルエンザワクチン60人分入荷予定です。

一般用インフルエンザワクチンの在庫がなくなりました(11月8日)。

一般用インフルエンザワクチン70人分が入荷しました(11月8日)。

一般用インフルエンザワクチンの在庫がなくなりました。入荷次第、お知らせします(11月5日)。

一般用インフルエンザワクチン100人分が入荷しました(11月4日)。

10月30日(土)、インフルエンザワクチンの在庫がなくなりました。

入荷しだい、お知らせします。

10月29日の診療終了時点で、一般用インフルエンザワクチンの在庫は17人分です。

一般用のインフルエンザワクチン60人分が入荷しました(2,800円)(10月29日)。

65歳以上の藤沢市民には、藤沢市からインフルエンザワクチンが配給されますが、現在、品不足のため配給が停止されています。

そのため、予約も一時的に中止しています(10月26日)。

10月23日(土)午前10時、インフルエンザワクチンの在庫がなくなりました。

入荷しだい、お知らせします。

10月22日診療終了時点で、インフルエンザワクチンの在庫35人分です。

10月21日朝、インフルエンザワクチン100人分入荷しました。

在庫は105人分です。

10月20日夕方、診療終了時点で、インフルエンザワクチンの在庫は17人分です。

10月18日朝、インフルエンザワクチン138人分入荷しました。

在庫は188人分です。

10月12日朝、インフルエンザワクチン100人分入荷しました。

在庫は約200人分です。

10月1日朝の診療開始時点で、インフルエンザワクチンの在庫は380人分です。

 新型コロナワクチンの予約受付を再開します。3週間おき、計2回の接種をキャンセルしないで必ず受けると約束する方だけに限ります。

接種日は11月1日(月)以降で、定員168人です。接種時間帯は診療時間と同じです。

 月、火、水、金曜日の午後2時から3時の間、当院にて、接種券を持参の上、予約して下さい。電話では予約できません。電話でのお問い合わせはご遠慮下さい(9月9日)。

 

新型コロナワクチンの接種枠が満杯になりました。一旦、予約受付を終了します。再開する際は当欄にてお知らせします(9月1日)。

新型コロナワクチンの予約受付を再開します。3週間おき、計2回の接種をキャンセルしないで必ず受けると約束する方だけに限ります。接種日は以下の2通りに限り、共に定員70人です。例外はありません。

月、火、水、金曜日の午後2時から3時の間、当院に接種券を持参して御予約下さい。電話では予約できません。電話でのお問い合わせはご遠慮下さい(9月1日)。

①9/11(土)②10/2(土)

①9/25(土)②10/16(土)

いずれも、時間は午後2時から5時までです。

新型コロナワクチンの接種枠が満杯になりました。一旦、予約受付を終了します。再開する際は当欄にてお知らせします(令和3年8月27日)。

新型コロナワクチンの予約受付を再開します。3週間おき、計2回の接種をキャンセルしないで必ず受けると約束する方だけに限ります。接種日は以下の11通りに限ります。例外はありません。

月、火、水、金曜日の午後2時から3時の間、当院に接種券を持参して御予約下さい。電話では予約できません。

①9/28②10/19、①9/29②10/20、①9/30②10/21、①10/1②10/22、①10/2②10/23、①10/4②10/25、①10/5②10/26、①10/6②10/27、①10/7②10/28、①10/8②10/29、①10/9②10/30

8月12日(木)から14日(土)までの3日間、夏期休業します。

 

全国的なワクチン不足のため、神奈川県より9月27日以降の予約受付を控えるよう通達がありました。当面の間、9月27日以降の新型コロナワクチンの予約はできませんので、ご了承下さい(令和3年7月15日)。

6月11日現在の、新型コロナワクチン予約状況は以下の通りです。

本日予約すると、1回目接種が8月後半、2回目接種が9月前半となります。

新型コロナワクチンの接種対象年齢が12歳以上に拡大されました。接種券(クーポン券)が届いたら、窓口にて予約して下さい。藤沢市以外の方も予約できます(令和3年6月2日)。