院長から一言を、掲載順に(現在から過去に、1年分)並べてあります。
2023年
4月
29日
土
令和5年5月1日
サンタ・マリア・ヌオーヴァ病院
大聖堂のすぐ裏にある、トスカーナ地方で最大、フィレンツェで最古の病院です。
現在は、230床の救急病院で、700年もの間、同じ建物のまま、立派に病院として機能しています。
いかにもフィレンツェらしいですね。
13世紀に、フォルコ・ポルティナーリという銀行家が創立しました。
彼は、「神曲」を書いた詩人ダンテが愛した女性ベアトリーチェの父親です。
家政婦モンナ・テッサに説得され、建設を決心したそうです。
彼女の墓が今も病院の中庭にあります。
14世紀には、34条から成る管理・運営の詳細な規約が作られました。
今日の病院組織の模範とされています。
時代を経て、この病院は寄付や寄贈で豊かになり、フィレンツェの芸術家たちによって装飾されてきました。
15世紀には、ローマ法王マルティーノ5世もこの病院を訪問しました。
ペストが大流行した際には、世界で最初の隔離病棟が設けられました。
スワッドルを巻かれた幼児の人形も展示されています。
病院隣接の教会の地下には、16世紀にレオナルド・ダ・ヴィンチが解剖を行った部屋と遺体を洗った「浴槽」が残っています。
令和3年2月の本稿「ミラノ編」で述べたように、レオナルド・ダ・ヴィンチは、15世紀、フィレンツェ近郊のヴィンチ村で生まれました。
レオナルドは様々な分野に顕著な業績を残しました。
彼が最も賞賛されているのは、「最後の晩餐」や「モナリザ」を描いた画家としてです。 しかし、忘れてならないのは、彼が偉大な解剖学者でもあったということです。
当時、教会は解剖を禁止していましたが、絵画・彫刻の勉強に解剖学が不可欠と考えたレオナルドは32体の解剖を自ら行いました。
近代解剖学の始祖です。
レオナルドはミラノやローマの病院でも解剖を行いましたが、フィレンツェではこのサンタ・マリア・ヌオーヴァ病院で発生した死体を、この地下室で解剖したのです。
2023年
3月
30日
木
令和5年4月1日
小児病院(捨て子養育院)
大聖堂から北へ少し行くと、古い小児病院があります。
15世紀に絹商人たちの浄財で建てられました。
元々は、孤児や捨て子の救済が目的だったため、「捨て子養育院」と呼ばれていました。
ヨーロッパ最古の孤児院です。
フィレンツェでは、このような慈善事業が盛んに行われ、大聖堂の脇には、未婚の母のための施設もありました。
捨て子養育院は、大聖堂のクーポラと同様に、ブルネッレスキが設計した、フィレンツェで最も初期のルネッサンス建築です。
古代ギリシャから長い時を経て、再び柱が建築の重要な要素となっています。
正面1階は、大きなアーチ(計9個)と円柱をもった長い回廊です。
各円柱の上部には、美しい青色の陶板メダル(メダイヨン)がはめ込まれています。
メダイヨンはアントニオ・デッラ・ロッビアの作品で、白い布(スワッドルswaddle)を巻かれた乳幼児がデザインされています。
中世では、赤ん坊を傷害から守るため、と称して体に包帯を巻く習慣がありました。
スワッドリングswaddlingと呼ばれました。
これは、産婦人科学の元祖として有名な、エフェソスのソラヌスが提唱し、ローマ時代の名医ガレヌスもこれを推奨しました。
この悪習は中世を通じて広く行われ、19世紀初めまで続きました。
現代でもスワッドルという言葉は使われてますが、包帯ではなく、新生児に着せる産着(うぶぎ)や「おくるみ」のことを指します。
また、回廊の端には、母親が人に顔を見られずに子供を捨てられる「回転木戸」が今も残っており、いささか胸が痛みます。
柱廊に囲まれた美しい中庭に面して、彩色テラコッタ「受胎告知」が描かれています。これも、アントニオ・デッラ・ロッビアの作品です。
受胎告知とは、キリスト教の新約聖書に書かれている有名な出来事です。
処女マリアの前に、天使のガブリエルが天から降りて来て、マリアが神の意志により男の子を懐妊したことを告げました。
そして、生まれた子をイエスと名付けなさい、と命じたのです。
マリアは、最初、戸惑いましたが、「神の思し召しに従います」と受け入れました。
キリスト教文化圏の芸術作品の中で、繰り返し登場する題材です。
受胎告知については、いずれウッフィツィ美術館の項で詳しく説明します。
2023年
2月
25日
土
令和5年3月1日
国立フィレンツェ美術学院
(アカデミア・ディ・ベッレ・アルティ・フィレンツェ)
ここは、かつて、療養所を兼ねた修道院でした。
18世紀後半に、トスカーナ大公ピエトロ・レオポルドが、フィレンツェにある幾多の美術学校を一つにまとめ、現在の地に、公立の美術学校と付属美術館を設立しました。
これが、フィレンツェ美術学院とアカデミア美術館の始まりです。
当然、美術学院と美術館は建物内で繋がっていて、自由に往来できます。
美術学院にも、アカデミア美術館に劣らず、興味ある作品が多く展示されています。
例えば、「臨終の場面を描いた浮き彫り(レリーフ)」、「幼年期のジグムント・クラシンスキー(詩人)と、その母マリアの死」「ピサの墓地に添えられた、死者を弔(とむら)う婦人像」「知恵と正義と戦いの女神アテナ像」など、枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がありません。
アテナは全能の神ゼウスと、巨神族の女神メティスの娘として生まれました。
しかも、ゼウスの頭の中から、槍(やり)を手にし、頭に兜(かぶと)を被(かぶ)った姿で出てきたのです。
父親が全能の神で、母親メティスも思慮深い女神として知られていましたから、アテナは「知恵と正義の女神」となりました。
オリンポス十二神の一人です。
アテナは「戦いの女神」でもありますが、軍神アレスのように残虐・血・殺戮(さつりく)ではなく、戦略・戦術の知的な分野を司(つかさど)り、戦車や武具を発明しました。
アテナは人類を賢(かしこ)くし、文明を発展させるために、その知恵を惜しみなく与えました。
すなわち工芸や医術、航海、紡績、建築、造船など様々な技術の女神として、人間達の生活に恩恵を与えました。
また、アテナは勇者達に援助や助言をし、武器を与え、時には戦いに付き添いました。
例えば、ペルセウスが怪物ゴルゴン3姉妹の一人メドゥーサを退治するのを援助しました。
また、ヘラクレスの成功の陰には、常にアテナがいました。
ギリシャの首都アテネの名も、もちろん、その守護神であるアテナに由来します。
アテナに関わる物をもう一つ披露します。
ギリシャ神話において、ゼウスが娘アテナに与えた防具を「アイギスAegis」といいます。アイギスは蛇で縁(ふち)取られており、すべての災(わざわ)いや邪悪を払う魔力がありました。
勇者ペルセウスも、アテナから借りたアイギスを使ってメドゥーサを退治したのです。
アイギスの英語読みが「イージス」です。
アメリカ海軍の艦隊防空システム(イージス システム)の語源です。全ての攻撃を防ぐ「鉄壁な盾(たて)」だという訳です。
そして、アテナの傍(かたわ)らにはいつも、翼(つばさ)を持つ勝利の女神ニケNikeが従っていました。
ニケNikeは英語では「ナイキ」と発音します。
世界的スポーツ用品メーカーの社名「ナイキ」は、ギリシャ神話の勝利の女神に由来しているのです。
この会社のロゴマークは、この女神の翼をイメージした物です。
ギリシャ神話の勝利の女神ニケは、ローマ神話ではヴィクトリアVictoriaと呼ばれます。
これは、もちろん、英語の"victory"(勝利)の語源です。
2023年
1月
30日
月
令和5年2月1日
アカデミア美術館
アカデミア美術館はフィレンツェ美術学校の付属美術館です。
ミケランジェロの彫刻数点と13~16世紀のフィレンツェ派絵画などを収めています。
ミケランジェロ・ブオナローティ(1475~1564年)は、フィレンツェ出身で、イタリアルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人です。
優れた芸術作品を多く残し、その多才さから、レオナルド・ダ・ヴィンチと同じく、「万能の人」と呼ばれています。
ミケランジェロはダ・ヴィンチより23歳年下で、さらに8歳若いラファエロを加えたこの3人は、「ルネサンス三大巨匠」と称されています。
ミケランジェロ自身は絵画を軽視していましたが、西洋美術界に非常に大きな影響を与えた2点のフレスコ画を残しています。
ヴァチカン市国にあるサン・ピエトロ大聖堂システィーナ礼拝堂の、天井画「創世記(そうせいき)」と祭壇(さいだん)壁画「最後の審判」です。
一方、ミケランジェロが最も重要視したのが彫刻で、その中でも最高傑作として有名なのが、サン・ピエトロ大聖堂の「ピエタ」(処刑されたイエス・キリストを腕に抱く聖母マリア)とアカデミア美術館の「ダヴィデ像」です。
ダヴィデ像は、16世紀初頭、26歳のミケランジェロが、メディチ家(ピエロ2世(ロレンツォ・メディチの子))を市外に追い出したフィレンツェ市民の依頼で、3年かけて制作した作品です。
ダヴィデは旧約聖書の「サムエル記」に登場する、紀元前1,000年頃の英雄です。
英語の男性名デイヴィッドDavidはダヴィデに由来しています。
ちなみに、旧約聖書とは「天地創造」や「ノアの方舟(はこぶね)」などの物語が記(しる)された、ユダヤ教・キリスト教の経典です。
イスラエルの最初の王であったサウルは、神の命令に背(そむ)き、裏切りました。
神が次のイスラエル王候補として目を付けたのが、羊(ひつじ)飼(か)いの少年ダヴィデでした。
ダヴィデはハンサムで竪琴(たてごと)が上手(じょうず)でしたが、勇敢な戦士でもありました。
サウルが率(ひき)いるイスラエル人たちは、ペリシテ人との戦いを繰り返していました。
たまたま戦陣を訪(おとず)れたダヴィデは、ペリシテ最強の巨人戦士ゴリアテに挑発され、羊飼いの杖と、袋に詰めた石だけを持ってサウルの前に出ました。
突進してくるゴリアテに向かってダヴィデが石を投げました。
石はゴリアテの額(ひたい)に命中し、ゴリアテがうつ伏せに倒れました。
ダヴィデはゴリアテの剣を引き抜き、その首を切り落としました。
ペリシテ軍はこれを見て総崩れになり、イスラエル軍が勝利しました。
以後も国を救う活躍を続けたダヴィデは、やがて2代目のイスラエル王となり、数十年に渡り国を統治しました。
ダヴィデの約1,000年後の子孫がナザレのヨゼフであり、ヨゼフの妻マリアがダヴィデの生誕地(せいたんち)ベツレヘムで産んだ子がイエス・キリストです。
ダヴィデ王は16世紀以降のフランスやイギリスのトランプ(カード)に、スペード♠のキングとして登場しています。
確かに、シンボルの竪琴を持って描かれています。
身長5.2mの大理石像は、ダヴィデが巨人ゴリアテに石を投げつけようと狙(ねら)いを定めている姿です。
筋肉が盛り上がり、静脈が浮き出て、緊張感に包まれています。
目を見据え、冷徹に口を結んだ表情が理性的です。
少年が巨人に立ち向かう像は、独裁政治を打ち倒す共和政と、周辺諸国に立ち向かう小国フィレンツェの象徴でもあります。
ダヴィデはユダヤ人ですから割礼(かつれい、包皮の切除)を受けている筈(はず)ですが、ミケランジェロは彼を包茎にしました。
そのため、この像が聖書に基づくと見なせるかどうか、いまだに論争が続いています。また、ダヴィデの睾丸は、左の方が右より下垂(かすい)しています。
これは、「男性の半数以上は、左の睾丸の方が右より下垂している」という統計学的事実と一致しています。
男性の読者諸賢(しょけん)、鏡(かがみ)を見てご確認下さい。
2022年
12月
30日
金
明けましておめでとうございます。今年もご愛読下さい。
シニョリーア広場(君主の広場)Piazza della Signoria
13-14世紀の自治都市フィレンツェの人々は共和政を旨(むね)とし、ことあるごとに広場に集まり、議論を戦わせ、挙手によって採決を行いました。
広場の一角の、丸いブロンズの敷石が埋まっている所が、ジロラモ・サヴォナローラGirolamo Savonarolaが拷問(ごうもん)の末、絞首刑となり、さらに火あぶりにされた場所です。
サヴォナローラはドミニコ会修道院の厳格な修道士で、人間の肉体や欲望を賛美するルネッサンスや、その推進者のメディチ家を猛烈に批判しました。
彼は「世俗文化が堕落し切っている」と嘆き、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で市民に訴えました。
そして、このシニョリーア広場に美術品や装飾品を山のように積み上げて、焼き払ってしまいました。
サヴォナローラはこれを「虚栄の焼却」だと主張しました。
15世紀末の出来事です。
歴史的には、宗教改革の先駆けと考えられています。
しかし、厳格な思想はルネッサンス期のフィレンツェでは受け入れられず、経済が停滞しました。
翌年、サヴォナローラから心が離れた市民が、彼を捕らえました。
さらに、ドミニコ会の台頭を疎(うと)ましく思っていたフランチェスコ会やメディチ家の人々は、サヴォナローラに「火の試練」を課しました。
「真の予言者なら、燃え盛る火の上を歩いてみせろ」と迫ったのです。
彼は「神を試してはいけない」と拒否しました。
すると、これを言い訳と見た市民は彼を裁判にかけ、無理やり罪人に仕立て上げ、絞首刑の後、火あぶりにしたのです!
ランツィのロッジアLoggia dei Lanzi
シニョリーア広場は政治の中心地で、市民集会がしばしば開かれました。
そして、集会が雨でも続けられるように、14世紀に回廊(ロッジア、屋根付き廊下)が建設されました。
名称の「ランツィ」とは、コジモ1世(コジモ・デ・メディチ)の統治下で、回廊ををランツクネヒト(ドイツ人傭兵)が使った史実に由来します。
ランツクネヒトが訛(なま)ってランツィになったのです。
現在は、古代やルネッサンス期の彫刻が並び、さながら屋根付きの屋外美術館です。
その中でも、我々が見逃せないのが、チェリーニ作「ペルセウス像」です。
勇者ペルセウスが、切り落としたばかりの怪物メドゥーサの首を、左手で高々と掲(かか)げています。
ミラノ編やヴェネツィア編で説明したように、メドゥーサはギリシア神話に登場する怪物ゴルゴンの3姉妹の一人です。
生来、美しい女性だったメドゥーサが、海神ポセイドンと交わったのがことの発端です。
戦いの女神(軍神)アテナがこれに嫉妬(しっと)し、メドゥーサを醜(みにく)い怪物に変えてしまいました。
美しい髪の毛の一本一本は毒蛇の姿となり、ニョロニョロと動きました。
イノシシの歯、青銅の手に変えられ、翼まで生やされました。
おまけに、目はギラギラと輝き、見た者を石に変えてしまう魔力を持っていました。
勇者ペルセウスは軍神アテナから盾(たて)を借り、眠っているメドゥーサに忍び寄りました。
目を合わせると石に変えられてしまうため、楯に映った怪物を見ながら、その首を見事、切り落とすことに成功したのです。
肝硬変などの門脈圧亢進症では、門脈血が臍帯静脈に流れ込み、下大静脈に向かいます。これを側副(そくふく)血行路と呼び、ここを流れる血液量が多くなると、腹壁(ふくへき)皮下静脈が放射状に怒脹(どちょう)します。
この様子が、のたうつ蛇のように見えるため、「メドゥーサの頭」と呼ばれます。
詳しくは、令和3年3月号のミラノ編 その5をご覧下さい。
2022年
11月
30日
水
慈善救急診療所 Misericordia(ミゼリコルディア)
キリスト教には、「内面的な信仰(神への愛)」と「外面的な行動(隣人愛)」を実行せよ、という考え方があります。
そして、隣人愛については、具体的な行動として、「慈悲 "Misericordia"(ミゼリコルディア)」を実践せよ、と教えています。
聖書に記されている「七つの慈悲の業(ぎょう)」とは、
①飢えている者に食事を与える
②喉が渇いている者に水を与える
③旅をしている者に宿を貸す
④裸でいる者に衣服を与える
⑤病人を見舞い世話する
⑥囚人を訪問する
⑦死者を埋葬する
の七つです。
中世ヨーロッパにキリスト教が広まると、ボランティア団体として数多くの「兄弟会」が生まれました。
その最古参が、13世紀のフィレンツェに創設された「ミゼリコルディア(慈悲の聖母マリア兄弟会)」です。
14世紀には、ミゼリコルディアは他の兄弟会(「オル・サン・ミケーレ」や「ビガッロ」など)と並んで、重要な慈善団体となりました。
14世紀以降、断続的に起きたペスト大流行の際には、ミゼリコルディアは慈悲の業に献身しました。
そして、病人の介護にあたった信者の多くがペストの犠牲になりました。
16世紀には、メディチ家のトスカーナ大公フランチェスコ・デ・メディチの意向により、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の前の広場(フィレンツェの一等地)に面した建物を与えられました。
二度に亘る世界大戦では、負傷兵や病人を搬送し、救急医療を提供しました。
現代でも、ミゼリコルディアは、キリスト教精神に基づいて医療・奉仕活動を続けています。
病人や貧民を救うだけでなく、処刑前の囚人に慰めを与えたり、貧しい子女の結婚費用を援助するなどの活動も行っているそうです。
大聖堂広場に面した本部の前には、ミゼリコルディアの救急車とスタッフが常時待機しています。
看板には「永遠に奉仕する」と書いてあります。
私も「慈悲」の心を発揮して、ささやかな寄付(10ユーロ、当時のレートで約1,300円)をしました。
フィレンツェではなく、藤沢市辻堂で、永遠に奉仕します。
2022年
10月
30日
日
令和4年11月1日
花の聖母(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)大聖堂(ドゥオーモ)
聖母マリアに捧げる教会がイタリアには約3,000ありますが、ここもその一つです。
フィレンツェの宗教の中心であり、フィレンツェの象徴です。
白、ピンク、緑の大理石が美しい幾何学模様を描いています。
圧倒感、均衡、優雅に満ちた、限りなくイタリア的なゴシック建築です。
当時のフィレンツェの隆盛にふさわしく、「できる限り荘厳に、かつ豪勢である」ことを旨として、13世紀、アモルフォ・ディ・カンビオによって建築が始められました。
フィリッポ・ブルネッレスキがクーポラ(円蓋(えんがい)、丸屋根、ドーム)を架け終わったのは15世紀です。
何と、200年の歳月をかけて建築された訳です。
約3万人が一堂に会することができる大きさを誇ります。
15世紀、フィレンツェでは街のシンボルとなるべき大聖堂にクーポラを架けるためのコンクールが開かれました。
高さ50m、直径40mもある内陣(最も奥にある本堂)の上にクーポラを乗せる工事は極めて難しく、当時の技術では不可能と考えられていました。
しかし、ブルネッレスキはローマでパンテオンなどの古代建築から学んだ技術を駆使(くし)して、この間題を解決しました。
すなわち、クーポラを二重構造にし、内側のクーポラで外側のクーポラを支えながら上へ上へと造っていくという方法です。
美しいカーブと見事な均整をもったクーポラが15年の歳月をかけて完成しました。
支柱なしに造られた世界最初のクーポラであり、建設当時は世界最大でした。
ブルネッレスキは古代建築の技術で、実現不可能と思われた大クーポラを見事に造ってみせました。
まさしく、古典の再生「ルネッサンス」です。
ブルネッレスキがルネッサンスへの扉を開いた訳です。
大聖堂付属の美術館には、13世紀の修道院で、ビンを掲げて尿検査をしている浮き彫り(レリーフ)があります。
修道僧たちは病人の尿を観察しました。
すなわち、その色、量、匂い、時には味(!)をみて、どんな病気を抱えているのかを推察し、薬草を調合したのです。
以降、尿を調べるフラスコが医療に携(たずさ)わる者のシンボルとなりました。
私は舐(な)めたことはありませんが、確かに、糖尿病患者の尿は甘いのです。
糖尿病をラテン語でDiabetes Mellitus(ダイアベーテス・メリトゥス)と言いますが、Diabetesは「絶え間なく流れる水」、Mellitusは「蜂蜜(はちみつ)のように甘い」という意味で、結局、「甘い尿を絶え間なく放出する」状態が糖尿病なのです。
ギリシャ神話で、全能の神ゼウスは赤ん坊の時、メリッサMelissaという女性から蜂蜜を与えられて育ちました。
この逸話から、ラテン語で蜂蜜のことをメラmella、蜂蜜のように甘いことをメリトゥスmellitusと呼ぶようになったのです。
私は、改めて、医学とギリシャ神話が深く結びついていることに感動を覚えます。
それと同時に、ヨーロッパ人が病態を語る際の、洒落(しゃれ)た感覚に脱帽します。
2022年
9月
29日
木
令和4年10月1日
サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局 Santa Maria Novella
現存する世界最古の薬局です。
13世紀、フィレンツェに移住してきたドミニコ会の修道院サンタ・マリア・フラ・レ・ヴィニェSanta Maria Fra Le Vigne(「ブドウ畑の聖母マリア」)の修道僧が薬草を栽培して薬を調合したのが始まりです。
17世紀には薬局として認可され、一般営業を開始しました。
この修道院が、後のサンタ・マリア・ノヴェッラ教会へと発展しました。
日本を始め、世界中に支店がありますが、もちろんフィレンツェが本店です。
店に入ると、すぐに、素晴らしい香りに魅了されます。
800年以上の伝統が守られており、美術館や教会かと見間違(みまちが)うような天井画と、年代物の家具・調度品を揃(そろ)えた内装に圧倒されます。
壁には、アルバレッロと呼ばれる陶器の壷に入った軟膏や薬品が並んでいます。
今もなお、オーデコロン「アックア・デッラ・レジーナAcqua della Regina(王妃(おうひ)の水)」や石鹸、香水、スキンケアなど、高品質な商品は世界中の人々に愛されています。
かつては、気絶した際の気付け薬も製造していたそうです。
「王妃の水」はフランス王アンリ2世の妃(きさき)カトリーヌ・ド・メディシスに捧げられた香水です。
後の18世紀になって、イタリア人の薬剤師がこの香水をドイツのケルンKöln(フランス語ではコロンCologne)で作ったことから、"eau de Cologne" オーデコロン(「ケルンの水」、オー"eau"はフランス語で「水」)と呼ばれるようになりました。
つまり、オーデコロンの元祖という訳です。
「アックア・デッラ・レジーナ」は、現在でもサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局の主力商品です。
この薬局のオンラインストアを見ると、1本100mlで、17,600円でした。
読者諸賢も奥様へのプレゼントにいかがでしょうか?
私がおもしろいと思ったのは、アルケルメスAlkermesというリキュールです。
これは、サボテンにたかる貝殻虫(かいがらむし)を乾燥させ、体内に蓄積されているコチニールと呼ばれる色素を抽出して、養命酒のような酒にした逸品です。
コチニールは天然の赤い色素として、昔から世界各地で使われており、カンパリなどの酒や清涼飲料水、ハムや蒲鉾(かまぼこ)などの着色に広く用いられています。
ケルメスKermesは、「貝殻虫」という意味ですが、深紅(しんく)を意味するアラビア語キルミズ"qirmiz"(英語ではクリムゾン"Crimson")に由来しています。
私はまだ、アルケルメスを飲んだことがありませんが、ネット通販でも買えるようですので、近いうちに取り寄せて、試してみようと思っています。
2022年
8月
29日
月
令和4年9月1日
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会 Santa Maria Novella
フィレンツェは、ペストの大惨禍(だいさんか)を受けた街として有名です。
14世紀半ばに大流行したペストによって、フィレンツェだけで6万人、つまり人口の半分が死んだと記録されています。
この街で生まれたジョヴァンニ・ボッカチオが著(あらわ)した「デカメロン」は、14世紀のペストの流行を背景に、人間の実態を描いた傑作と言われます。
ダンテの「神曲」に対して、「人曲」と呼ばれるぐらい、人間臭(くさ)い物語集です。
アラビアの「千夜一夜物語(アラビアンナイト)」の影響を受けているそうです。
ペストの感染から逃れるために邸宅に引き篭(こ)もった10人の男女が、退屈しのぎに、それぞれ物語を語って、他の人に聞かせます。
1人が1日1物語ずつ、10人が10日間にわたって語りますから、10×10=100の物語が語られます。ちなみに、「デカメロン」の「デカ」はギリシャ語で10という意味です。
私も、原文ではなく日本語訳ではありますが、本を買い、全文を通読しました。
文体は美しい文学調ですが、内容は、はなはだ卑猥(ひわい)で低俗です。
参考までに、第九日、第十話の一部を抜粋(ばっすい)します。
「カトリック教会の神父が信者の家に宿泊した」という内容の物語です。
「神父は、信者の妻の服を脱がせて、素っ裸(すっぱだか)にさせると、両手と両足で床に四つん這(ば)いにさせました。・・・それから胸に触れ、・・・シャツの裾(すそ)をまくり上げ・・・」
もう、これ以上、書けません。
興味のある方は、「デカメロン」を実際に自分の目でお読み下さい。
私には、体裁(ていさい)の良いポルノ小説としか思えません。
この物語で、10人の男女が最初に集結し、最後に解散したのが、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会です。
物語の内容が極めて下品なのに対し、教会は非常に上品で素晴らしいのです。
ゴシック様式を踏襲(とうしゅう)しつつ、フィレンツェ独自のスタイルを確立しています。
正面(ファサード)は、15世紀に、レオン・バッティスタ・アルベルティが設計しました。白、緑、ピンクの大理石で構成され、大変美しい姿です。
なぜ、ボッカチオがこの教会を舞台にした小説を書いたのか、私の考えを述べます。
サンタ・マリア・ノヴェッラ(Santa Maria Novella)教会の"Novella"は、イタリア語で「知らせ」「便り」という意味ですから、「サンタ・マリア・ノヴェッラ」は「マリア様の便り」という意味になります。
つまり、「この教会に来れば、聖マリアのお告げが聞ける」ということでしょう。
一方、"Novella"は、英語では"novel"で、「小説」「物語」という意味もあります。
フィレンツェを舞台に百の物語を書こうと思ったボッカチオは、当然、フィレンツェで最も由緒正しく、しかも「物語」の名が付いた、この教会を登場させたのだと思います。
教会前の駐車場には、教会所有の救急車が並んでいました。
救急車をイタリア語で"AMBULANZA"といいますが、車体に書いてあるのは、これを鏡(かがみ)で見た書体です。
前にいる自動車のバックミラーに映(うつ)るとAMBULANZAと読めるように、わざと鏡文字で書いてあるのだそうです。
2022年
7月
31日
日
令和4年8月1日
メディチ家Medici
メディチ家は、ルネッサンス時代のフィレンツェの政財界を牛耳(ぎゅうじ)っていました。
今でも、市内のあちこちでメディチ家の紋章が見られます。
テントウムシのような紋章の花はユリの花です。
6個の丸い玉は丸薬(がんやく)をかたどったものです。
メディチ家の起源が薬屋か医師であったという説の根拠とされています。
Mediciという家名がラテン語のmedicinaメディキーナ(医術、薬)やmedicusメディクス(医師)と似ていますから、この説は有力です。
イタリア語で医師はmedicoメディコ(複数形:mediciメディチ)、医学はmedicinaメディチーナです。
英語でも医学(特に内科)をmedicineメディシンと言います。
メディチ家・フィレンツェの守護聖人も、聖コスマスCosmasと聖ダミアンDamianという、二人の殉教した兄弟医師です。
この二人の聖人は3世紀から4世紀の人で、下肢の移植をした医師として有名です。
コジモ・デ・メディチなど、一族に多いコジモCosimoの名は、この聖コスマスに由来しています。
キリスト教の伝説では、二人は治療費をとらずに奉仕活動をし、多くの人々がキリスト教に改宗しました。
しかし、ローマ帝国の皇帝ディオクレティアヌスが4世紀初頭に行ったキリスト教徒大迫害により、二人は打ち首にされたそうです。
今では、メディチ家・フィレンツェだけでなく、医学・医師・薬剤師の守護聖人として、世界中で崇(あが)められています。
ちなみに、外科をsurgeryサージェリーと呼びます。
中世まで、外科は医師の仕事ではなかったため、medicineとは呼ばれなかったのです。
surgeryがmedicineの仲間に加えてもらったのは、つい最近の19世紀以降なのです。
昔は、medicineといえば内科学を意味したのですが、今では外科学など他の分野の医学も加わったため、特に内科学に限定する場合はinternal medicineと呼びます。
メディチ家紋章の6個の丸い印は、貨幣、あるいは両替商が使う天秤(てんびん)の分銅(ふんどう)を表しているという説もあります。
メディチ家をフィレンツェ随一の大富豪にした家業、すなわち銀行業(両替商)に因(ちな)んでです。
13才のミケランジェロ(後に「ダヴィデ」などを製作)を見いだし、彼に彫刻の勉強を始めさせたのも、ラファエロを援助し、「アテナイの学堂」などの名画を描かせたのも、メディチ家です。
また、花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)の大聖堂にクーポラ(円天蓋)を完成させたブルネッレスキや、放蕩三昧(ほうとうざんまい)の末に修道女と駆け落ちしたものの「聖母(せいぼ)戴冠(たいかん)」などの名作を残した画家フィリッポ・リッピの後ろ盾(だて)になったのも、メディチ家でした。
要するに、メディチ家がルネッサンスの保護者・パトロンだったのです。
2022年
6月
30日
木
令和4年7月1日
ルネッサンス
フィレンツェFirenze(英語:フローレンスFlorence)はトスカーナ地方の中心地です。
この街の起源は、古代ローマ時代、ジュリアス・シーザーの頃にさかのぼります。
紀元前1世紀、ローマ人はここにフローレンティアFlorentia(ラテン語で「花の都」「繁栄する都」)という名前の街(まち)を建設したのです。
ローマ神話のフローラFlora(「花・春・豊饒(ほうじょう)」の女神)が語源です。
古代ローマから2,000年の歴史を有し、街全体がユネスコ世界遺産に指定されています。
15世紀には、フィレンツェがルネッサンスの中心地となりました。
ダンテ、ボッカチオ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなどがここを舞台に活躍しました。
ルネッサンス"Renaissance"とは、「再生、復活」を意味し、15世紀頃にフィレンツェを中心に興(おこ)った学問、芸術、文化の一大革新活動です。
その特徴は、ギリシア・ローマ時代の古典文化の復興、科学への取り組み、人間性の尊重、そして個性の解放でした。
ルネッサンスが1400年代(15世紀)に起こったので、イタリアではルネッサンス期をクワトロチェントQuattrocentoと呼びます。400という意味です。
それにしても、どうしてイタリアでルネッサンスが興ったのでしょうか?
ビザンツ帝国(東口ーマ帝国)が、オスマン帝国の圧迫に耐えかねて、西ヨーロッパに助けを求めたのが始まりなのです。
14世紀末、ビザンツ皇帝はヨーロッパを訪(おとず)れ、救援を要請してまわりました。
その一行の中に学者がいて、イタリアの各地で知識人にギリシア語を伝授しました。
それに最も興味を示したのがフィレンツェでした。
ギリシア文明への注目がこうして始まりました。
ギリシア語熱は高まり、ギリシア哲学やギリシア美術にも注目が集まりました。
プラトン(紀元前5-4世紀、ギリシャの哲学者)の著作を神秘的に解釈する新プラトン主義が起き、フィレンツェの知識人を虜(とりこ)にしました。
その中に、メディチ家のコジモ・デ・メディチ(コジモ1世)もいました。
コジモ1世はギリシア文献学の必要性を痛感し、研究のための学院を自費で作りました。
それが、アカデミア・プラトン(プラトン学院)です。
そして、15世紀、コンスタンチノープルがオスマン・トルコに攻め落とされ、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)が滅亡しました。
すると、イタリアの商人達はコンスタンチノープルに殺到し、ギリシア関連の写本・文献を買いあさりました。
こうして、フィレンツェを代表とするイタリアの都市は、ギリシア文明を研究し、再生しました。
つまり、ルネッサンスとは、イタリアに起きたギリシア文明ブーム、プラトン・ブームだったのです。
同時に、古代ギリシア医学の流れを汲(く)むアラビア医学が西欧にもたらされました。
ルネッサンスにより、古代ギリシア医学の再興が起きた訳です。
そもそも、紀元前の古代ギリシア医学が、西洋医学の始まりです。
病気に伴う現象を注意深く観察し、理論を立て、そこから導き出された治療法を確立した、素晴らしい学問でした。
もちろん、現代の日本の医学も西洋医学の流れを汲むことは、言うまでもありません。
紀元前3~2世紀、アレキサンダー大王の東方遠征に伴い、古代ギリシア医学は大きな発展をしました。
いつの時代でも、大きな戦争を契機として医学が進むのは皮肉なことです。
そして、古代ローマ帝国の時代にガレノスが現れ、古代ギリシア医学を理論的に集大成したガレノス医学を確立しました。
4世紀末、古代ローマ帝国は東西に分裂しました。
東ローマ帝国では古代ギリシア医学の流れを汲むアラビア医学が、西ローマ帝国ではガレノス医学の流れを汲む僧院(教会・修道院)医学が、それぞれ主流となっていきました。
西ローマ帝国はゲルマン民族の大移動により、5世紀末に滅亡しましたが、僧院医学はその後も受け継がれていきました。
中世の修道院には、付属病院が設けられ、修道女が看護にあたりました。
僧院医学では、新しい研究や治療が行われることはなく、看護・療養が主体でした。
15世紀、オスマン帝国により東ローマ帝国が滅亡し、西へ逃れた人々により、古代ギリシア医学の流れを汲むアラビア医学がヨーロッパにもたらされました。
ここに、ルネッサンスが始まり、古代ギリシア医学が再興しました。
ルネッサンス期には、ヨーロッパ各地に大学が設立され、人体への本格的な探求が始まり、解剖も盛んに行われるようになりました。
万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチが精密な人体解剖図を描いたのも、ヴェサリウスが本格的解剖書「人体の構造(ファブリカ)」を著したのも、ルネッサンス期でした。
医学の歴史を訪ねて 第4回 ミラノ編、第13回 ヴェネツィア編をご参照下さい。
2022年
5月
28日
土
令和4年6月1日
魚市場と胃袋
リアルト橋の近くに魚と野菜などの市場(いちば)があります。
現在はリアルト市場と呼ばれていますが、昔からペスケリア"Pescheria"(魚市場、鮮魚店)という名で親しまれてきました。
ラグーナ(干潟)やアドリア海で捕れた魚介類が売り買いされる場所として発展してきたからです。
今では魚だけではなく、野菜・果物、肉、チーズ、生ハムの専門店やバール(酒場)なども並び、大変賑(にぎ)わっています。
リアルト市場は12世紀に誕生しました。
ヴェネツィアで最古の市場として知られており、地元の人々やレストラン関係者もここで買い物をします。
ヴェネツィアの台所として、人々の食生活を垣間(かいま)見ることができます。
上野のアメ横と違って、店員は威勢の良い掛け声を出したりしませんが、気さくに客の注文に応じています。
昔は、この市場から出た魚や野菜のゴミを、リアルト橋から運河に投げ捨てていたそうです。
魚市場には、gastronomia(ガストロノミア)という看板がアチコチにあります。
私のような医者は"gastro-"(ガストロ)と聞けば、gastritisガストライティス(胃炎)、gastrocameraガストロカメラ(胃カメラ)、gastric cancerガストリック キャンサー(胃癌)などのように、すぐ「胃」を思い浮かべます。
けれども、ガストロノミアは胃袋を売っている店ではありません。
「料理法」や「美食」という意味で、要するに「食料品店」「惣菜(そうざい)屋」です。
ギリシャ語gasterガステル (胃、腹)がラテン語を経て、胃に入るもの→食料→うまいもの→料理などと、意味が変化していったのです。
gastronome ガストロノーム(美食家、料理名人)、epigastriumエピガストリウム (上腹部)、gastralgiaガストラルギア(胃の痛み)、gastroenteritisガストロエンテライティス(胃腸炎)なども、みんなこれから派生した言葉です。
そう言えば、日本にはガスター"Gaster"という胃薬や、ガスト"Gast"というレストランもありますね。
両方とも胃袋に因(ちな)んで名付けられたのでしょう。
今回でヴェネツィア編を終わります。
2022年
4月
29日
金
令和4年5月1日
井戸(ポッツォ)
ヴェネツィアの街には、あちこちに昔の井戸があります。
ポッツォと呼ばれます。
井戸と言っても、天然の湧(わ)き水が出た訳ではありません。
海の干潟(ひがた)に人工的に造られた街ヴェネツィアは、高潮(たかしお)という水との戦いの他に、飲料水の確保という切実な問題を抱えていました。
地中海沿岸は比較的雨量の多い地域ですから、雨水を利用することを考えました。
これには、塩田(えんでん)開発の技術を応用しました。
まず、広場や空地(あきち)などの中央の、可能な限り広い正方形の土地を、深く掘り下げます。
その内側をすり鉢(ばち)状に粘土で固め、すり鉢の底に石を敷き詰めます。
そして、その上に多量の砂を詰めて、最後に石畳(いしだたみ)を舗装します。
井戸の周囲に降った雨は砂の中に滲(し)みこみ、砂でろ過された浄水が底に溜(た)まります。
それを汲(く)み上げて飲料水にしたのです。
井戸には様々(さまざま)な彫刻が施(ほどこ)され、広場の飾りになっています。
裕福な階層の人々は、自宅の中庭に同様な井戸を造りました。
これらの井戸は、現在では使われておらず、たいてい金属の蓋(ふた)で覆(おお)われています。
では、糞尿など下水はどうしたかと言うと、当然、海や運河へ、たれ流していました!
サン・ロッコ 大同信組合
16世紀に、聖ロッコを信仰するサン・ロッコ信徒会の集会堂として、ルネッサンス様式で建てられ、後(のち)に病院として利用されました。
現在は、ティントレットが旧約聖書・新約聖書に題材を得て20年以上の歳月をかけて描いた、圧倒的な天井画と巨大な油絵の、計70点余(あま)りで埋め尽くされています。
聖ロッコ"Rocco"(ラテン語:ロクス"Rochus"、英語:ロック"Roch")は、13世紀末、南仏モンペリエに生まれ、20歳で両親を亡くしたことを機に、全財産を貧しい人に譲(ゆず)り、ローマ巡礼の旅に出ました。その道程(どうてい)で、ペスト患者の看病に献身しました。
彼が患者の頭上に十字架の印を結ぶと、ペストがたちまち癒(い)える奇跡が起きました。ローマでは枢機卿(すうききょう)を回復させ、教皇にも謁見(えっけん)しました。
3年後、帰路についたロッコは、ついに自身がペストに罹患(りかん)してしまいました。
彼は人里(ひとざと)離れた森に籠(こも)りました。喉(のど)の渇(かわ)きに悩み、祈ると、自然に泉が湧(わ)きました。
空腹に苦しむと、犬がパンを運んで来てくれました。
旅を再開したロッコは生まれ故郷に戻りましたが、怪しい風体(ふうてい)の男として投獄され、5年後に獄中で亡くなりました。
今では、ペストに対する守護聖人として崇(あが)められています。
「大腿のペスト痕(こん)」と「パンをくわえた犬」が聖ロッコの象徴です。
2022年
3月
31日
木
令和4年4月1日
消防署
前回、述べたように、ヴェネツィアには自動車がありません。
当然、消防車もなく、運河に面した消防署には消防ボートが停泊していました。
サン・ジャコモ・デル・オーリオ医学校
リアルト橋とサンタ・ルチア駅の中間辺りにサン・ジャコモ・デル・オーリオ教会があります。
その裏手の広場の一角に、サン・ジャコモ・デル・オーリオ医学校と、付属の解剖学研究所の跡があります。
パドヴァ大学の解剖学教室をモデルにして、17世紀に建てられました。
残念ながら、19世紀に、火事で廃校になったそうです。
この辺り一帯は、地元では「解剖学の広場」と呼ばれています。
近傍の運河には、「解剖橋」という、世にも珍しい名前の橋があります。
研究所が運河に面して建てられたのには意味があります。
解剖に供する遺体を運ぶ船は、運河を通って、研究所の横に着き、遺体を荷揚げしたのです。
だから、ここに架かる橋が「解剖橋」と呼ばれるようになったのです。
サン・ジャコモ"San Giacomo"とは、日本語では聖ヤコブ"Jacob"、スペイン語ではサンチャゴ"Santiago"と呼ばれる聖人で、イエス・キリストの十二使徒(弟子の中でも、特別の権威を与えられた12人)の一人です。
ちなみに、ラテン語ではJacobus(ヤコブス)、英語では Jacob(ジェイコブ)、 James(ジェームズ)、フランス語では Jacques(ジャック)です。いずれも男子の名です。
後に福音書を記したヨハネ(やはり十二使徒の一人)の兄で、弟のヨハネと共にガリラヤ湖で漁師をしていましたが、網の手入れをしていたところをイエスに呼ばれ、ヨハネと共にイエスの弟子になりました。
イエスが十字架で処刑された後、ヤコブはユダヤで布教活動をしていましたが、西暦44年、キリスト教徒を弾圧するユダヤの王ヘロデ・アグリッパ1世に処刑されました。
十二使徒の中で最初の殉教者です。
処刑後、弟子たちが彼の遺体を小舟に乗せて海に出たところ、神に導かれるようにしてスペインのガリシアに到着し、ここで遺体を葬りました。
その後、イスラム教徒によるイベリア半島征服の混乱の中で墓は忘れ去られていましたが、9世紀、明るい星に導かれ、羊飼いが野原の中に聖ヤコブの墓を見つけました。
この場所が現在のサンティアゴ・デ・コンポステーラ"Santiago de Compostela"で、ヴァチカン、エルサレムと並んでカトリック教会の三大巡礼地の一つとされています。
コンポステーラ"Compostela"とは「星の野原」という意味です。
その後も、キリスト教徒がイスラム教徒と領土争いを繰り返していた「レコンキスタ(国土回復運動)」と呼ばれる時代、たびたび白馬にまたがった騎士姿の聖ヤコブが天から現れ、キリスト教徒を勝利に導いたと言われています。
現代でも聖ヤコブがスペインの守護聖人として広く崇拝されている所以(ゆえん)です。
ホタテ貝は聖ヤコブのシンボルで、フランスではホタテ貝を「聖ヤコブの貝」と呼ぶそうです