10月18日朝、インフルエンザワクチン138人分入荷しました。
院長から一言を、掲載順に(現在から過去に、1年分)並べてあります。
2022年
12月
30日
金
明けましておめでとうございます。今年もご愛読下さい。
シニョリーア広場(君主の広場)Piazza della Signoria
13-14世紀の自治都市フィレンツェの人々は共和政を旨(むね)とし、ことあるごとに広場に集まり、議論を戦わせ、挙手によって採決を行いました。
広場の一角の、丸いブロンズの敷石が埋まっている所が、ジロラモ・サヴォナローラGirolamo Savonarolaが拷問(ごうもん)の末、絞首刑となり、さらに火あぶりにされた場所です。
サヴォナローラはドミニコ会修道院の厳格な修道士で、人間の肉体や欲望を賛美するルネッサンスや、その推進者のメディチ家を猛烈に批判しました。
彼は「世俗文化が堕落し切っている」と嘆き、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で市民に訴えました。
そして、このシニョリーア広場に美術品や装飾品を山のように積み上げて、焼き払ってしまいました。
サヴォナローラはこれを「虚栄の焼却」だと主張しました。
15世紀末の出来事です。
歴史的には、宗教改革の先駆けと考えられています。
しかし、厳格な思想はルネッサンス期のフィレンツェでは受け入れられず、経済が停滞しました。
翌年、サヴォナローラから心が離れた市民が、彼を捕らえました。
さらに、ドミニコ会の台頭を疎(うと)ましく思っていたフランチェスコ会やメディチ家の人々は、サヴォナローラに「火の試練」を課しました。
「真の予言者なら、燃え盛る火の上を歩いてみせろ」と迫ったのです。
彼は「神を試してはいけない」と拒否しました。
すると、これを言い訳と見た市民は彼を裁判にかけ、無理やり罪人に仕立て上げ、絞首刑の後、火あぶりにしたのです!
ランツィのロッジアLoggia dei Lanzi
シニョリーア広場は政治の中心地で、市民集会がしばしば開かれました。
そして、集会が雨でも続けられるように、14世紀に回廊(ロッジア、屋根付き廊下)が建設されました。
名称の「ランツィ」とは、コジモ1世(コジモ・デ・メディチ)の統治下で、回廊ををランツクネヒト(ドイツ人傭兵)が使った史実に由来します。
ランツクネヒトが訛(なま)ってランツィになったのです。
現在は、古代やルネッサンス期の彫刻が並び、さながら屋根付きの屋外美術館です。
その中でも、我々が見逃せないのが、チェリーニ作「ペルセウス像」です。
勇者ペルセウスが、切り落としたばかりの怪物メドゥーサの首を、左手で高々と掲(かか)げています。
ミラノ編やヴェネツィア編で説明したように、メドゥーサはギリシア神話に登場する怪物ゴルゴンの3姉妹の一人です。
生来、美しい女性だったメドゥーサが、海神ポセイドンと交わったのがことの発端です。
戦いの女神(軍神)アテナがこれに嫉妬(しっと)し、メドゥーサを醜(みにく)い怪物に変えてしまいました。
美しい髪の毛の一本一本は毒蛇の姿となり、ニョロニョロと動きました。
イノシシの歯、青銅の手に変えられ、翼まで生やされました。
おまけに、目はギラギラと輝き、見た者を石に変えてしまう魔力を持っていました。
勇者ペルセウスは軍神アテナから盾(たて)を借り、眠っているメドゥーサに忍び寄りました。
目を合わせると石に変えられてしまうため、楯に映った怪物を見ながら、その首を見事、切り落とすことに成功したのです。
肝硬変などの門脈圧亢進症では、門脈血が臍帯静脈に流れ込み、下大静脈に向かいます。これを側副(そくふく)血行路と呼び、ここを流れる血液量が多くなると、腹壁(ふくへき)皮下静脈が放射状に怒脹(どちょう)します。
この様子が、のたうつ蛇のように見えるため、「メドゥーサの頭」と呼ばれます。
詳しくは、令和3年3月号のミラノ編 その5をご覧下さい。
2022年
11月
30日
水
慈善救急診療所 Misericordia(ミゼリコルディア)
キリスト教には、「内面的な信仰(神への愛)」と「外面的な行動(隣人愛)」を実行せよ、という考え方があります。
そして、隣人愛については、具体的な行動として、「慈悲 "Misericordia"(ミゼリコルディア)」を実践せよ、と教えています。
聖書に記されている「七つの慈悲の業(ぎょう)」とは、
①飢えている者に食事を与える
②喉が渇いている者に水を与える
③旅をしている者に宿を貸す
④裸でいる者に衣服を与える
⑤病人を見舞い世話する
⑥囚人を訪問する
⑦死者を埋葬する
の七つです。
中世ヨーロッパにキリスト教が広まると、ボランティア団体として数多くの「兄弟会」が生まれました。
その最古参が、13世紀のフィレンツェに創設された「ミゼリコルディア(慈悲の聖母マリア兄弟会)」です。
14世紀には、ミゼリコルディアは他の兄弟会(「オル・サン・ミケーレ」や「ビガッロ」など)と並んで、重要な慈善団体となりました。
14世紀以降、断続的に起きたペスト大流行の際には、ミゼリコルディアは慈悲の業に献身しました。
そして、病人の介護にあたった信者の多くがペストの犠牲になりました。
16世紀には、メディチ家のトスカーナ大公フランチェスコ・デ・メディチの意向により、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の前の広場(フィレンツェの一等地)に面した建物を与えられました。
二度に亘る世界大戦では、負傷兵や病人を搬送し、救急医療を提供しました。
現代でも、ミゼリコルディアは、キリスト教精神に基づいて医療・奉仕活動を続けています。
病人や貧民を救うだけでなく、処刑前の囚人に慰めを与えたり、貧しい子女の結婚費用を援助するなどの活動も行っているそうです。
大聖堂広場に面した本部の前には、ミゼリコルディアの救急車とスタッフが常時待機しています。
看板には「永遠に奉仕する」と書いてあります。
私も「慈悲」の心を発揮して、ささやかな寄付(10ユーロ、当時のレートで約1,300円)をしました。
フィレンツェではなく、藤沢市辻堂で、永遠に奉仕します。
2022年
10月
30日
日
令和4年11月1日
花の聖母(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)大聖堂(ドゥオーモ)
聖母マリアに捧げる教会がイタリアには約3,000ありますが、ここもその一つです。
フィレンツェの宗教の中心であり、フィレンツェの象徴です。
白、ピンク、緑の大理石が美しい幾何学模様を描いています。
圧倒感、均衡、優雅に満ちた、限りなくイタリア的なゴシック建築です。
当時のフィレンツェの隆盛にふさわしく、「できる限り荘厳に、かつ豪勢である」ことを旨として、13世紀、アモルフォ・ディ・カンビオによって建築が始められました。
フィリッポ・ブルネッレスキがクーポラ(円蓋(えんがい)、丸屋根、ドーム)を架け終わったのは15世紀です。
何と、200年の歳月をかけて建築された訳です。
約3万人が一堂に会することができる大きさを誇ります。
15世紀、フィレンツェでは街のシンボルとなるべき大聖堂にクーポラを架けるためのコンクールが開かれました。
高さ50m、直径40mもある内陣(最も奥にある本堂)の上にクーポラを乗せる工事は極めて難しく、当時の技術では不可能と考えられていました。
しかし、ブルネッレスキはローマでパンテオンなどの古代建築から学んだ技術を駆使(くし)して、この間題を解決しました。
すなわち、クーポラを二重構造にし、内側のクーポラで外側のクーポラを支えながら上へ上へと造っていくという方法です。
美しいカーブと見事な均整をもったクーポラが15年の歳月をかけて完成しました。
支柱なしに造られた世界最初のクーポラであり、建設当時は世界最大でした。
ブルネッレスキは古代建築の技術で、実現不可能と思われた大クーポラを見事に造ってみせました。
まさしく、古典の再生「ルネッサンス」です。
ブルネッレスキがルネッサンスへの扉を開いた訳です。
大聖堂付属の美術館には、13世紀の修道院で、ビンを掲げて尿検査をしている浮き彫り(レリーフ)があります。
修道僧たちは病人の尿を観察しました。
すなわち、その色、量、匂い、時には味(!)をみて、どんな病気を抱えているのかを推察し、薬草を調合したのです。
以降、尿を調べるフラスコが医療に携(たずさ)わる者のシンボルとなりました。
私は舐(な)めたことはありませんが、確かに、糖尿病患者の尿は甘いのです。
糖尿病をラテン語でDiabetes Mellitus(ダイアベーテス・メリトゥス)と言いますが、Diabetesは「絶え間なく流れる水」、Mellitusは「蜂蜜(はちみつ)のように甘い」という意味で、結局、「甘い尿を絶え間なく放出する」状態が糖尿病なのです。
ギリシャ神話で、全能の神ゼウスは赤ん坊の時、メリッサMelissaという女性から蜂蜜を与えられて育ちました。
この逸話から、ラテン語で蜂蜜のことをメラmella、蜂蜜のように甘いことをメリトゥスmellitusと呼ぶようになったのです。
私は、改めて、医学とギリシャ神話が深く結びついていることに感動を覚えます。
それと同時に、ヨーロッパ人が病態を語る際の、洒落(しゃれ)た感覚に脱帽します。
2022年
9月
29日
木
令和4年10月1日
サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局 Santa Maria Novella
現存する世界最古の薬局です。
13世紀、フィレンツェに移住してきたドミニコ会の修道院サンタ・マリア・フラ・レ・ヴィニェSanta Maria Fra Le Vigne(「ブドウ畑の聖母マリア」)の修道僧が薬草を栽培して薬を調合したのが始まりです。
17世紀には薬局として認可され、一般営業を開始しました。
この修道院が、後のサンタ・マリア・ノヴェッラ教会へと発展しました。
日本を始め、世界中に支店がありますが、もちろんフィレンツェが本店です。
店に入ると、すぐに、素晴らしい香りに魅了されます。
800年以上の伝統が守られており、美術館や教会かと見間違(みまちが)うような天井画と、年代物の家具・調度品を揃(そろ)えた内装に圧倒されます。
壁には、アルバレッロと呼ばれる陶器の壷に入った軟膏や薬品が並んでいます。
今もなお、オーデコロン「アックア・デッラ・レジーナAcqua della Regina(王妃(おうひ)の水)」や石鹸、香水、スキンケアなど、高品質な商品は世界中の人々に愛されています。
かつては、気絶した際の気付け薬も製造していたそうです。
「王妃の水」はフランス王アンリ2世の妃(きさき)カトリーヌ・ド・メディシスに捧げられた香水です。
後の18世紀になって、イタリア人の薬剤師がこの香水をドイツのケルンKöln(フランス語ではコロンCologne)で作ったことから、"eau de Cologne" オーデコロン(「ケルンの水」、オー"eau"はフランス語で「水」)と呼ばれるようになりました。
つまり、オーデコロンの元祖という訳です。
「アックア・デッラ・レジーナ」は、現在でもサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局の主力商品です。
この薬局のオンラインストアを見ると、1本100mlで、17,600円でした。
読者諸賢も奥様へのプレゼントにいかがでしょうか?
私がおもしろいと思ったのは、アルケルメスAlkermesというリキュールです。
これは、サボテンにたかる貝殻虫(かいがらむし)を乾燥させ、体内に蓄積されているコチニールと呼ばれる色素を抽出して、養命酒のような酒にした逸品です。
コチニールは天然の赤い色素として、昔から世界各地で使われており、カンパリなどの酒や清涼飲料水、ハムや蒲鉾(かまぼこ)などの着色に広く用いられています。
ケルメスKermesは、「貝殻虫」という意味ですが、深紅(しんく)を意味するアラビア語キルミズ"qirmiz"(英語ではクリムゾン"Crimson")に由来しています。
私はまだ、アルケルメスを飲んだことがありませんが、ネット通販でも買えるようですので、近いうちに取り寄せて、試してみようと思っています。
2022年
8月
29日
月
令和4年9月1日
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会 Santa Maria Novella
フィレンツェは、ペストの大惨禍(だいさんか)を受けた街として有名です。
14世紀半ばに大流行したペストによって、フィレンツェだけで6万人、つまり人口の半分が死んだと記録されています。
この街で生まれたジョヴァンニ・ボッカチオが著(あらわ)した「デカメロン」は、14世紀のペストの流行を背景に、人間の実態を描いた傑作と言われます。
ダンテの「神曲」に対して、「人曲」と呼ばれるぐらい、人間臭(くさ)い物語集です。
アラビアの「千夜一夜物語(アラビアンナイト)」の影響を受けているそうです。
ペストの感染から逃れるために邸宅に引き篭(こ)もった10人の男女が、退屈しのぎに、それぞれ物語を語って、他の人に聞かせます。
1人が1日1物語ずつ、10人が10日間にわたって語りますから、10×10=100の物語が語られます。ちなみに、「デカメロン」の「デカ」はギリシャ語で10という意味です。
私も、原文ではなく日本語訳ではありますが、本を買い、全文を通読しました。
文体は美しい文学調ですが、内容は、はなはだ卑猥(ひわい)で低俗です。
参考までに、第九日、第十話の一部を抜粋(ばっすい)します。
「カトリック教会の神父が信者の家に宿泊した」という内容の物語です。
「神父は、信者の妻の服を脱がせて、素っ裸(すっぱだか)にさせると、両手と両足で床に四つん這(ば)いにさせました。・・・それから胸に触れ、・・・シャツの裾(すそ)をまくり上げ・・・」
もう、これ以上、書けません。
興味のある方は、「デカメロン」を実際に自分の目でお読み下さい。
私には、体裁(ていさい)の良いポルノ小説としか思えません。
この物語で、10人の男女が最初に集結し、最後に解散したのが、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会です。
物語の内容が極めて下品なのに対し、教会は非常に上品で素晴らしいのです。
ゴシック様式を踏襲(とうしゅう)しつつ、フィレンツェ独自のスタイルを確立しています。
正面(ファサード)は、15世紀に、レオン・バッティスタ・アルベルティが設計しました。白、緑、ピンクの大理石で構成され、大変美しい姿です。
なぜ、ボッカチオがこの教会を舞台にした小説を書いたのか、私の考えを述べます。
サンタ・マリア・ノヴェッラ(Santa Maria Novella)教会の"Novella"は、イタリア語で「知らせ」「便り」という意味ですから、「サンタ・マリア・ノヴェッラ」は「マリア様の便り」という意味になります。
つまり、「この教会に来れば、聖マリアのお告げが聞ける」ということでしょう。
一方、"Novella"は、英語では"novel"で、「小説」「物語」という意味もあります。
フィレンツェを舞台に百の物語を書こうと思ったボッカチオは、当然、フィレンツェで最も由緒正しく、しかも「物語」の名が付いた、この教会を登場させたのだと思います。
教会前の駐車場には、教会所有の救急車が並んでいました。
救急車をイタリア語で"AMBULANZA"といいますが、車体に書いてあるのは、これを鏡(かがみ)で見た書体です。
前にいる自動車のバックミラーに映(うつ)るとAMBULANZAと読めるように、わざと鏡文字で書いてあるのだそうです。
2022年
7月
31日
日
令和4年8月1日
メディチ家Medici
メディチ家は、ルネッサンス時代のフィレンツェの政財界を牛耳(ぎゅうじ)っていました。
今でも、市内のあちこちでメディチ家の紋章が見られます。
テントウムシのような紋章の花はユリの花です。
6個の丸い玉は丸薬(がんやく)をかたどったものです。
メディチ家の起源が薬屋か医師であったという説の根拠とされています。
Mediciという家名がラテン語のmedicinaメディキーナ(医術、薬)やmedicusメディクス(医師)と似ていますから、この説は有力です。
イタリア語で医師はmedicoメディコ(複数形:mediciメディチ)、医学はmedicinaメディチーナです。
英語でも医学(特に内科)をmedicineメディシンと言います。
メディチ家・フィレンツェの守護聖人も、聖コスマスCosmasと聖ダミアンDamianという、二人の殉教した兄弟医師です。
この二人の聖人は3世紀から4世紀の人で、下肢の移植をした医師として有名です。
コジモ・デ・メディチなど、一族に多いコジモCosimoの名は、この聖コスマスに由来しています。
キリスト教の伝説では、二人は治療費をとらずに奉仕活動をし、多くの人々がキリスト教に改宗しました。
しかし、ローマ帝国の皇帝ディオクレティアヌスが4世紀初頭に行ったキリスト教徒大迫害により、二人は打ち首にされたそうです。
今では、メディチ家・フィレンツェだけでなく、医学・医師・薬剤師の守護聖人として、世界中で崇(あが)められています。
ちなみに、外科をsurgeryサージェリーと呼びます。
中世まで、外科は医師の仕事ではなかったため、medicineとは呼ばれなかったのです。
surgeryがmedicineの仲間に加えてもらったのは、つい最近の19世紀以降なのです。
昔は、medicineといえば内科学を意味したのですが、今では外科学など他の分野の医学も加わったため、特に内科学に限定する場合はinternal medicineと呼びます。
メディチ家紋章の6個の丸い印は、貨幣、あるいは両替商が使う天秤(てんびん)の分銅(ふんどう)を表しているという説もあります。
メディチ家をフィレンツェ随一の大富豪にした家業、すなわち銀行業(両替商)に因(ちな)んでです。
13才のミケランジェロ(後に「ダヴィデ」などを製作)を見いだし、彼に彫刻の勉強を始めさせたのも、ラファエロを援助し、「アテナイの学堂」などの名画を描かせたのも、メディチ家です。
また、花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)の大聖堂にクーポラ(円天蓋)を完成させたブルネッレスキや、放蕩三昧(ほうとうざんまい)の末に修道女と駆け落ちしたものの「聖母(せいぼ)戴冠(たいかん)」などの名作を残した画家フィリッポ・リッピの後ろ盾(だて)になったのも、メディチ家でした。
要するに、メディチ家がルネッサンスの保護者・パトロンだったのです。
2022年
6月
30日
木
令和4年7月1日
ルネッサンス
フィレンツェFirenze(英語:フローレンスFlorence)はトスカーナ地方の中心地です。
この街の起源は、古代ローマ時代、ジュリアス・シーザーの頃にさかのぼります。
紀元前1世紀、ローマ人はここにフローレンティアFlorentia(ラテン語で「花の都」「繁栄する都」)という名前の街(まち)を建設したのです。
ローマ神話のフローラFlora(「花・春・豊饒(ほうじょう)」の女神)が語源です。
古代ローマから2,000年の歴史を有し、街全体がユネスコ世界遺産に指定されています。
15世紀には、フィレンツェがルネッサンスの中心地となりました。
ダンテ、ボッカチオ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなどがここを舞台に活躍しました。
ルネッサンス"Renaissance"とは、「再生、復活」を意味し、15世紀頃にフィレンツェを中心に興(おこ)った学問、芸術、文化の一大革新活動です。
その特徴は、ギリシア・ローマ時代の古典文化の復興、科学への取り組み、人間性の尊重、そして個性の解放でした。
ルネッサンスが1400年代(15世紀)に起こったので、イタリアではルネッサンス期をクワトロチェントQuattrocentoと呼びます。400という意味です。
それにしても、どうしてイタリアでルネッサンスが興ったのでしょうか?
ビザンツ帝国(東口ーマ帝国)が、オスマン帝国の圧迫に耐えかねて、西ヨーロッパに助けを求めたのが始まりなのです。
14世紀末、ビザンツ皇帝はヨーロッパを訪(おとず)れ、救援を要請してまわりました。
その一行の中に学者がいて、イタリアの各地で知識人にギリシア語を伝授しました。
それに最も興味を示したのがフィレンツェでした。
ギリシア文明への注目がこうして始まりました。
ギリシア語熱は高まり、ギリシア哲学やギリシア美術にも注目が集まりました。
プラトン(紀元前5-4世紀、ギリシャの哲学者)の著作を神秘的に解釈する新プラトン主義が起き、フィレンツェの知識人を虜(とりこ)にしました。
その中に、メディチ家のコジモ・デ・メディチ(コジモ1世)もいました。
コジモ1世はギリシア文献学の必要性を痛感し、研究のための学院を自費で作りました。
それが、アカデミア・プラトン(プラトン学院)です。
そして、15世紀、コンスタンチノープルがオスマン・トルコに攻め落とされ、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)が滅亡しました。
すると、イタリアの商人達はコンスタンチノープルに殺到し、ギリシア関連の写本・文献を買いあさりました。
こうして、フィレンツェを代表とするイタリアの都市は、ギリシア文明を研究し、再生しました。
つまり、ルネッサンスとは、イタリアに起きたギリシア文明ブーム、プラトン・ブームだったのです。
同時に、古代ギリシア医学の流れを汲(く)むアラビア医学が西欧にもたらされました。
ルネッサンスにより、古代ギリシア医学の再興が起きた訳です。
そもそも、紀元前の古代ギリシア医学が、西洋医学の始まりです。
病気に伴う現象を注意深く観察し、理論を立て、そこから導き出された治療法を確立した、素晴らしい学問でした。
もちろん、現代の日本の医学も西洋医学の流れを汲むことは、言うまでもありません。
紀元前3~2世紀、アレキサンダー大王の東方遠征に伴い、古代ギリシア医学は大きな発展をしました。
いつの時代でも、大きな戦争を契機として医学が進むのは皮肉なことです。
そして、古代ローマ帝国の時代にガレノスが現れ、古代ギリシア医学を理論的に集大成したガレノス医学を確立しました。
4世紀末、古代ローマ帝国は東西に分裂しました。
東ローマ帝国では古代ギリシア医学の流れを汲むアラビア医学が、西ローマ帝国ではガレノス医学の流れを汲む僧院(教会・修道院)医学が、それぞれ主流となっていきました。
西ローマ帝国はゲルマン民族の大移動により、5世紀末に滅亡しましたが、僧院医学はその後も受け継がれていきました。
中世の修道院には、付属病院が設けられ、修道女が看護にあたりました。
僧院医学では、新しい研究や治療が行われることはなく、看護・療養が主体でした。
15世紀、オスマン帝国により東ローマ帝国が滅亡し、西へ逃れた人々により、古代ギリシア医学の流れを汲むアラビア医学がヨーロッパにもたらされました。
ここに、ルネッサンスが始まり、古代ギリシア医学が再興しました。
ルネッサンス期には、ヨーロッパ各地に大学が設立され、人体への本格的な探求が始まり、解剖も盛んに行われるようになりました。
万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチが精密な人体解剖図を描いたのも、ヴェサリウスが本格的解剖書「人体の構造(ファブリカ)」を著したのも、ルネッサンス期でした。
医学の歴史を訪ねて 第4回 ミラノ編、第13回 ヴェネツィア編をご参照下さい。
2022年
5月
28日
土
令和4年6月1日
魚市場と胃袋
リアルト橋の近くに魚と野菜などの市場(いちば)があります。
現在はリアルト市場と呼ばれていますが、昔からペスケリア"Pescheria"(魚市場、鮮魚店)という名で親しまれてきました。
ラグーナ(干潟)やアドリア海で捕れた魚介類が売り買いされる場所として発展してきたからです。
今では魚だけではなく、野菜・果物、肉、チーズ、生ハムの専門店やバール(酒場)なども並び、大変賑(にぎ)わっています。
リアルト市場は12世紀に誕生しました。
ヴェネツィアで最古の市場として知られており、地元の人々やレストラン関係者もここで買い物をします。
ヴェネツィアの台所として、人々の食生活を垣間(かいま)見ることができます。
上野のアメ横と違って、店員は威勢の良い掛け声を出したりしませんが、気さくに客の注文に応じています。
昔は、この市場から出た魚や野菜のゴミを、リアルト橋から運河に投げ捨てていたそうです。
魚市場には、gastronomia(ガストロノミア)という看板がアチコチにあります。
私のような医者は"gastro-"(ガストロ)と聞けば、gastritisガストライティス(胃炎)、gastrocameraガストロカメラ(胃カメラ)、gastric cancerガストリック キャンサー(胃癌)などのように、すぐ「胃」を思い浮かべます。
けれども、ガストロノミアは胃袋を売っている店ではありません。
「料理法」や「美食」という意味で、要するに「食料品店」「惣菜(そうざい)屋」です。
ギリシャ語gasterガステル (胃、腹)がラテン語を経て、胃に入るもの→食料→うまいもの→料理などと、意味が変化していったのです。
gastronome ガストロノーム(美食家、料理名人)、epigastriumエピガストリウム (上腹部)、gastralgiaガストラルギア(胃の痛み)、gastroenteritisガストロエンテライティス(胃腸炎)なども、みんなこれから派生した言葉です。
そう言えば、日本にはガスター"Gaster"という胃薬や、ガスト"Gast"というレストランもありますね。
両方とも胃袋に因(ちな)んで名付けられたのでしょう。
今回でヴェネツィア編を終わります。
2022年
4月
29日
金
令和4年5月1日
井戸(ポッツォ)
ヴェネツィアの街には、あちこちに昔の井戸があります。
ポッツォと呼ばれます。
井戸と言っても、天然の湧(わ)き水が出た訳ではありません。
海の干潟(ひがた)に人工的に造られた街ヴェネツィアは、高潮(たかしお)という水との戦いの他に、飲料水の確保という切実な問題を抱えていました。
地中海沿岸は比較的雨量の多い地域ですから、雨水を利用することを考えました。
これには、塩田(えんでん)開発の技術を応用しました。
まず、広場や空地(あきち)などの中央の、可能な限り広い正方形の土地を、深く掘り下げます。
その内側をすり鉢(ばち)状に粘土で固め、すり鉢の底に石を敷き詰めます。
そして、その上に多量の砂を詰めて、最後に石畳(いしだたみ)を舗装します。
井戸の周囲に降った雨は砂の中に滲(し)みこみ、砂でろ過された浄水が底に溜(た)まります。
それを汲(く)み上げて飲料水にしたのです。
井戸には様々(さまざま)な彫刻が施(ほどこ)され、広場の飾りになっています。
裕福な階層の人々は、自宅の中庭に同様な井戸を造りました。
これらの井戸は、現在では使われておらず、たいてい金属の蓋(ふた)で覆(おお)われています。
では、糞尿など下水はどうしたかと言うと、当然、海や運河へ、たれ流していました!
サン・ロッコ 大同信組合
16世紀に、聖ロッコを信仰するサン・ロッコ信徒会の集会堂として、ルネッサンス様式で建てられ、後(のち)に病院として利用されました。
現在は、ティントレットが旧約聖書・新約聖書に題材を得て20年以上の歳月をかけて描いた、圧倒的な天井画と巨大な油絵の、計70点余(あま)りで埋め尽くされています。
聖ロッコ"Rocco"(ラテン語:ロクス"Rochus"、英語:ロック"Roch")は、13世紀末、南仏モンペリエに生まれ、20歳で両親を亡くしたことを機に、全財産を貧しい人に譲(ゆず)り、ローマ巡礼の旅に出ました。その道程(どうてい)で、ペスト患者の看病に献身しました。
彼が患者の頭上に十字架の印を結ぶと、ペストがたちまち癒(い)える奇跡が起きました。ローマでは枢機卿(すうききょう)を回復させ、教皇にも謁見(えっけん)しました。
3年後、帰路についたロッコは、ついに自身がペストに罹患(りかん)してしまいました。
彼は人里(ひとざと)離れた森に籠(こも)りました。喉(のど)の渇(かわ)きに悩み、祈ると、自然に泉が湧(わ)きました。
空腹に苦しむと、犬がパンを運んで来てくれました。
旅を再開したロッコは生まれ故郷に戻りましたが、怪しい風体(ふうてい)の男として投獄され、5年後に獄中で亡くなりました。
今では、ペストに対する守護聖人として崇(あが)められています。
「大腿のペスト痕(こん)」と「パンをくわえた犬」が聖ロッコの象徴です。
2022年
3月
31日
木
令和4年4月1日
消防署
前回、述べたように、ヴェネツィアには自動車がありません。
当然、消防車もなく、運河に面した消防署には消防ボートが停泊していました。
サン・ジャコモ・デル・オーリオ医学校
リアルト橋とサンタ・ルチア駅の中間辺りにサン・ジャコモ・デル・オーリオ教会があります。
その裏手の広場の一角に、サン・ジャコモ・デル・オーリオ医学校と、付属の解剖学研究所の跡があります。
パドヴァ大学の解剖学教室をモデルにして、17世紀に建てられました。
残念ながら、19世紀に、火事で廃校になったそうです。
この辺り一帯は、地元では「解剖学の広場」と呼ばれています。
近傍の運河には、「解剖橋」という、世にも珍しい名前の橋があります。
研究所が運河に面して建てられたのには意味があります。
解剖に供する遺体を運ぶ船は、運河を通って、研究所の横に着き、遺体を荷揚げしたのです。
だから、ここに架かる橋が「解剖橋」と呼ばれるようになったのです。
サン・ジャコモ"San Giacomo"とは、日本語では聖ヤコブ"Jacob"、スペイン語ではサンチャゴ"Santiago"と呼ばれる聖人で、イエス・キリストの十二使徒(弟子の中でも、特別の権威を与えられた12人)の一人です。
ちなみに、ラテン語ではJacobus(ヤコブス)、英語では Jacob(ジェイコブ)、 James(ジェームズ)、フランス語では Jacques(ジャック)です。いずれも男子の名です。
後に福音書を記したヨハネ(やはり十二使徒の一人)の兄で、弟のヨハネと共にガリラヤ湖で漁師をしていましたが、網の手入れをしていたところをイエスに呼ばれ、ヨハネと共にイエスの弟子になりました。
イエスが十字架で処刑された後、ヤコブはユダヤで布教活動をしていましたが、西暦44年、キリスト教徒を弾圧するユダヤの王ヘロデ・アグリッパ1世に処刑されました。
十二使徒の中で最初の殉教者です。
処刑後、弟子たちが彼の遺体を小舟に乗せて海に出たところ、神に導かれるようにしてスペインのガリシアに到着し、ここで遺体を葬りました。
その後、イスラム教徒によるイベリア半島征服の混乱の中で墓は忘れ去られていましたが、9世紀、明るい星に導かれ、羊飼いが野原の中に聖ヤコブの墓を見つけました。
この場所が現在のサンティアゴ・デ・コンポステーラ"Santiago de Compostela"で、ヴァチカン、エルサレムと並んでカトリック教会の三大巡礼地の一つとされています。
コンポステーラ"Compostela"とは「星の野原」という意味です。
その後も、キリスト教徒がイスラム教徒と領土争いを繰り返していた「レコンキスタ(国土回復運動)」と呼ばれる時代、たびたび白馬にまたがった騎士姿の聖ヤコブが天から現れ、キリスト教徒を勝利に導いたと言われています。
現代でも聖ヤコブがスペインの守護聖人として広く崇拝されている所以(ゆえん)です。
ホタテ貝は聖ヤコブのシンボルで、フランスではホタテ貝を「聖ヤコブの貝」と呼ぶそうです
2022年
2月
26日
土
令和4年3月1日
ヴェネツィア市民病院
サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ広場に面して建つ、中世の荘厳な建築です。
病院になる前は、スクオーラ・グランデ・ディ・サン・マルコ(サン・マルコ大同信(だいどうしん)組合)でした。スクオーラとはイタリア語で「学校」や「同業者組合」を意味します。
ヴェネツィアでは、聖母や守護聖人を信奉する信者の団体や集会場所を、スクオーラと呼びます。
中世に誕生してから、18世紀末の共和国崩壊まで、活動が続けられました。
中産階級を中心に職人・商人らに深く浸透し、共通の出身地や職業によって団結しました。
互助会のようなものです。
結婚式、葬式などの相互扶助や、病気や貧困で困っている人を助ける慈善活動を行いました。
献金で集会堂も建てました。
各スクオーラは、その本部として豪華な建物を所有し、その中に当時の贅(ぜい)と芸術の粋(すい)を凝(こ)らした大サロンや礼拝堂を造ったのです。
言わば、コミュニティセンターの豪華版です。
その中でも、「グランデ」という名前が付くのは大規模のもので、たった6つしかありませんでした。
ヴェネツィアの守護聖人マルコを信奉するこのスクオーラは、13世紀に創設されました。
現在の建物は、15世紀後半に建て替えられたものです。
一般市民だけではなく、特権階級の名士も多く所属していました。
富裕な人々は医者を自宅に呼び、最後まで家で治療・看護を受けました。
しかし、始終医療・看護を必要とする人々は、泣く泣く家を離れなければなりませんでした。そのような人達のために、スクオーラから市民病院になったのです。
19世紀初頭、ナポレオン・ボナパルトの支配下にあった時代のことです。
遺(のこ)された建物を見ると、ヴェネツィアの巨万の富と繁栄の大きさに驚愕(きょうがく)します。
優雅で美しいファサード(正面)は、彫刻家のピエトロ・ロンバルドと建築家のジョヴァンニ・ブオラの合作で、白い大理石の中に、赤・黄・緑の大理石が散りばめられています。
初期ヴェネツィア・ルネッサンス様式と呼ばれています。
玄関ホールには柱が2列に並び、装飾が施された壁や床と共に、厳粛な雰囲気を醸(かも)し出しています。
病院は運河に面しており、「救急ボート」入り口があります。
救急車入り口はありません。
ヴェネツィアには自動車が走る道路がないため、救急車が存在しないからです。
2022年
1月
30日
日
令和4年2月1日
リアルト橋とオッパイ橋
リアルト橋(Ponte Di Rialto)は、大運河にかかる4つの橋のうち最大で、世界で最も有名な大理石の橋です。
ポンテ "ponte"は「橋」、リアルト "rialto"は、「高台」という意味です。
この辺りは周囲より少し高く、海上に姿を現していました。
最初の人々はここに住み始め、ここからヴェネツィアの建設が始まったのです。
当然、この一帯がヴェネツィアの商業・経済の中心地となりました。
今では、橋の上に貴金属店やみやげ物屋などが並び、両岸に貴族の邸宅や外国の商館が建ち並びます。
リアルト橋の少し上流に、ポンテ・デッレ・テッテ "Ponte delle Tette"という小さな橋があります。
テッテ "tette"とは、イタリア語で「乳房」の意味であり、その名の通り「オッパイの橋」を意味します。
人が集まれば、当然、「人類最初の商売」と呼ばれる営み(売春)も行われました。
15世紀頃、この地域は、娼館がひしめく歓楽街だったのです。
この付近の建物の窓やバルコニーには、乳房を出した娼婦達が並び、胸を見せたり、股を広げたりして、男どもを誘惑し、呼び込んでいました。
この頃、ヴェネツィア共和国では、同性愛の蔓延が社会問題となっていました。
カトリック教会が「自然に反する罪悪だ」と主張したからだけではありません。
同性愛者が増加すると結婚・出産が減り、その結果、人口が減少し、国力が低下するからです。それを防止するため、ヴェネツィア政府が同性愛者に科した処罰は極刑でした。
同性愛者は、サンマルコ小広場の2本の柱の間で絞首刑にされた後、「完全な灰になるまで」焼かれました。
同性愛を防ぐため、政府が法令で奨励したのが売春だったのです。
『 娼婦は、日没以降、橋の向かいの窓から顔と乳房をよく見せること 』
『 暗くて見えにくい場合は、キャンドルで照らすこと 』
などという条文までありました。
1509年のヴェネツィアには約12,000人の娼婦がいた、という記録があります。
当時のヴェネツィアの人口が約10万人でしたから、10人に1人が娼婦だった訳です。
しかも、娼婦達の上納金(税金)がヴェネツィア共和国の財政に大きく寄与しました。
特に、1519年の上納金は、ヴェネツィア造船所(兵器工場)建造に充てられたそうです。
2021年
12月
31日
金
令和4年1月1日
明けましておめでとうございます。
今年も、楽しく、ためになる話をしますので、お付き合い下さい。
サンタ・ルチア(続き)
ルチアの殉教(信仰する宗教のために自分の命を捨てること)はローマ全土に知れ渡りました。
6世紀には、彼女をキリスト教の守護者として、教会全体で讃(たた)えるようになりました。
現代では、目・視覚障害者・シラクサ・ナポリ・ヴェネツィアの守護聖女として知られています。
ナポリにはサンタ・ルチアという名の港もあります。
ダンテの「神曲」では、聖ルチアは天上の光を運ぶ女性として描かれています。
第4回十字軍がシチリアから彼女の遺体を運び、ヴェネツィアの教会に祀(まつ)りました。
この教会はヴェネツィア本島の玄関サンタ・ルチア駅を新設する際、解体されました。
この時、教会に安置されていた遺体を移したのが、駅のすぐそばのサン・ジェレミア教会です。
沢山のランプが灯(とも)る主祭壇のガラスケースの中に、今も聖ルチアは眠っています。
光の明るさを表す単位として、ルクス(lux)やルーメン(lumen)が国際的に用いられます。
この言葉の元は、ラテン語で「光」を意味するlux(ルークス)やluceo(ルーセオー)です。
合成語の前綴りとして用いられる時はluci-となり、「明るい」とか「透き通った」を表します。
聖ルチアの名前Luciaも、1ucidus via(ルーシドゥス ヴィア、光の道)の略です。
医学用語でも、「透明」な体液や、「清明」な意識を表すのに、lucidと表現します。
lumen(ルーメン)は「内腔(ないくう)、管腔(かんくう)」を意味しますが、「光の入る開(ひら)けた所」なのです。
ラテン語のlux(ルークス)から、英語のluxe(ラックス)(上等)やdeluxe(デラックス)(豪華な)、luxury(ラクシュリー)(贅沢(ぜいたく))などの言葉が生まれました。
日本語でも豪華な物をラグジュアリーと呼びます。
「光輝く」から、luxuryなのです。
また、よく使われるillustrate (イラストレイト、図解する)もillumination(イルミネーション、照明)も、元は「光をともす、明らかにする」という意味です。
ローマ神話には、Lucina(ルーキーナ)という女神が登場します。
この名前は元来、「光の中に何かをもたらすもの」という意味ですが、「暗闇から明るい世界に子供を引き出す神」、すなわち出産の守り神です。
Lucina(ルーキーナ)には「月」という意味もあります。
暗闇を明るく照らすからです。
ついでに、もう一つ。
ローマ神話にはDiana(ダイアナ)という「月と狩猟の女神」もいます。
ですから、Diana(ダイアナ)という女性名は「月」を連想させます。
ダイアナと言えば、ウェールズ公妃ダイアナを思い出します。
彼女は、1981年にイギリスのチャールズ皇太子と結婚し、ウィリアム王子・ヘンリー王子の2子をもうけた後にチャールズと離婚し、1997年にパリで交通事故による不慮の死を遂げました。
ダイアナの名にふさわしく、暗闇を明るく照らすような、美しい女性でしたね。
2021年
11月
30日
火
令和3年12月1日
サンタ・ルチア
サンタ・ルチア(Santa Lucia)はナポリ民謡「サンタ・ルチア」に歌われる聖女ルチア(英語ではSaint Lucy セイント・ルーシー)(3世紀末~4世紀始め)です。
ローマ帝国皇帝ディオクレティアヌスが支配するイタリア・シチリア島の町シラクサで生まれました。
ディオクレティアヌスが統治した時代は、ローマ帝国政府・軍内部にキリスト教徒が増加した時代です。
最初はキリスト教徒に対して融和的政策を執(と)っていた皇帝ですが、その信仰心や軍務放棄、統治への反抗心に警戒感を抱きました。
また、キリスト教徒が皇帝崇拝を認めなかったことも、ディオクレティアヌスを怒らせました。
ついに、303年、ディオクレティアヌスはローマ全土に対し、キリスト教徒の強制的な改宗、聖職者全員の逮捕および投獄などの勅令を発しました。
そして、キリスト教徒への弾圧が全土で行われ、聖書は焼却、教会は破壊されて、財産は没収となりました。
それは、かつてない規模で行われ、国家に対し公然と反抗したキリスト教徒は処刑され、その数は全土で数千人に達しました。
「ディオクレティアヌスの大迫害」と呼ばれています。
ルチアの母はルチアをある男と結婚させようとしましたが、ルチアは自身の処女を守るために拒否しました。
「自分にはより高貴な婚約者(すなわちイエス・キリスト)がいる」という理由からです。
その男は意のままにならぬルチアに怒り、彼女がキリスト教徒であり、火炙(あぶ)りにすべきだと、ローマ帝国に密告しました。
しかし、問罪所に突き出すため、ルチアを引き立てに来た兵士達は、どうしても彼女を動かすことができませんでした。
牛に彼女をつないでも引きずり出せなかったと伝えられています。
ルチアは聖霊に守られ、山のように強固だったのです。
そこで、ルチアには様々な拷問が行われました。
溶かした鉛を耳から流し込む、歯を引き抜く、乳房を切り取る、などです。
そして、ついにルチアは両目をえぐり出されてしまいました。
ところが、奇跡が起き、ルチアは目がなくとも見ることができたと伝えられています。
これ以降、彼女は目の守護聖女として崇(あが)められています。
多くの絵画や像でも、皿や器(うつわ)の上に自分の眼球を載(の)せた姿で描かれています。
最後の火炙りの際、薪(まき)の火がどうしても彼女に燃え付かないため、結局、剣で喉(のど)を突き刺され、ルチアは絶命しました。
次号に続く