院長から一言を、掲載順に(現在から過去に、1年分)並べてあります。
2023年
8月
31日
木
令和5年9月1日
ウッフィツィ美術館
1.「春(プリマヴェーラ)」(15世紀) 続き
左端の、羽が付いた帽子をかぶり、翼がある靴を履き、右手で杖を掲(かか)げているのは、ゼウスの息子ヘルメスです。
オリンポス十二神の一人です。
ゼウスは、自分の役に立つ、抜け目のない知恵を持つ子が欲しいと考えました。
ゼウスは妻ヘラが眠っている隙(すき)に、美しい女神マイアと交わり、息子ヘルメスを産ませました。自分の思い通りに、如才(じょさい)ない子が生まれたことを喜んだゼウスは、ヘルメスをオリンポスの神の仲間に加え、十二神の一人としました。
そして、彼を自分の「伝令」にしました。
ヘルメスは、少年時代、遠くまで「旅」をして、太陽神アポロンが飼う牛を「盗み」ました。そして、牛を取り返しに来たアポロンに「泥棒などしていない」と「嘘」をつきました。ゼウスの命令により牛の群れをアポロンに返したヘルメスは、詫(わ)びの印に自分が発明した竪琴(たてごと)をアポロンに贈りました。
すると、アポロンは引き替えに、魔力のある黄金の「杖」をヘルメスに与えました。
杖には、知恵の象徴である蛇(へび)が2匹巻きつき、頭には飛び回るための翼(つばさ)が付いています。
ヘルメスは「旅」をして、「盗み」を働き、「嘘」をつき、アポロンと「互いの利益となる交換」をしたので、旅行・泥棒・雄弁・商売の守護神となりました。
ラテン語では商業をメルクスmerxというので、ヘルメスはローマ神話ではメルクリウスMercuriusと呼ばれます。
6世紀に水銀(quick silver「速く動く銀」)が発見された際、床に落とすとその1滴1滴が球になってすばやく弾(はじ)ける姿から、マーキュリーmercuryと名付けられました。
個体・液体・気体と簡単に変化する性質も、オリンポスの神界(しんかい)から人間界へ、そして冥界(めいかい)へと、神出(しんしゅつ)鬼没(きぼつ)の動きをするメルクリウスMercuriusの名に因(ちな)んだ命名なのです。
同じ理由で、太陽に最も近い軌道を回るため、すぐ見えなくなる水星をマーキュリーMercury、移り気な性格をマーキュリアルmercurialといいます。
使者や、恋愛の提灯(ちょうちん)持ちのことも、マーキュリーmercuryと呼ぶそうです。
フランスのブランド「エルメスHermes」は、元々、旅行用品会社だったので、旅の神ヘルメス(メルクリウス)を社名にしたのです。
フランス語ではHを発音しないため、エルメスなのです。
そのロゴマークには、時計でいえば、2時・4時・8時・10時の方向にヘルメスの杖が描かれています。
また、商科大学である、日本の一橋大学の校章「マーキュリー」には、商売の神ヘルメスの杖が描かれています。
ヘルメスの杖は、死者を冥界に導き、時にはよみがえらせる、魔力を持ちます。
そのため、やはり死者を蘇生させる力があると信じられた、西洋医学のシンボルでもある「アスクレピオスの杖」としばしば混同されます。
特に北米では、ヘルメスの杖が誤って医療団体のマークとして用いられることが多いようです。
何と、日本の防衛医科大学や聖路加国際大学の校章にも「ヘルメスの杖」が描かれています。
しかし、「アスクレピオスの杖」に巻き付く蛇は一匹だけで、翼もありませんから、「ヘルメスの杖」とは明らかに異なります。
「ヘルメスの杖」は医学の紋章(もんしょう)ではないのです。
アスクレピオスの杖については、令和3年8月1日号や令和4年10月1日号でも触れましたので、ご参照下さい。
2023年
7月
30日
日
令和5年8月1日
ウッフィツィ美術館
15世紀にフィレンツェ共和国の実権を握ったのが、銀行業で財を成したメディチ家のコジモ・デ・メディチでした。
フィレンツェ共和国は16世紀に、さらに拡大してトスカーナ大公国と成りました。
その初代大公(支配者)もメディチ家の一員で、コジモ1世です。
16世紀のコジモ1世は、15世紀のコジモ・デ・メディチとは別人です。
コジモ1世は、行政・司法・立法(議会)を1カ所にまとめ、機能を集中させました。
これが、現在のウッフィツィ美術館です。
かつて官庁街(ウッフィツィUffici、英語ではオフィスoffice)が置かれていた場所だから、「ウッフィツィ美術館」と呼ばれているのです。
1.「春(プリマヴェーラ)」(15世紀)
ボッティチェリの絶頂期の作品です。
べールをまとい、しなやかに踊る女神たち、花で飾り立てた女性、オレンジが実る森、足元の植物など、「春の賛歌」にあふれています。
もちろん、中央に立ち、一際(ひときわ)目立つのは美の女神ヴィーナスです。
オレンジは実を多く付けるので、子宝に恵まれる繁栄のシンボルでもあります。
右端の、青緑色で羽の生えたゼヒュロスは、妖精クロリスに春を呼ぶ風を吹き付けています。
ゼヒュロスはギリシャ神話に登場する西風の神です。
ギリシャ人にとって、西から吹く風は、花を咲かせ、緑をもたらす春の風です。
だから、西風の神ゼヒュロスは青緑色なのです。
ゼヒュロスは彼女を誘拐後、花を咲かせる能力を与えます。
彼女の口から花が咲き出しています。
クロリスの隣にいるのは、彼女を誘拐した罪を悔いたゼヒュロスが神に昇格させたクロリス自身、すなわち、春と花の女神フローラです。
ゼヒュロスはフローラに花園を与えました。
「春」の到来です。
ここでも、四元素説を見ることができます。
古代ギリシャのエンぺドクレスは、世界は土・水・火・風(空気)の四つの要素(四元素)が混じり合ってできており、それが宇宙万物の姿だと考えました。
そして、その宇宙万物が移ろい行くのは、この四元素に「結合させる力(愛)」と、「分離させる力(争い)」という2つの力が働いて、千差万別に変化していくからだと解釈しました。
四元素の一つ「風」が愛によって「春」を呼んだ、というのがこの作品の主題です。
西風の神ゼヒュロスは、暖かい風を吹くだけでなく、恐ろしい罪も犯しました。
彼は、スパルタ王の息子である美少年ヒュアキントスに思いを寄せましたが、太陽神アポロンも同様でした。
古代ギリシャでは、大人の男と少年の同性愛は信頼や絆(きずな)の証(あかし)と見なされ、女性への愛よりも価値が高いと考えられていました。
2人の男性神は少年への愛を競いましたが、ヒュアキントスがアポロンを選んだため、ゼヒュロスは嫉妬(しっと)に狂いました。
アポロンと少年ヒュアキントスが円盤投げをして遊んでいるのを見たゼヒュロスは、アポロンが投げた円盤に突風を吹き付け、少年の額(ひたい)にぶつけました。
少年は真っ赤な血を流して息絶えました。
アポロンはその死を嘆(なげ)き、「花となって私の愛を受けよ!」と叫びました。
血に染まった草の上にアポロンの涙がしたたり落ちると、美しい花が咲きました。
この花は、少年の名「ヒュアキントス」に因(ちな)んで「ヒヤシンス」と呼ばれます。
この故事(こじ)が由来となり、ヒヤシンスの花言葉は「悲しみを超えた愛」とされています。
悲しいけれども、ロマンチックな神話ですね。
2023年
6月
29日
木
令和5年7月1日
フローレンス・ナイチンゲール
ナイチンゲールが生まれたのは1820年で、今から約200年前です。
彼女の誕生日にちなんで、「国際看護師の日」は毎年5月12日と決められています。
共に英国貴族出身の裕福な両親は、3年(!)にも及ぶ新婚旅行に出かけました。
その途中、フィレンツェで生まれたのがフローレンス・ナイチンゲールです。
フィレンツェで生まれたため、その英語名「フローレンス」と名付けられたのです。
教育熱心な父親は、彼女に国語(英語)はもちろん、イタリア語、ギリシャ語、哲学、歴史、さらに女性には不要と考えられていた数学まで教えました。
成長した彼女は、美女で教養が高く、社交界の花形になりました。
しかし、30才を過ぎて、婚約者や財産を捨て、ロンドンの病院の看護婦になりました。当時の看護婦は、資格もなく、卑しい職業であったにもかかわらず、です。
そして、1853年クリミア戦争が勃発すると、彼女は現在のイスタンブールにあったスクタリ陸軍病院に、看護婦仲間と共に赴任しました。
病院の外観は豪華でしたが、糞尿を流す下水の上に建てられていて、不衛生でした。
しかも、ナイチンゲール達は現場の医師団から邪魔者扱いされました。
医師団の長官が、本国(イギリス)に「問題なし」と報告していたため、彼女達が活動し、実態が知られてしまうと困るからです。
さらに、軍の命令系統が非効率で、「医療品が足りない」ことを現地の司令官に伝えるために、わざわざ本国の司令官を通さなければなりませんでした。
ここで、ナイチンゲールは官僚主義・無気力・不合理な男社会に立ち向かいました。
誰もやりたがらなかったトイレ掃除を皮切りに、徐々に自分の権限を拡大しました。
時には上官と対立し、物資が入った箱をゲンコツで叩き割り、医薬品を奪い取りました。
彼女は状況をタイムズ紙に報告した上、ヴィクトリア女王に直訴して寄付を集め、私財も投じて、医療品・食料品を確保しました。
彼女が精力的に環境を改善したお蔭で、傷病兵の死亡率が、半年で42%から2%に激減しました。
彼女は夜間もロウソクの灯りを頼りに傷病兵を見回ったので、彼らから「ランプの貴婦人」として、慕われました。
帰国後、傷病兵の死因を分析し、900ページに及ぶ報告書を政府に提出しました。
この中で、彼女は世界で初めてグラフを使用したため、統計学の先駆者と呼ばれます。
彼女は近代看護学を確立し、60才時に看護専門学校(ナイチンゲールスクール)を設立しました。世界初の、宗教とは無関係の看護学校です。
その後、彼女は「クリミアの天使」と呼ばれるようになり、やがて、看護婦が「白衣の天使」と呼ばれるようになりました。
しかし、彼女はこの呼称を嫌い、「天使とは、美しい花を振りまく者ではなく、病人のために戦う者だ」と語りました。
看護と衛生に生涯を捧げた彼女は、90歳で、教え子と猫に囲まれて、亡くなりました。
サンタ・クローチェ教会で洗礼を受けたナイチンゲールを記念して、教会中庭に面する壁に「ランプの貴婦人」像があります。
像の台座にはラテン語で”HORAM NESCITIS”(時間を知らない)と記されています。
彼女が極めて献身的に、昼夜を問わず、患者の世話や看護に取り組んだことを端的に表現しています。
2023年
5月
30日
火
令和5年6月1日
サンタ・クローチェSanta Croce(聖なる十字架)教会
フィレンツェにおけるフランチェスコ派教会の拠点として、13世紀に建てられました。ゴシック建築の代表で、ルネッサンスの凝縮です。
ガリレオやミケランジェロなど著名人が多数埋葬されており、「すべての神々の栄光の神殿」として知られています。
ガリレオ・ガリレイ「真実を疑うな、常識を疑え」
16世紀後半に生まれたガリレオ・ガリレイは、天文や物理の問題について考える際、アリストテレスなどの既存の理論体系や、教会などの多数派が支持する説を鵜呑(うの)みにはしませんでした。
彼は、自ら実験を行い、実際の現象を自分の眼で確かめ、その結果を数学的に分析するという手法で、様々な発見をしました。
そのため、彼は哲学や宗教から科学を切り離すことに貢献したという理由で、「科学の父」と呼ばれています。
彼の発見は、振り子の等時性(とうじせい)、物体の落下の法則、慣性の法則など、数えきれません。
特筆すべきは、彼が、17世紀初頭にオランダで望遠鏡が発明されたことを知るや否や、いち早くそれを改良し、天体観測に用いたことです。
ガリレオは、木星には4つの衛星があることを発見しました。
彼は彼を庇護(ひご)したメディチ家コジモ2世に感謝の意を込めて、4つの衛星をまとめて「コジモの星たち」(後に「メディチの星たち」に改称)と名付けました。
ガリレオは金星や月の満ち欠けも観測しました。
彼が天体を望遠鏡で観察した結果、導き出した結論は、古代ギリシャ以降2,000年間信じられてきた「全ての天体は地球の周りを回っている」という天動説に基づく宇宙像を真っ向から否定するものでした。
すでにガリレオが生まれる前に亡くなっていたコペルニクスは、著作「天球の回転について」で、「金星は満ち欠けをする筈(はず)だ」と記(しる)し、地動説を唱えていました。
ガリレオは実際に天体観測によって、コペルニクスの地動説を証明したのです。
カトリック教会や一部の天文学者たちは「望遠鏡で見た世界は虚像にすぎない」と、ガリレオを批判しました。
それでも地動説を主張し続けたガリレオに対し、ローマ・カトリック教会は「地動説を信じることは異端である」と断じ、裁判を起こしました。
論争の結果、裁判官はガリレオに地動説を唱えないよう、注意・勧告しました。
しかし、なおも彼は地動説の研究を続け、「天文(てんもん)対話(たいわ)」という本を執筆しました。
教皇が交代したドサクサに紛れて、この著書を出版したものの、翌年、ガリレオはローマへの出頭を命じられてしまいました。
そして、2回目の裁判にかけられました。
そこで、彼は有罪判決を受け、死刑は免れたものの、終身刑を宣告されました。
この時、彼が「それでも地球は動く」とつぶやいた、という話は有名です。
ガリレオはやがて失明しました。
望遠鏡の見過ぎのためと言われています。
けれども、彼はその後も研究を続け、成果を弟子や息子などに口述筆記させたのです。
17世紀半ば、77歳のガリレオはフィレンツェ郊外で没しました。
しかし、罪人という理由で墓を作ることが許されず、やっとサンタ・クローチェ教会に葬られたのは、死後95年間も経ってからのことでした。
さらに、死後350年を経た1992年、ついにローマ法皇ヨハネ・パウロ2世がガリレオの有罪判決が誤りであったと公に認め謝罪しました。
我々の記憶にも新しいところです。
墓の中央には望遠鏡を持ったガリレオが鎮座し、両側にはそれぞれ天文学と物理学を表す女性の彫刻が立っています。
そして、ガリレオが発見した、木星の4つの衛星も、中央に誇らしく刻まれています。
2023年
4月
29日
土
令和5年5月1日
サンタ・マリア・ヌオーヴァ病院
大聖堂のすぐ裏にある、トスカーナ地方で最大、フィレンツェで最古の病院です。
現在は、230床の救急病院で、700年もの間、同じ建物のまま、立派に病院として機能しています。
いかにもフィレンツェらしいですね。
13世紀に、フォルコ・ポルティナーリという銀行家が創立しました。
彼は、「神曲」を書いた詩人ダンテが愛した女性ベアトリーチェの父親です。
家政婦モンナ・テッサに説得され、建設を決心したそうです。
彼女の墓が今も病院の中庭にあります。
14世紀には、34条から成る管理・運営の詳細な規約が作られました。
今日の病院組織の模範とされています。
時代を経て、この病院は寄付や寄贈で豊かになり、フィレンツェの芸術家たちによって装飾されてきました。
15世紀には、ローマ法王マルティーノ5世もこの病院を訪問しました。
ペストが大流行した際には、世界で最初の隔離病棟が設けられました。
スワッドルを巻かれた幼児の人形も展示されています。
病院隣接の教会の地下には、16世紀にレオナルド・ダ・ヴィンチが解剖を行った部屋と遺体を洗った「浴槽」が残っています。
令和3年2月の本稿「ミラノ編」で述べたように、レオナルド・ダ・ヴィンチは、15世紀、フィレンツェ近郊のヴィンチ村で生まれました。
レオナルドは様々な分野に顕著な業績を残しました。
彼が最も賞賛されているのは、「最後の晩餐」や「モナリザ」を描いた画家としてです。 しかし、忘れてならないのは、彼が偉大な解剖学者でもあったということです。
当時、教会は解剖を禁止していましたが、絵画・彫刻の勉強に解剖学が不可欠と考えたレオナルドは32体の解剖を自ら行いました。
近代解剖学の始祖です。
レオナルドはミラノやローマの病院でも解剖を行いましたが、フィレンツェではこのサンタ・マリア・ヌオーヴァ病院で発生した死体を、この地下室で解剖したのです。
2023年
3月
30日
木
令和5年4月1日
小児病院(捨て子養育院)
大聖堂から北へ少し行くと、古い小児病院があります。
15世紀に絹商人たちの浄財で建てられました。
元々は、孤児や捨て子の救済が目的だったため、「捨て子養育院」と呼ばれていました。
ヨーロッパ最古の孤児院です。
フィレンツェでは、このような慈善事業が盛んに行われ、大聖堂の脇には、未婚の母のための施設もありました。
捨て子養育院は、大聖堂のクーポラと同様に、ブルネッレスキが設計した、フィレンツェで最も初期のルネッサンス建築です。
古代ギリシャから長い時を経て、再び柱が建築の重要な要素となっています。
正面1階は、大きなアーチ(計9個)と円柱をもった長い回廊です。
各円柱の上部には、美しい青色の陶板メダル(メダイヨン)がはめ込まれています。
メダイヨンはアントニオ・デッラ・ロッビアの作品で、白い布(スワッドルswaddle)を巻かれた乳幼児がデザインされています。
中世では、赤ん坊を傷害から守るため、と称して体に包帯を巻く習慣がありました。
スワッドリングswaddlingと呼ばれました。
これは、産婦人科学の元祖として有名な、エフェソスのソラヌスが提唱し、ローマ時代の名医ガレヌスもこれを推奨しました。
この悪習は中世を通じて広く行われ、19世紀初めまで続きました。
現代でもスワッドルという言葉は使われてますが、包帯ではなく、新生児に着せる産着(うぶぎ)や「おくるみ」のことを指します。
また、回廊の端には、母親が人に顔を見られずに子供を捨てられる「回転木戸」が今も残っており、いささか胸が痛みます。
柱廊に囲まれた美しい中庭に面して、彩色テラコッタ「受胎告知」が描かれています。これも、アントニオ・デッラ・ロッビアの作品です。
受胎告知とは、キリスト教の新約聖書に書かれている有名な出来事です。
処女マリアの前に、天使のガブリエルが天から降りて来て、マリアが神の意志により男の子を懐妊したことを告げました。
そして、生まれた子をイエスと名付けなさい、と命じたのです。
マリアは、最初、戸惑いましたが、「神の思し召しに従います」と受け入れました。
キリスト教文化圏の芸術作品の中で、繰り返し登場する題材です。
受胎告知については、いずれウッフィツィ美術館の項で詳しく説明します。
2023年
2月
25日
土
令和5年3月1日
国立フィレンツェ美術学院
(アカデミア・ディ・ベッレ・アルティ・フィレンツェ)
ここは、かつて、療養所を兼ねた修道院でした。
18世紀後半に、トスカーナ大公ピエトロ・レオポルドが、フィレンツェにある幾多の美術学校を一つにまとめ、現在の地に、公立の美術学校と付属美術館を設立しました。
これが、フィレンツェ美術学院とアカデミア美術館の始まりです。
当然、美術学院と美術館は建物内で繋がっていて、自由に往来できます。
美術学院にも、アカデミア美術館に劣らず、興味ある作品が多く展示されています。
例えば、「臨終の場面を描いた浮き彫り(レリーフ)」、「幼年期のジグムント・クラシンスキー(詩人)と、その母マリアの死」「ピサの墓地に添えられた、死者を弔(とむら)う婦人像」「知恵と正義と戦いの女神アテナ像」など、枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がありません。
アテナは全能の神ゼウスと、巨神族の女神メティスの娘として生まれました。
しかも、ゼウスの頭の中から、槍(やり)を手にし、頭に兜(かぶと)を被(かぶ)った姿で出てきたのです。
父親が全能の神で、母親メティスも思慮深い女神として知られていましたから、アテナは「知恵と正義の女神」となりました。
オリンポス十二神の一人です。
アテナは「戦いの女神」でもありますが、軍神アレスのように残虐・血・殺戮(さつりく)ではなく、戦略・戦術の知的な分野を司(つかさど)り、戦車や武具を発明しました。
アテナは人類を賢(かしこ)くし、文明を発展させるために、その知恵を惜しみなく与えました。
すなわち工芸や医術、航海、紡績、建築、造船など様々な技術の女神として、人間達の生活に恩恵を与えました。
また、アテナは勇者達に援助や助言をし、武器を与え、時には戦いに付き添いました。
例えば、ペルセウスが怪物ゴルゴン3姉妹の一人メドゥーサを退治するのを援助しました。
また、ヘラクレスの成功の陰には、常にアテナがいました。
ギリシャの首都アテネの名も、もちろん、その守護神であるアテナに由来します。
アテナに関わる物をもう一つ披露します。
ギリシャ神話において、ゼウスが娘アテナに与えた防具を「アイギスAegis」といいます。アイギスは蛇で縁(ふち)取られており、すべての災(わざわ)いや邪悪を払う魔力がありました。
勇者ペルセウスも、アテナから借りたアイギスを使ってメドゥーサを退治したのです。
アイギスの英語読みが「イージス」です。
アメリカ海軍の艦隊防空システム(イージス システム)の語源です。全ての攻撃を防ぐ「鉄壁な盾(たて)」だという訳です。
そして、アテナの傍(かたわ)らにはいつも、翼(つばさ)を持つ勝利の女神ニケNikeが従っていました。
ニケNikeは英語では「ナイキ」と発音します。
世界的スポーツ用品メーカーの社名「ナイキ」は、ギリシャ神話の勝利の女神に由来しているのです。
この会社のロゴマークは、この女神の翼をイメージした物です。
ギリシャ神話の勝利の女神ニケは、ローマ神話ではヴィクトリアVictoriaと呼ばれます。
これは、もちろん、英語の"victory"(勝利)の語源です。
2023年
1月
30日
月
令和5年2月1日
アカデミア美術館
アカデミア美術館はフィレンツェ美術学校の付属美術館です。
ミケランジェロの彫刻数点と13~16世紀のフィレンツェ派絵画などを収めています。
ミケランジェロ・ブオナローティ(1475~1564年)は、フィレンツェ出身で、イタリアルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人です。
優れた芸術作品を多く残し、その多才さから、レオナルド・ダ・ヴィンチと同じく、「万能の人」と呼ばれています。
ミケランジェロはダ・ヴィンチより23歳年下で、さらに8歳若いラファエロを加えたこの3人は、「ルネサンス三大巨匠」と称されています。
ミケランジェロ自身は絵画を軽視していましたが、西洋美術界に非常に大きな影響を与えた2点のフレスコ画を残しています。
ヴァチカン市国にあるサン・ピエトロ大聖堂システィーナ礼拝堂の、天井画「創世記(そうせいき)」と祭壇(さいだん)壁画「最後の審判」です。
一方、ミケランジェロが最も重要視したのが彫刻で、その中でも最高傑作として有名なのが、サン・ピエトロ大聖堂の「ピエタ」(処刑されたイエス・キリストを腕に抱く聖母マリア)とアカデミア美術館の「ダヴィデ像」です。
ダヴィデ像は、16世紀初頭、26歳のミケランジェロが、メディチ家(ピエロ2世(ロレンツォ・メディチの子))を市外に追い出したフィレンツェ市民の依頼で、3年かけて制作した作品です。
ダヴィデは旧約聖書の「サムエル記」に登場する、紀元前1,000年頃の英雄です。
英語の男性名デイヴィッドDavidはダヴィデに由来しています。
ちなみに、旧約聖書とは「天地創造」や「ノアの方舟(はこぶね)」などの物語が記(しる)された、ユダヤ教・キリスト教の経典です。
イスラエルの最初の王であったサウルは、神の命令に背(そむ)き、裏切りました。
神が次のイスラエル王候補として目を付けたのが、羊(ひつじ)飼(か)いの少年ダヴィデでした。
ダヴィデはハンサムで竪琴(たてごと)が上手(じょうず)でしたが、勇敢な戦士でもありました。
サウルが率(ひき)いるイスラエル人たちは、ペリシテ人との戦いを繰り返していました。
たまたま戦陣を訪(おとず)れたダヴィデは、ペリシテ最強の巨人戦士ゴリアテに挑発され、羊飼いの杖と、袋に詰めた石だけを持ってサウルの前に出ました。
突進してくるゴリアテに向かってダヴィデが石を投げました。
石はゴリアテの額(ひたい)に命中し、ゴリアテがうつ伏せに倒れました。
ダヴィデはゴリアテの剣を引き抜き、その首を切り落としました。
ペリシテ軍はこれを見て総崩れになり、イスラエル軍が勝利しました。
以後も国を救う活躍を続けたダヴィデは、やがて2代目のイスラエル王となり、数十年に渡り国を統治しました。
ダヴィデの約1,000年後の子孫がナザレのヨゼフであり、ヨゼフの妻マリアがダヴィデの生誕地(せいたんち)ベツレヘムで産んだ子がイエス・キリストです。
ダヴィデ王は16世紀以降のフランスやイギリスのトランプ(カード)に、スペード♠のキングとして登場しています。
確かに、シンボルの竪琴を持って描かれています。
身長5.2mの大理石像は、ダヴィデが巨人ゴリアテに石を投げつけようと狙(ねら)いを定めている姿です。
筋肉が盛り上がり、静脈が浮き出て、緊張感に包まれています。
目を見据え、冷徹に口を結んだ表情が理性的です。
少年が巨人に立ち向かう像は、独裁政治を打ち倒す共和政と、周辺諸国に立ち向かう小国フィレンツェの象徴でもあります。
ダヴィデはユダヤ人ですから割礼(かつれい、包皮の切除)を受けている筈(はず)ですが、ミケランジェロは彼を包茎にしました。
そのため、この像が聖書に基づくと見なせるかどうか、いまだに論争が続いています。また、ダヴィデの睾丸は、左の方が右より下垂(かすい)しています。
これは、「男性の半数以上は、左の睾丸の方が右より下垂している」という統計学的事実と一致しています。
男性の読者諸賢(しょけん)、鏡(かがみ)を見てご確認下さい。
2022年
12月
30日
金
明けましておめでとうございます。今年もご愛読下さい。
シニョリーア広場(君主の広場)Piazza della Signoria
13-14世紀の自治都市フィレンツェの人々は共和政を旨(むね)とし、ことあるごとに広場に集まり、議論を戦わせ、挙手によって採決を行いました。
広場の一角の、丸いブロンズの敷石が埋まっている所が、ジロラモ・サヴォナローラGirolamo Savonarolaが拷問(ごうもん)の末、絞首刑となり、さらに火あぶりにされた場所です。
サヴォナローラはドミニコ会修道院の厳格な修道士で、人間の肉体や欲望を賛美するルネッサンスや、その推進者のメディチ家を猛烈に批判しました。
彼は「世俗文化が堕落し切っている」と嘆き、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で市民に訴えました。
そして、このシニョリーア広場に美術品や装飾品を山のように積み上げて、焼き払ってしまいました。
サヴォナローラはこれを「虚栄の焼却」だと主張しました。
15世紀末の出来事です。
歴史的には、宗教改革の先駆けと考えられています。
しかし、厳格な思想はルネッサンス期のフィレンツェでは受け入れられず、経済が停滞しました。
翌年、サヴォナローラから心が離れた市民が、彼を捕らえました。
さらに、ドミニコ会の台頭を疎(うと)ましく思っていたフランチェスコ会やメディチ家の人々は、サヴォナローラに「火の試練」を課しました。
「真の予言者なら、燃え盛る火の上を歩いてみせろ」と迫ったのです。
彼は「神を試してはいけない」と拒否しました。
すると、これを言い訳と見た市民は彼を裁判にかけ、無理やり罪人に仕立て上げ、絞首刑の後、火あぶりにしたのです!
ランツィのロッジアLoggia dei Lanzi
シニョリーア広場は政治の中心地で、市民集会がしばしば開かれました。
そして、集会が雨でも続けられるように、14世紀に回廊(ロッジア、屋根付き廊下)が建設されました。
名称の「ランツィ」とは、コジモ1世(コジモ・デ・メディチ)の統治下で、回廊ををランツクネヒト(ドイツ人傭兵)が使った史実に由来します。
ランツクネヒトが訛(なま)ってランツィになったのです。
現在は、古代やルネッサンス期の彫刻が並び、さながら屋根付きの屋外美術館です。
その中でも、我々が見逃せないのが、チェリーニ作「ペルセウス像」です。
勇者ペルセウスが、切り落としたばかりの怪物メドゥーサの首を、左手で高々と掲(かか)げています。
ミラノ編やヴェネツィア編で説明したように、メドゥーサはギリシア神話に登場する怪物ゴルゴンの3姉妹の一人です。
生来、美しい女性だったメドゥーサが、海神ポセイドンと交わったのがことの発端です。
戦いの女神(軍神)アテナがこれに嫉妬(しっと)し、メドゥーサを醜(みにく)い怪物に変えてしまいました。
美しい髪の毛の一本一本は毒蛇の姿となり、ニョロニョロと動きました。
イノシシの歯、青銅の手に変えられ、翼まで生やされました。
おまけに、目はギラギラと輝き、見た者を石に変えてしまう魔力を持っていました。
勇者ペルセウスは軍神アテナから盾(たて)を借り、眠っているメドゥーサに忍び寄りました。
目を合わせると石に変えられてしまうため、楯に映った怪物を見ながら、その首を見事、切り落とすことに成功したのです。
肝硬変などの門脈圧亢進症では、門脈血が臍帯静脈に流れ込み、下大静脈に向かいます。これを側副(そくふく)血行路と呼び、ここを流れる血液量が多くなると、腹壁(ふくへき)皮下静脈が放射状に怒脹(どちょう)します。
この様子が、のたうつ蛇のように見えるため、「メドゥーサの頭」と呼ばれます。
詳しくは、令和3年3月号のミラノ編 その5をご覧下さい。
2022年
11月
30日
水
慈善救急診療所 Misericordia(ミゼリコルディア)
キリスト教には、「内面的な信仰(神への愛)」と「外面的な行動(隣人愛)」を実行せよ、という考え方があります。
そして、隣人愛については、具体的な行動として、「慈悲 "Misericordia"(ミゼリコルディア)」を実践せよ、と教えています。
聖書に記されている「七つの慈悲の業(ぎょう)」とは、
①飢えている者に食事を与える
②喉が渇いている者に水を与える
③旅をしている者に宿を貸す
④裸でいる者に衣服を与える
⑤病人を見舞い世話する
⑥囚人を訪問する
⑦死者を埋葬する
の七つです。
中世ヨーロッパにキリスト教が広まると、ボランティア団体として数多くの「兄弟会」が生まれました。
その最古参が、13世紀のフィレンツェに創設された「ミゼリコルディア(慈悲の聖母マリア兄弟会)」です。
14世紀には、ミゼリコルディアは他の兄弟会(「オル・サン・ミケーレ」や「ビガッロ」など)と並んで、重要な慈善団体となりました。
14世紀以降、断続的に起きたペスト大流行の際には、ミゼリコルディアは慈悲の業に献身しました。
そして、病人の介護にあたった信者の多くがペストの犠牲になりました。
16世紀には、メディチ家のトスカーナ大公フランチェスコ・デ・メディチの意向により、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の前の広場(フィレンツェの一等地)に面した建物を与えられました。
二度に亘る世界大戦では、負傷兵や病人を搬送し、救急医療を提供しました。
現代でも、ミゼリコルディアは、キリスト教精神に基づいて医療・奉仕活動を続けています。
病人や貧民を救うだけでなく、処刑前の囚人に慰めを与えたり、貧しい子女の結婚費用を援助するなどの活動も行っているそうです。
大聖堂広場に面した本部の前には、ミゼリコルディアの救急車とスタッフが常時待機しています。
看板には「永遠に奉仕する」と書いてあります。
私も「慈悲」の心を発揮して、ささやかな寄付(10ユーロ、当時のレートで約1,300円)をしました。
フィレンツェではなく、藤沢市辻堂で、永遠に奉仕します。
2022年
10月
30日
日
令和4年11月1日
花の聖母(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)大聖堂(ドゥオーモ)
聖母マリアに捧げる教会がイタリアには約3,000ありますが、ここもその一つです。
フィレンツェの宗教の中心であり、フィレンツェの象徴です。
白、ピンク、緑の大理石が美しい幾何学模様を描いています。
圧倒感、均衡、優雅に満ちた、限りなくイタリア的なゴシック建築です。
当時のフィレンツェの隆盛にふさわしく、「できる限り荘厳に、かつ豪勢である」ことを旨として、13世紀、アモルフォ・ディ・カンビオによって建築が始められました。
フィリッポ・ブルネッレスキがクーポラ(円蓋(えんがい)、丸屋根、ドーム)を架け終わったのは15世紀です。
何と、200年の歳月をかけて建築された訳です。
約3万人が一堂に会することができる大きさを誇ります。
15世紀、フィレンツェでは街のシンボルとなるべき大聖堂にクーポラを架けるためのコンクールが開かれました。
高さ50m、直径40mもある内陣(最も奥にある本堂)の上にクーポラを乗せる工事は極めて難しく、当時の技術では不可能と考えられていました。
しかし、ブルネッレスキはローマでパンテオンなどの古代建築から学んだ技術を駆使(くし)して、この間題を解決しました。
すなわち、クーポラを二重構造にし、内側のクーポラで外側のクーポラを支えながら上へ上へと造っていくという方法です。
美しいカーブと見事な均整をもったクーポラが15年の歳月をかけて完成しました。
支柱なしに造られた世界最初のクーポラであり、建設当時は世界最大でした。
ブルネッレスキは古代建築の技術で、実現不可能と思われた大クーポラを見事に造ってみせました。
まさしく、古典の再生「ルネッサンス」です。
ブルネッレスキがルネッサンスへの扉を開いた訳です。
大聖堂付属の美術館には、13世紀の修道院で、ビンを掲げて尿検査をしている浮き彫り(レリーフ)があります。
修道僧たちは病人の尿を観察しました。
すなわち、その色、量、匂い、時には味(!)をみて、どんな病気を抱えているのかを推察し、薬草を調合したのです。
以降、尿を調べるフラスコが医療に携(たずさ)わる者のシンボルとなりました。
私は舐(な)めたことはありませんが、確かに、糖尿病患者の尿は甘いのです。
糖尿病をラテン語でDiabetes Mellitus(ダイアベーテス・メリトゥス)と言いますが、Diabetesは「絶え間なく流れる水」、Mellitusは「蜂蜜(はちみつ)のように甘い」という意味で、結局、「甘い尿を絶え間なく放出する」状態が糖尿病なのです。
ギリシャ神話で、全能の神ゼウスは赤ん坊の時、メリッサMelissaという女性から蜂蜜を与えられて育ちました。
この逸話から、ラテン語で蜂蜜のことをメラmella、蜂蜜のように甘いことをメリトゥスmellitusと呼ぶようになったのです。
私は、改めて、医学とギリシャ神話が深く結びついていることに感動を覚えます。
それと同時に、ヨーロッパ人が病態を語る際の、洒落(しゃれ)た感覚に脱帽します。
2022年
9月
29日
木
令和4年10月1日
サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局 Santa Maria Novella
現存する世界最古の薬局です。
13世紀、フィレンツェに移住してきたドミニコ会の修道院サンタ・マリア・フラ・レ・ヴィニェSanta Maria Fra Le Vigne(「ブドウ畑の聖母マリア」)の修道僧が薬草を栽培して薬を調合したのが始まりです。
17世紀には薬局として認可され、一般営業を開始しました。
この修道院が、後のサンタ・マリア・ノヴェッラ教会へと発展しました。
日本を始め、世界中に支店がありますが、もちろんフィレンツェが本店です。
店に入ると、すぐに、素晴らしい香りに魅了されます。
800年以上の伝統が守られており、美術館や教会かと見間違(みまちが)うような天井画と、年代物の家具・調度品を揃(そろ)えた内装に圧倒されます。
壁には、アルバレッロと呼ばれる陶器の壷に入った軟膏や薬品が並んでいます。
今もなお、オーデコロン「アックア・デッラ・レジーナAcqua della Regina(王妃(おうひ)の水)」や石鹸、香水、スキンケアなど、高品質な商品は世界中の人々に愛されています。
かつては、気絶した際の気付け薬も製造していたそうです。
「王妃の水」はフランス王アンリ2世の妃(きさき)カトリーヌ・ド・メディシスに捧げられた香水です。
後の18世紀になって、イタリア人の薬剤師がこの香水をドイツのケルンKöln(フランス語ではコロンCologne)で作ったことから、"eau de Cologne" オーデコロン(「ケルンの水」、オー"eau"はフランス語で「水」)と呼ばれるようになりました。
つまり、オーデコロンの元祖という訳です。
「アックア・デッラ・レジーナ」は、現在でもサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局の主力商品です。
この薬局のオンラインストアを見ると、1本100mlで、17,600円でした。
読者諸賢も奥様へのプレゼントにいかがでしょうか?
私がおもしろいと思ったのは、アルケルメスAlkermesというリキュールです。
これは、サボテンにたかる貝殻虫(かいがらむし)を乾燥させ、体内に蓄積されているコチニールと呼ばれる色素を抽出して、養命酒のような酒にした逸品です。
コチニールは天然の赤い色素として、昔から世界各地で使われており、カンパリなどの酒や清涼飲料水、ハムや蒲鉾(かまぼこ)などの着色に広く用いられています。
ケルメスKermesは、「貝殻虫」という意味ですが、深紅(しんく)を意味するアラビア語キルミズ"qirmiz"(英語ではクリムゾン"Crimson")に由来しています。
私はまだ、アルケルメスを飲んだことがありませんが、ネット通販でも買えるようですので、近いうちに取り寄せて、試してみようと思っています。
2022年
8月
29日
月
令和4年9月1日
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会 Santa Maria Novella
フィレンツェは、ペストの大惨禍(だいさんか)を受けた街として有名です。
14世紀半ばに大流行したペストによって、フィレンツェだけで6万人、つまり人口の半分が死んだと記録されています。
この街で生まれたジョヴァンニ・ボッカチオが著(あらわ)した「デカメロン」は、14世紀のペストの流行を背景に、人間の実態を描いた傑作と言われます。
ダンテの「神曲」に対して、「人曲」と呼ばれるぐらい、人間臭(くさ)い物語集です。
アラビアの「千夜一夜物語(アラビアンナイト)」の影響を受けているそうです。
ペストの感染から逃れるために邸宅に引き篭(こ)もった10人の男女が、退屈しのぎに、それぞれ物語を語って、他の人に聞かせます。
1人が1日1物語ずつ、10人が10日間にわたって語りますから、10×10=100の物語が語られます。ちなみに、「デカメロン」の「デカ」はギリシャ語で10という意味です。
私も、原文ではなく日本語訳ではありますが、本を買い、全文を通読しました。
文体は美しい文学調ですが、内容は、はなはだ卑猥(ひわい)で低俗です。
参考までに、第九日、第十話の一部を抜粋(ばっすい)します。
「カトリック教会の神父が信者の家に宿泊した」という内容の物語です。
「神父は、信者の妻の服を脱がせて、素っ裸(すっぱだか)にさせると、両手と両足で床に四つん這(ば)いにさせました。・・・それから胸に触れ、・・・シャツの裾(すそ)をまくり上げ・・・」
もう、これ以上、書けません。
興味のある方は、「デカメロン」を実際に自分の目でお読み下さい。
私には、体裁(ていさい)の良いポルノ小説としか思えません。
この物語で、10人の男女が最初に集結し、最後に解散したのが、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会です。
物語の内容が極めて下品なのに対し、教会は非常に上品で素晴らしいのです。
ゴシック様式を踏襲(とうしゅう)しつつ、フィレンツェ独自のスタイルを確立しています。
正面(ファサード)は、15世紀に、レオン・バッティスタ・アルベルティが設計しました。白、緑、ピンクの大理石で構成され、大変美しい姿です。
なぜ、ボッカチオがこの教会を舞台にした小説を書いたのか、私の考えを述べます。
サンタ・マリア・ノヴェッラ(Santa Maria Novella)教会の"Novella"は、イタリア語で「知らせ」「便り」という意味ですから、「サンタ・マリア・ノヴェッラ」は「マリア様の便り」という意味になります。
つまり、「この教会に来れば、聖マリアのお告げが聞ける」ということでしょう。
一方、"Novella"は、英語では"novel"で、「小説」「物語」という意味もあります。
フィレンツェを舞台に百の物語を書こうと思ったボッカチオは、当然、フィレンツェで最も由緒正しく、しかも「物語」の名が付いた、この教会を登場させたのだと思います。
教会前の駐車場には、教会所有の救急車が並んでいました。
救急車をイタリア語で"AMBULANZA"といいますが、車体に書いてあるのは、これを鏡(かがみ)で見た書体です。
前にいる自動車のバックミラーに映(うつ)るとAMBULANZAと読めるように、わざと鏡文字で書いてあるのだそうです。
2022年
7月
31日
日
令和4年8月1日
メディチ家Medici
メディチ家は、ルネッサンス時代のフィレンツェの政財界を牛耳(ぎゅうじ)っていました。
今でも、市内のあちこちでメディチ家の紋章が見られます。
テントウムシのような紋章の花はユリの花です。
6個の丸い玉は丸薬(がんやく)をかたどったものです。
メディチ家の起源が薬屋か医師であったという説の根拠とされています。
Mediciという家名がラテン語のmedicinaメディキーナ(医術、薬)やmedicusメディクス(医師)と似ていますから、この説は有力です。
イタリア語で医師はmedicoメディコ(複数形:mediciメディチ)、医学はmedicinaメディチーナです。
英語でも医学(特に内科)をmedicineメディシンと言います。
メディチ家・フィレンツェの守護聖人も、聖コスマスCosmasと聖ダミアンDamianという、二人の殉教した兄弟医師です。
この二人の聖人は3世紀から4世紀の人で、下肢の移植をした医師として有名です。
コジモ・デ・メディチなど、一族に多いコジモCosimoの名は、この聖コスマスに由来しています。
キリスト教の伝説では、二人は治療費をとらずに奉仕活動をし、多くの人々がキリスト教に改宗しました。
しかし、ローマ帝国の皇帝ディオクレティアヌスが4世紀初頭に行ったキリスト教徒大迫害により、二人は打ち首にされたそうです。
今では、メディチ家・フィレンツェだけでなく、医学・医師・薬剤師の守護聖人として、世界中で崇(あが)められています。
ちなみに、外科をsurgeryサージェリーと呼びます。
中世まで、外科は医師の仕事ではなかったため、medicineとは呼ばれなかったのです。
surgeryがmedicineの仲間に加えてもらったのは、つい最近の19世紀以降なのです。
昔は、medicineといえば内科学を意味したのですが、今では外科学など他の分野の医学も加わったため、特に内科学に限定する場合はinternal medicineと呼びます。
メディチ家紋章の6個の丸い印は、貨幣、あるいは両替商が使う天秤(てんびん)の分銅(ふんどう)を表しているという説もあります。
メディチ家をフィレンツェ随一の大富豪にした家業、すなわち銀行業(両替商)に因(ちな)んでです。
13才のミケランジェロ(後に「ダヴィデ」などを製作)を見いだし、彼に彫刻の勉強を始めさせたのも、ラファエロを援助し、「アテナイの学堂」などの名画を描かせたのも、メディチ家です。
また、花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)の大聖堂にクーポラ(円天蓋)を完成させたブルネッレスキや、放蕩三昧(ほうとうざんまい)の末に修道女と駆け落ちしたものの「聖母(せいぼ)戴冠(たいかん)」などの名作を残した画家フィリッポ・リッピの後ろ盾(だて)になったのも、メディチ家でした。
要するに、メディチ家がルネッサンスの保護者・パトロンだったのです。