Message from the Directorを更新しました(Jan 1,2025)。
Exploring the History of Medicine, Part 51: Florence, Part 31
院長から一言を、掲載順に(現在から過去に、1年分)並べてあります。
2026年
2月
28日
土
令和8年3月1日
トレヴィの泉Fontana di Trevi (続き)
ポセイドン、デーメーテール、ヒュギエイアの3人の神の前には、左右の2頭の海馬と、それぞれを操る二人のトリトーンがいます。
海馬とは、翼を持ち、上半身が馬で下半身が魚の怪獣です。
トリトーンは海神ポセイドンの息子で、上半身が人間、下半身が魚の姿をした神です。
父の跡継ぎとして海底の宮殿に住み、海馬にまたがり、ホラ貝を吹き鳴らしながら、海を鎮めていました。
右側のトリトーンは青年で強く、ホラ貝を吹きながら、穏やかで従順な海馬を率いています。
一方、左側のトリトーンは壮年で、暴れ馬の海馬を押さえつけています。
2頭の海馬が海の変化を表現している訳です。
ホラ貝は、英語でTriton's trumpet(トリトーンのラッパ)と言いますが、ギリシャ語ではporphura(ポルピュラ)と言います。
porph-は元来、「紫色の」という意味です。
内臓から赤紫色の染料(顔料)が採れるので、ホラ貝はポルピュラと呼ばれるのです。
porphyrin(ポルフィリン)という化学物質は、結晶が赤紫色なのでこう名付けられました。組織にポルフィリンが沈着するポルフィリン症では、尿が赤紫色を呈します。
英語のpurple(パープル、紫)やpurpura(プルプーラ、紫斑)はporph-から派生した言葉です。
紫斑とは皮内や皮下に生じた、出血による斑紋です。
老人性紫斑やうっ血性紫斑は、日常的によく見ます。
海苔の学名も、紫色の色調から、porphyra(ポルフィラ)です。
2026年
1月
31日
土
令和8年2月1日
トレヴィの泉Fontana di Trevi
ローマに来た観光客のほとんどが訪れる名所です。
treviは「三叉路」という意味で、泉の前から3本の道が延びているのが由来です。
「コインを肩越しに泉に投げると、再びローマに来られる」という言い伝えは有名です。
この泉が完成するまでには、紆余曲折がありました。
帝政ローマ時代、周囲の山からはるばる引いてきた水道の末端に、工夫を凝らした泉を造るのが習わしでした。
見事な噴水から勢いよくあふれる水は、資金を出した裕福な人々や工事に携わった関係者の、名誉と誇りの印でもありました。
トレヴィの泉も、紀元前19年、アウグストゥス帝の婿養子アグリッパが造らせた水道に遡(さかのぼ)ります。
水道は20kmに亘って水を運び、「アクア・ヴェルジネ(処女の水)」と呼ばれていました。
最初のトレヴィの泉は、樋から落ちる水を3つの水盤で受ける物でした。
これは、ローマの各所にあった泉や噴水と同様、蛮族の侵入で破壊されてしまいました。
15世紀以降、約300年に亘り、13代の法王が泉の再建に関わりました。
18世紀、法王クレメンス12世の命により建築家ニコラ・サルヴィが30年かかって、現在の姿を完成させたのです。
建築と彫刻と水が一体になった、バロック芸術の傑作です。
ポーリ宮殿を背景に、3体の立派な彫刻が立っています。
中央が、ギリシャ神話の「海と地震の神ポセイドン」(ローマ神話ではネプチューン)です。オリンポス12神の一人で、最高神ゼウスに次ぐ圧倒的な強さを誇ります。
海洋の全てを支配し、全大陸さえも支えています。
怒り狂うと、強大な地震を引き起こして世界を激しく揺さぶります。
また、泉の守護神でもありますので、トレヴィの泉の中央に立つのです。
ポセイドンの左に立つのが、ギリシャ神話の「大地・穀物・豊饒の女神デーメーテール」(ローマ神話ではケレスCeres)です。
デーメーテールの別名をクロエーChloeといいます。
Chloeが穀物の女神の別名にされたのは、元々「緑」という意味だからです。
chlorophyll(クロロフィル、葉緑素)などの英単語もこれから派生しています。
穀物の女神デーメーテールのローマ神話における名前ケレスCeresから英語のcereal(シリアル、穀物)が生まれました。
ポセイドンの右に立つのが、ギリシャ神話の「健康の女神ヒュギエイア」です。
彼女は医神アスクレピオスの娘で、医学の象徴である蛇(へび)の飼育係です。
右手に持っている「ヒュギエイアの杯」は薬学の象徴です。
ヒュギエイアについては、令和4年10月1日号や令和6年10月1日号(共にフィレンツェ編)で詳しく紹介しましたので、ご覧下さい。
次号に続く
2026年
1月
06日
火
謹告
診療体制縮小のお知らせ
新年早々ではありますが、苦渋の決断を申し上げます。
当院は本年3月末をもって、医療法人を解散し、4月1日より医師(片桐 一)一人、看護師 兼 事務員(片桐智英子)一人の、二人体制個人医院として、細々と診療を続けることと致しました。
2階で行っているリハビリとパワーリハビリは、誠に残念ながら、3月末で終了します。
理由は以下の4点です。
①20年以上続く診療単価削減の中、材料価格・人件費の高騰に加え、種々の医療
機器メンテナンス料の値上げ等が重なり、大勢の患者さんに受診して頂いてい
るにも拘わらず、経常収支が悪化の一途をたどっており、経営努力も限界であ
ること。
②本年6月に診療報酬改定を控え、財務省が「診療所は儲かっているから、診療
報酬をさらに下げろ」と、根拠無く声高に叫んでいること。
さらに、日本維新の会が「メリハリのある社会保障改革」を主張して、病院は
プラス改定、診療所はマイナス改定の方針が決定し、今後も減収が続くことが
確実なこと。
③私も今年、古稀を迎えるに当たり、連日連夜の激務に、精神・身体共に耐えら
れなくなってきたこと。
④良き患者さんを良き従業員と一緒に診療し、患者さんが元気になっていく姿を
見ることは、医師として掛け替えのない喜びです。
その為には、従業員一人一人を私が必要と考える水準に達するまで教育しなけ
ればなりません。同時に、各々の人生設計を考慮し、その要望(給料アップと
更なる休暇の付与)に応えなければなりませんが、遺憾ながら、無い袖は振れ
ないこと。
つきましては、4月から水曜・金曜の週2日、午前10時から午後2時までの4時間、1日5人限定の予約制とします。診療時間は一人45分、3ヶ月処方の予定です。予約の電話は4月以降、毎週水曜・金曜の午後2時から4時の間、承ります。
なお、1日5人限定の診療なので、予約を承るのは、私の治療方針に従って下さる方のみとします。私の治療方針に従えない方は、予約できません。
私自身の体調維持、目標実現のため、春期・秋期の休暇も頂く予定です。
診療以外の時間は、これまで時間が無くてできなかった勉強をし、自己研鑽に励みます。
急なお知らせではありますが、ご賢察、ご理解の程、宜しくお願い申し上げます。
令和8年1月5日
院長 片桐 一
2025年
11月
30日
日
令和7年12月1日
真実の口
「嘘つきがこの口に手を入れると、食べられてしまう」という言い伝えで有名な「真実の口」は、ギリシャ正教のサンタ・マリア・イン・コスメディン教会"Santa Maria in Cosmedin"にあります。
この教会は、この辺りに多く住んでいたギリシア人のために、6世紀に建てられました。
8世紀に改築された際に、ギリシャ人達によって装飾(コスメディン)されたため、こう呼ばれます。
英語でもcosmetic美容・化粧品、cosmetic surgery美容外科、cosmetician美容師などの言葉があります。
映画「ローマの休日」で、グレゴリー・ぺックが「真実の口」に手を入れ、食べられてしまう振りをして、オードリー・ヘップバーン扮する王女を驚かせた場面は、世界中の人が知っています。
「真実の口」がある石は、古代ローマ時代の下水道の蓋(マンホール)です。
描かれているのは髭(ひげ)もじゃのお爺さんに見えますが、実は人間ではなく、ギリシャ神話に登場する牧神(森・原・家畜の守護神)パンPanです。
パンは神々の使者ヘルメス神の子です。
生まれた時から髭もじゃで、額(ひたい)にはヤギの角が生え、脚にはヤギの蹄(ひづめ)がありました。
この奇妙な姿に驚いた母親は逃げ出してしまいましたが、ヘルメスは赤ん坊をオリンポス山に連れて行き、大勢の神々に見せました。
これを見た神々はみんな面白がって大喜びしました。
全ての神を喜ばせたので、ギリシャ語の「すべて」を意味するPanと名付けられたのです。
pan(すべて)が付く言葉は沢山あります。
panorama(パノラマ、全展望)、pandemic(パンデミック、感染症の大流行)、panperitonitis(パンペリトナイティス、汎発性腹膜炎)、pancytopenia(パンサイトペニア、汎血球減少症)などなど。
成長して牧神となったパンは、洞窟に住み、森を駆け巡り、茂みに身を隠して、妖精達を襲うのでした。
そして、失敗するとオナニーにふけるという、実に淫乱な牧神でした。
パンはエコーEchoという妖精にもしつこく言い寄りましたが、エコーが応じなかったため、エコーから、同じ言葉を繰り返す以外の、話す能力を奪ってしまいました。
この逸話から、echoが「反響、こだま」という意味になったのです。
医者が使うエコーという器械も、まさしく音の反響を利用した診断装置です。
また、パンはシュリンクスSyrinxという妖精にもチョッカイを出しましたが、彼女は逃げだし、川の岸辺の1本の葦(あし)に姿を変えました。
振られてしまったパンは数本の葦を切って葦笛を作り、これをsyrinxと名付けて、悲しい調べを鳴らしました。挿絵(さしえ)のパンも葦笛を吹いています。
この故事からsyrinxが「管」を表す言葉となり、英語のsyringe(シリンジ、注射器)が派生したのです。
牧神パンは森の木陰でよく昼寝をしていました。
これを邪魔されると、怒って大音響を発して騒ぎました。
これに驚いて、牛や羊が群れを乱して走り出し、人々も狼狽(ろうばい)して一目散に逃げ出すのでした。
ここから、panic(パニック、恐慌)という言葉が生まれたのです。
現代では、不安障害に分類される精神障害の一種「パニック障害」に悩む患者さんが増加していますね。
2025年
10月
31日
金
令和7年11月1日
フォロ・ロマーノForo Romano(続き)
カエサル(ジュリアス・シーザーJulius Caesar)は紀元前44年に暗殺されました。
カエサルの遺体が火葬され、アントニウスが有名な追悼(ついとう)演説をした場所に、カエサルの甥(おい)で養子となったアウグストゥス(ローマ帝国初代皇帝)が「カエサルの神殿」を建てました。
イオニア式の柱が残っています。
カエサルの正式な名は「ガイウス・ユリウス・カエサルGaius Julius Caesar」といい、ユリウス氏族に属するカエサル家のガイウスという意味です。
ちなみに、氏族名のユリウスとはローマ神話の神ユピテル(ジュピター、ギリシャ神話では全能の神ゼウス)の子孫という意味です。
カエサルはローマ史上最も有名な将軍・政治家です。
「賽(さい)は投げられた」「来た、見た、勝った」「ブルータス、お前もか?」などの特徴的な引用句でも知られています。
古代ローマで最大の野心家で、終身独裁官(ディクタトルdictator)となりましたが、ブルータスらに殺されました。
「カエサルCaesar」は、カエサルの甥のアウグストゥス(初代ローマ皇帝)以降、ハドリアヌスまでの代々ローマ皇帝の称号となりました。
ドイツ皇帝Kaiser(カイザー)、ロシア皇帝czar(ツァーリ)の語源でもあります。
「帝王切開(英語:cesarean section(セサリアン セクション)、ドイツ語: Kaiserschnitt(カイザー シュニット))」は子宮切開によって胎児を取り出す手術です。
この呼称は、シーザーが母の子宮切開手術によって産まれた、との伝説に基づきます。
我々医者は「帝切(ていせつ)」「カイザー」などと呼びます。
日本語の「帝王切開」は、ドイツ語のKaiserschnittを翻訳したものです。
しかし、紀元前の医学では、母の腹部・子宮を切開して母子共に健康などということはあり得ません。
実際にカエサルが帝王切開で生まれた可能性は極めて低いのです。
カエサルの神殿の前には煤(すす)けた石板が立っています。
この広場にはいつも、このような白い石板が立っていました。
市民に公示する掲示板の役割を果たし、album(アルブム)と言われていました。
ラテン語でalbusは「白い」という意味です。
写真を貼る帳面もアルバムといいますが、白い紙を綴じた物だから、こう呼ぶのです。
このalb (alp)が付く、白い物は沢山あります。
教会でミサの際、司祭や信者が着る白衣もalbといいます。
Alps(アルプス)山脈、albatross (アルバトロス、アホウドリ)など、みんな白い物です。 医学の世界でも、albumin (アルブミン、タンパク質の一種)、linea alba (白線)、albino (白子)、albism (白皮症)、corpus albicans(卵巣の黄体が瘢痕化した白体)、Candida albicans(白色カンジダ)など、白い物ばかりです。
次号へ続く
2025年
9月
30日
火
令和7年10月1日
フォロ・ロマーノForo Romano(続き)
フォロ・ロマーノは全体的に道路面よりかなり低くなっています。
それもその筈(はず)、前号で述べたように、ここは古代ローマ時代に丘と丘の間の沼地を干拓して造られた広場だからです。
市民の集会や裁判、商業活動や政治討論の場として設けられた「公共広場forum」であり、買い物広場でもありました。
古代ローマの発展の中核だった訳です。
ちなみに、現代英語のforum(フォーラム)は、もっぱら「公開討論会」の意味で用いられています。
紀元前5世紀の共和政時代初期には、フォロ・ロマーノは市民の公共生活の中心となり、ローマの発展と共に繁栄していきました。
しかし、やがて帝政が敷かれて、諸皇帝の広場ができると、フォロ・ロマーノはその本来の役割(民主政治の中心)を失い、むしろローマの偉大さと栄光を示すシンボルに変わっていきました。
その後、たび重なる蛮族の侵入で破壊されたフォロ・ロマーノは、中世には放牧の原となり、残った遺跡は壊され、建築材料として持ち去られました。
19世紀になって考古学的な発掘が行われるまで、かつてここに偉大なローマの中心があったことさえ、忘れ去られていたのです。
フォロ・ロマーノの一番西の奥に「セヴェルス帝の凱旋門」が建っています。
その左脇には、「ローマの臍(へそ)」"Umbilicus Urbis"と呼ばれる、直径4mのレンガでできた円があり、文字通りローマの中心でした。
そして、セヴェルス帝の凱旋門のすぐ左下にある細長い台座が、ロストリ"Rostri"と呼ばれる演壇です。
紀元前1世紀にカエサル(ジュリアス・シーザー)が行ったフォロ・ロマーノの改修で、現在の場所に移されました。
高さ約3m、長さ12mの凝灰岩でできています。
ここで、キケロなどの雄弁家が、広場に集まった市民に向かって弁を振るいました。
ローマ時代には、公職を志願する候補者は、自らの清廉潔白を示すために、トーガ"toga"(布を緩やかに体に巻き付ける衣服)をチョークで白く塗り、人々の支援を求めて、この演壇で演説したり、町を歩き回ったりしました。
白衣を着ている人は一点の汚(けが)れもないことを示し、公職にふさわしいと訴えたのです。
白衣を着ている候補者を、当時candidatus(カンディダートゥス)と呼びました。
その元はラテン語のcandere(カンデーレ、白く輝く)です。
現代英語でも、候補者・志願者をcandidate(キャンディデイト)といいます。
candle(ローソク)、chandelier (シャンデリア)、オランダ語 kandelaar(カンテラ、携帯用の石油灯)など、すべて同じ語源に由来します。確かに、みんな「白く輝き」ますね。
さて、医学用語にもCandida (カンジダ)というカビの名前があります。
これも、このカビが乳白色で光沢のある塊(かたまり)を作るからです。
ちなみに、Candida albicans(白色カンジダ)という種類がありますが、直訳すると「白く輝く白い物」です。
いくら白いにしても、おかしな名前です。
次号に続く
2025年
8月
30日
土
令和7年9月1日
フォロ・ロマーノForo Romano(続き)
前号で述べたように、ローマは7つの丘から始まりました。
丘と丘の谷間には7つの丘から小川が流れ込み、湿地帯を形成していました。
そこでは、蚊が大量に発生し、人が住むには不向きでした。
そこで、沼地を干拓して人が住めるようにしようと考えたのが、紀元前6世紀のタルクィニウス王です。
彼は下水道の建設事業に市民を駆り立てました。
あまりに市民を酷使したため、彼はローマから追放されてしまいましたが、彼の着想は
後にクロアーカ・マッシマ(巨大な下水溝)と呼ばれる下水道として実を結びました。
1.5kmに亘(わた)って建設されたこの巨大な排水溝が、沼の水をテヴェレ川まで運び、湿地帯をローマの都に変えたのです。
その中心が、今も残る市民広場フォロ・ロマーノです。
排水溝は紀元前4世紀には暗渠(あんきょ)化されました。
このローマの幹線下水道は、ローマ帝国崩壊以来、掃除されたことがないそうです。それにもかかわらず、今もなお、立派に機能しています。
古代ローマの医学史上最大の功績が、上下水道、公衆浴場の建設など、公衆衛生の発達です。
クロアーカ・マッシマはCloaca Massimaと書きます。
massimaはmassimo(最大の)の変化形です。
英語の maximum と同様にラテン語の maximusマクシムス(最大の)に由来します。
cloacaは下水道排水溝という意味ですが、解剖学では総排泄腔(そうはいせつくう)と訳されます。
鳥やカエルなどに見られる、直腸・膀胱・尿道・生殖器を兼ねる器官です。
総排泄腔をもつ動物では、排泄物(糞や尿)も卵や精子も、同じ穴から体外に排出されるのです。
学生時代に解剖学で習いましたが、下水溝という意味があるとは知りませんでした。
私や皆さんは、帝王切開で産まれた人を除いて全員、下水から出て来たことになりますね!
次号に続く
2025年
7月
31日
木
令和7年8月1日
フォロ・ロマーノForo Romano
古代ローマの公共広場です。
理解し易いように、まず、ローマ発祥の伝承から説明します。
現在のトルコに「トロイ」という都市があります。
古代ギリシャ軍がトロイを攻め滅ぼしたのが「トロイア戦争」です。
生き残ったトロイアの青年アエネアスが、後にイタリア半島へ上陸しました。
そのずっと後の子孫である「ロムルス」と「レムス」という双子の兄弟は、赤ん坊の時にテヴェレ川に流され、メスの狼に育てられました。
双子の兄弟は成長し、自分たちが流れ着いた地点に町を建設することにしました。
その町に兄弟どちらの名前をつけるか喧嘩(けんか)になり、丘に登って鳥をたくさん見た方が勝ち、と決めました。
また、町の壁を越えて来る者は殺すという誓約も結びました。
弟のレムスは、アヴェンティーノの丘に登って6羽の鳥を見ました。
兄のロムルスは、パラティーノの丘に登って12羽の鳥を見ました。
ロムルスが勝ったので、彼は新しい街の城壁を築くために線を引き始めました。
街の名はロムルスの名に因(ちな)んで「ローマ」と呼ぶことにしました。
賭けに負けたレムスが、八つ当たりして街の壁をけり壊したため、ロムルスはレムスを殺してしまいました。
弟を立派に埋葬した兄ロムルスは、街に多くの人を住まわせました。
彼はローマを40年間統治し、雲の中へ消えていきました。
これが、紀元前8世紀のローマ発祥伝説です。
ローマは、パラティーノを初めとする7つの丘に囲まれています。
7つの丘は「ローマの七丘(しちきゅう)」と呼ばれます。
丘に囲まれた谷間は、丘の上から流れ込む水によって沼地を形成していました。
沼地は住むには適さず、もっぱら死者を葬(ほうむ)る場所として使われていました。
そこには、マラリアを媒介する蚊が群生(ぐんせい)していました。
当然、ローマ市民の間に、絶えずマラリアが流行しました。
紀元前1世紀前後には、マラリアが大流行したため人口が激減しました。
当時の有名な弁舌家キケロがローマを「悪疫(あくえき)の都」と呼んだくらいです。
人類を悩ませ続けてきた熱病をマラリアと名付けたのは、18世紀のイタリア人医師フランチェスコ・トルチです。
彼は、この熱病の原因が沼地の「悪い空気」"mal aria "であると考え、病名をイタリア語そのままのmalariaマラリアとしたのです。
マラリアに悩まされたのは古代ローマ人だけではありません。
マケドニアのアレキサンダー大王、エジプトの女王クレオパトラやツタンカーメン王、フィレンツェの詩人ダンテ、日本の平 清盛、カルカッタのマザー・テレサなどもマラリアに罹患したと言われています。
現代医学では、マラリアがハマダラカという蚊が媒介する感染症であることが明らかになっています。
残念ながら、今なお、世界中で毎年2億人以上の人がマラリアに感染し、40万人以上が亡くなっています。
私は医師になってから45年間、一度もマラリア患者に遭遇したことがありません。
しかし、地球温暖化に伴い、日本もマラリア流行地域になるのではないかと、危惧しています。
蛇足ですが、「良い空気」という意味の都市があります。
アルゼンチンの首都Buenos Airesブエノスアイレスです。
次号に続く
2025年
6月
30日
月
令和7年7月1日
コロッセオColosseo
ヴェスパシアヌス帝が1世紀に建設開始し、その息子ティトゥス帝が完成させた闘技場です。
長径188m・短径156m(円ではなく楕円形)・周囲521m・高さ57m・5万人収容という、文字どおり巨大な(コロッサーレcolossale)建造物でした。
東京ドームや甲子園球場より一回り小さい位の大きさです。
後世、表面を飾っていた大理石や上階部分の石材が持ち去られたため、現在のような姿になってしまいました。
観客席は身分・性別により仕切られていました。
地下には、猛獣の檻(おり)や器材・道具置き場のほか、人間・動物の移動のための大がかりな昇降装置(エレベーター)もありました。
猛獣と剣闘士、または剣闘士同士の凄惨(せいさん)な戦いが見世物にされました。
剣闘士(グラディエーター)となる者の大半は戦争捕虜や奴隷、犯罪者でした。
剣闘士は勝ち続ければ富を得ることもできましたが、ローマ人達からは「野蛮人」と見なされました。
その社会的地位は低く、売春婦と同類の最下等とされ、蔑(さげす)まされました。
剣闘士は養成所で長期にわたり訓練を施(ほどこ)されてから闘技会に出場しました。
しかし、重罪人は訓練を受けることもなく獄中から闘技会に引き出され、防具なしで戦い、大半は命を落としました。
養成所では闘技を指導する元(もと)剣闘士の訓練士や、高度な技術を持つ医師・マッサージ師などが働き、剣闘士の養成を行いました。
剣闘士は、訓練士によって、行進の仕方、武器の扱い、足技、突き刺した剣でどうやって動脈を切るかなどを指導され、徹底的にしごかれました。
藁(わら)人形を相手に殴りかかる練習をし、練習試合で経験を積みました。
訓練中の剣闘士は闘技会以外でのケガと反乱を防止するため、金属ではなく木製の武器を与えられました。
訓練についていけない落伍(らくご)者は闘獣士(とうじゅうし)になるか、過酷な罰が与えられ、耐えられずに自殺する者もいました。
ある者は便所の汚物洗浄用の棒を喉に突っ込み窒息死、また、別の者は馬車で移送中に車輪に頭を突っ込み絶命しました。
ローマ人の見世物として仲間同士で戦わされるのを嫌い、互いに喉を絞めあって果てた連中もいます。
訓練生の宿舎は厳重に監視され、夜は鍵を掛けて閉じ込められました。
彼らには栄養豊富な食事、特に大麦が主食として与えられました。
古代ローマでは、大麦を食べると脂肪が増えて出血を防げると考えられていたからです。
ただし、当時のローマ市民の主食は小麦であり、大麦は家畜の飼料だったので、剣闘士は侮蔑(ぶべつ)的に「大麦食い」と呼ばれました。
午前中は野獣狩りが催されました。世界中から集められたクマ、トラ、ライオン、ヒョウなどの猛獣やゾウ、キリンといった珍獣が闘技場に放たれ、闘獣士たちがこれを狩り殺しました。闘獣士は武装しており、猛獣と戦って生き残る者もいました。
しかし、無防備の重罪人と猛獣との戦いは公開処刑であり、大抵の重罪人が猛獣に食い殺されました。
午後は、罪人の処刑が行われました。
彼らは武器を持たされ、罪人同士で死ぬまで戦うか、剣闘士と戦って殺されました。
罪人の処刑が終わると、剣闘士の試合が始まりました。
決着がついた後、敗者について、観客が助命か処刑かを選択できました。
勝者にはシュロの小枝が与えられ、卓越した者には月桂冠が授けられました。
時には、詩人に讃(たた)えられ、壺(つぼ)などに肖像画が描かれたり、多額の金品や婦人達の愛顧(あいこ)を得る者もいました。
剣闘士は年に3回か4回程度の試合を行い、20戦ほどを経験するまでに死ぬか、引退しました。生き残る確率は20人に1人程度でした。
皇帝は見世物を提供して、庶民の人気を稼ぎ、社会に山積する問題から目をそらさせたのです。
キリスト教の公認後、血なまぐさい見世物は次第に下火になり、6世紀の半ばには廃止されました。
因みに、闘技場を英語でアリーナarenaといいます。
これは、ラテン語のharena(砂地)に由来します。
剣闘士や動物が流した血が貯まらないように、床に砂を敷き詰めたから「砂地」なのです。
横浜アリーナも、さいたまスーパーアリーナも、砂地という意味だったのですね。知りませんでした。
2025年
5月
31日
土
令和7年6月1日
テルミニ駅Stazione Termini
国際線、国内線の鉄道が頻繁に発着する、ローマ最大の駅で、町の交通の中心です。
ガラスと大理石を用いた、巨大な近代建築です。
ローマに鉄道が敷かれたのは比較的遅く、法王ピウス9世の発案で、1870年にテルミニ駅が建造されました。
その後、ローマが統一イタリアの首都となり、鉄道網が急速に発達したため、ムッソリーニの命により、「20世紀に即した」新しい駅の建設が始まりました。
途中、第2次世界大戦を挟み、完成までに13年の歳月を費やしました。
私は、「テルミニ」Terminiという言葉は、終着駅を意味する英語のterminal(ターミナル)やterminus(ターミナス)と関連した単語だと思っていましたが、そうではありませんでした。
ディオクレティアヌス帝の公衆浴場terme(テルメ)の跡地に造られたことに由来するのだそうです。
公衆浴場と言っても、日本の風呂屋とは段違いの大きさです。
370m×380m、約14万平方メートルの大きさで、甲子園球場の3.5倍位です。
ギリシャ語のtherme熱、thermos熱い、thermai温泉、から派生し、英語のthermae(サーミー)温泉・公衆浴場、イタリア語のterme温泉・公衆浴場となりました。
医療でも、thermometer(サーモメーター)温度計、thermostat(サーモスタット)温度調節器、thermography(サーモグラフィー)、hyperthermia(ハイパーサーミア)高熱・高体温、などなど日常的に用いますね。
「テルモTERUMO」という名前の医療機器メーカーもありますね。
この会社は、100年前の創業時、体温計の製造から始めたのだそうです。
当院でも、テルモの電子体温計を使っています。
「テルマエ・ロマエTHERMAE ROMAE」(ヤマザキ マリによる漫画)は、ラテン語で「ローマの公衆浴場」という意味です。
2012年、阿部 寛主演で映画化されました。
古代ローマ帝国の浴場設計師が現代日本にタイムスリップし、日本の風呂文化を学んでいく姿を描くコメディドラマです。
ところで、ディオクレティアヌス帝は、大浴場(カラカラ浴場)を建設したカラカラ帝からちょうど100年後の3世紀末に即位した皇帝です。
この皇帝が関わる最も重大な事件は、彼が4世紀始めに出した、キリスト教に対する禁教令です。
彼は自らをユピテル神になぞらえ、皇帝ディオクレティアヌスを神として崇拝するよう、キリスト教徒に強要しました。
また、ローマ古来の神々を崇拝し、ローマ古来の祭儀へ参加するようキリスト教徒に強要しました。
さらに、キリスト教徒を火あぶりの刑に処したり、見世物として円形闘技場に引き出してライオンの群れに食わせるといった公開処刑も行いました。
ついには、キリスト教の書物を焼却し、教会の財産も没収してしまいました。
結局、信仰の拠り所を無くすことを主眼としたものでした。
「ディオクレティアヌスの大迫害」と呼ばれます。
次のコンスタンティヌス大帝によってキリスト教が公認(313年「ミラノ勅令」)されるまで、約10年間続きました。
2025年
4月
30日
水
令和7年5月1日
大聖堂(ドゥオーモ)とガリレオ
大聖堂はピサ・ロマネスク様式建築の最高傑作です。
十字軍に参戦したピサは、11世紀にシチリアのパレルモ沖にてイスラム艦隊と海戦し、勝利しました。
この勝利を記念して、イスラム教徒から奪った金銀財宝を基(もと)に、50年の歳月をかけて、大聖堂が建てられました。
建築に用いられた円柱は、パレルモのギリシャ神殿から戦利品として運んできた物です。
内部には、歴史的・美術的に価値の高い作品が数多くありますが、特筆すべきは14世紀始めの説教壇(だん)です。
これは、イタリアン・ゴシックの彫刻の中でも最高傑作と言われています。
けれども、私達にとってもっと重要な物が、この説教壇の前にぶら下がっているランプです。
前号で述べた「落下の法則」の発見より以前の1583年の事です。
当時、ガリレオ・ガリレイはピサ大学医学部の学生でした。
教育熱心な父親から英才教育を受けた彼は、17歳で医学部に進学していたのでした。
彼は、ドゥオーモの説教壇の真ん前で、天上から吊り下がっているブロンズのシャンデリア(ランプ)が風に揺れるのを眺(なが)めていました。
そして、ランプの振り子の揺れ幅がしだいに小さくなっても、1往復の時間は変わらない事に気付きました。
医学生だったため、自分の脈で確かめたそうです。
これが「振り子の等時性(とうじせい)」という法則です。
以後、ピサの大聖堂のシャンデリアは「ガリレオのランプ」と呼ばれるようになりました。今日では、彼はこのランプより6年も前に、振子の法則を発見していたと考えられています。
その後、ガリレオは、医学部の講義に幻滅し、医学部を退学して数学・物理学・天文学の道に入っていきました。
ピサ大学やパドヴァ大学で長い間、これらの学問を教えました。
中でも、歴史的に重要なのが天文学における功績です。
①木星に衛星が存在する。②金星が満ち欠けする。③太陽に黒点が存在する。
以上3つの発見により、ガリレオはこれらが地動説(地球が太陽の周りを回っている)の証拠であると確信しました。
ガリレオが地動説を主張し続けたため、天動説(太陽が地球の周りを回っている)を信じるカトリック教会から有罪判決を受けた話は有名です。
ガリレオは教会の神父達よりも、キリスト教の本質をよく理解し、科学的な言葉で説いたために快く思われず、デタラメな裁判で有罪判決を受けたのです。
ガリレオへの刑は無期懲役でしたが、直後に減刑され軟禁となりました。
しかし、フィレンツェの自宅への帰宅は認められず、その後、死ぬまで監視付きの家屋に住まわされ、外出も禁じられました。
もちろん、すべての役職を剥奪されました。
死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬(ほうむ)ることも許されませんでした。
ガリレオの庇護(ひご)者のトスカーナ大公は、ガリレオを異端者として葬るのは忍びないと考え、ローマ教皇の許可が下りるまでガリレオの葬儀を延期しました。
ようやく、ガリレオの死後100年以上経った18世紀に、教皇の許可に基づく埋葬がフィレンツェのサンタ・クローチェ教会で行われました。
やがて、1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したのを発端に、ガリレオ裁判の見直しが始まりました。
そして、ついに1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、この裁判が誤りであったことを正式に認め、ガリレオに謝罪しました。
これは我々の記憶にも新しい出来事です。
ガリレオの死去から実に350年後のことです!
感慨深いですね。
2025年
3月
30日
日
令和7年4月1日
ピサの斜塔とガリレオ
ピサはフィレンツェから西へ90km、アルノ川がリグリア海に注ぐ河口の港町です。
最盛期(11~13世紀)にはヴェネツィア、ジェノヴァ、アマルフィと並ぶ海洋貿易国家として地中海に君臨しました。
その後、ピサが大学都市として名声を博するようになった16世紀に、ガリレオ・ガリレイがこの地に生まれました。
ガリレオはピサ大学で教鞭をとり、科学分野における同大学の名声を不動にしました。
ピサと言えば斜塔です。
イタリアで最も有名な建物です。
隣接する大聖堂(ドゥオーモ)の付属鐘楼(しょうろう)として、12世紀(日本では平安時代)に建築が始まりました。
湿地帯で地盤が弱いため、建築開始後、間もなく、塔は傾き始めました。
何度かの工事中断を経て、着工から200年後の14世紀(日本では室町時代)に、約5度傾いた状態で、塔が完成しました。
傾いた塔の高さは、北側で55.2m、南側で54.5mと、70cmの差があります。
最上層は最下層より、3mもずれているのです。
この斜めに傾いた塔を利用して、有名な実験を行ったのがガリレオ・ガリレイです。
彼はアリストテレス(古代ギリシアの哲学者)の「落下運動の速度は、物体の重さに比例する(重い物は軽い物より速く落下する)」という説が誤りだと主張しました。
これを実証するため、この斜塔の屋上南端から、大小二つの鉛の砲弾を落とすという実験を行ったのです。
鉛の砲弾を使用したのは、空気抵抗を無視できるほど小さくするために、比重の大きい(体積の小さい)物体を用いる必要があったからです。
その結果、大小両方の玉が同時に地面に落下することを確認しました。
そして、「物体の落下速度は、空気抵抗がなければ、その物体の重さによらず一定である」という説を17世紀、「新科学対話」で発表しました。
これがガリレオの有名な学説「落下の法則」です。
フィレンツェ編でも述べましたが、ガリレオ・ガリレイは天文学や物理学において、「自分の目で観察して確かめる」という手法を採りました。
彼は観察を重視し、自分の考えを証明するには実験するしかないと考えました。
今では当然の手法ですが、当時は伝統やカトリック教会という大きな壁が立ちはだかっていました。
しかし、ガリレオは屈することなく、己を信じて研究を続けたのです。
2025年
2月
28日
金
令和7年3月1日
サン・ジョヴァンニ洗礼堂 Battistero di San Giovanni 続き
洗礼者聖ヨハネ Saint John the Baptist に関連して、医療者が忘れてならないのは、セント・ジョンズ・ワート Saint John's Wort (「聖ヨハネの草」セイヨウオトギリソウ)という薬草です。
学名はHypericum perforatum(ヒペリクム・ペルフォラートゥム)。
古代ギリシャでこの花が「悪魔よけの像」の上に置かれていたことから、学名が「像icon」の「上hyper」を意味するラテン語ヒペリクムHypericumになったそうです。
その名のとおり、災いから身を守るための儀式で使用され、古くから「魔よけ」の植物として親しまれてきました。
ヨーロッパ原産ですが、後にアメリカなどへ伝播(でんぱ)し、現在では日本の一部地域でも野生化したセント・ジョンズ・ワートを見ることができます。
聖ヨハネの誕生日(聖ヨハネの日、6月24日)頃に黄色い花が咲き、伝統的にこの日に収穫されているため、聖ヨハネの名が付けられました。
ちなみに、日本の北海道では、7月中頃にかわいらしい黄色い花を咲かせます。
花びらをこすると赤い液体が出てくるので、洗礼者ヨハネの血からこの草が芽生えたと言い伝えられています。
セント・ジョンズ・ワートは古代ギリシャ以来、「悪魔を追い払うハーブ」と呼ばれ、儀式に用いられただけではなく、外用(塗布)して切り傷やヤケドに、内服してうつ病の治療薬として、用いられてきました。
アメリカ大陸の原住民族(アメリカ・インディアン)も人工妊娠中絶薬、抗炎症薬、消毒薬として使用していました。
また、赤や黄色の色素を作るためにも用いられています。
我が国においても、最近、セント・ジョンズ・ワートを含むサプリメント(錠剤、カプセル)やティーバッグ(ハーブ)が薬局やインターネット通販で売られています。
しかし、この草に含まれるヒペリシンやヒペルフォリンという物質を摂取することにより、体内で、ある種の薬物代謝酵素が誘導されます。
そのため、薬物の代謝(分解)が促進され、その血中濃度が低下するため、薬効が減少します。
また、セント・ジョンズ・ワートの摂取を急に中止すると、薬物分解促進作用がなくなるため、薬物の血中濃度が上昇し、副作用を招く危険もあります。
セント・ジョンズ・ワートにより影響を受ける薬物は以下の通りです。
これらの薬物を服用している方は、 セント・ジョンズ・ワートを摂取しないで下さい。
鉄剤
オメプラゾール(酸分泌抑制薬)
リバロキサバン、ワルファリン(血液凝固阻害薬)
フルボキサミン、パロキセチン、セルトラリン(抗うつ薬)
ジゴキシン、ジギトキシン、メチルジゴキシン(強心薬)
アミオダロン、キニジン、ジソピラミド、プロパフェノン(抗不整脈薬)
テオフィリン、アミノフィリン(気管支拡張薬)
フェニトイン、カルバマゼピン、フェノバルビタール(抗てんかん薬)
エストラジオール(卵胞ホルモン薬)
ボリコナゾール(抗真菌薬)
シクロスポリン、タクロリムス、エベロリムス(免疫抑制薬)
ゲフィチニブ、イマチニブ(抗悪性腫瘍薬)
インジナビル(エイズ治療薬)
2025年
1月
31日
金
令和7年2月1日
サン・ジョヴァンニ洗礼堂 Battistero di San Giovanni
花の聖母(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)大聖堂(ドゥオーモ)より早く、11世紀に、街の守護聖人、聖ジョヴァンニ(洗礼者聖ヨハネ)に捧(ささ)げて建造されました。
ドゥオーモが出来るまでは礼拝堂(聖堂)として使われ、フィレンツェの象徴でしたが、ドゥオーモが出来たため、改修されて洗礼堂となりました。
フィレンツェに生まれた詩人ダンテも、ここで洗礼を受けました。
8角形の建物で、南、北、東の扉にはブロンズのレリーフ装飾が施されています。
特に有名なのが北と東の扉です。
北の扉:ぺストの大流行から復興したフィレンツェが、15世紀初頭、新しい時代を祈って、洗礼堂の扉のコンクールを行いました。
そして、ロレンツォ・ギべルティの作がブルネッレスキに勝ち、採用されました。
新約聖書に基づき、「キリストの生涯」と「諸聖人像」から成ります。
一方、敗れたブルネッレスキは、失意のうちにフィレンツェを離れ、ローマで建築の勉強をしました。その後、彼がフィレンツェに戻り、設計したのが花の聖母教会(ドゥオーモ)の大クーポラ(丸い屋根)です。
東の扉:北の扉の約20年後、やはりギベルティが製作しました。
後に、ミケランジェロが「天国の門」と呼び、賞賛しました。
多くの人々が触れたため、扉全体が金色に輝いています。
旧約聖書を題材にした10枚の金色のレリーフは、遠近法を巧みに取り入れています。
洗礼者ヨハネは、『新約聖書』に登場する古代ユダヤの預言者です。
その名のとおり、ヨルダン川でイエス・キリストに洗礼を授(さず)けました。
洗礼とは、キリスト教徒となるために行う儀式です。
頭に水を注ぐことによって罪を洗い清め、神の子となる証(あかし)とします。
もちろん、洗礼者ヨハネは、イエスの弟子である使徒ヨハネとは別人です。
「ヨハネJohannes」の名は、ヘブライ語の「主は恵み深い」を意味する「ヨーハーナーン」に由来します。
キリスト教がヨーロッパで主たる宗教として普及した結果、各国で、聖書に登場するJohannes(ヨハネ;ラテン語)に由来する男性名が広がりました。
John(ジョン;英語)
Jean(ジャン;フランス語)
Juan(フアン;スペイン語)
João(ジョアン;ポルトガル語)
Johannes(ヨハネス;ドイツ語)
Ioannes(イオアネス;ラテン語)
Giovanni(ジョヴァンニ;イタリア語)
Evan(エヴァン;ウェールズ語)
などです。
この中でも、英語名ジョンJohnは世界中で最も多い男性名だと言われています。
確かに、ジョン・F・ケネディやジョン・レノンなど、ジョンの名を持つ有名人は多いですね。