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Exploring the History of Medicine, Part 51: Florence, Part 31
令和7年7月1日
コロッセオColosseo
ヴェスパシアヌス帝が1世紀に建設開始し、その息子ティトゥス帝が完成させた闘技場です。
長径188m・短径156m(円ではなく楕円形)・周囲521m・高さ57m・5万人収容という、文字どおり巨大な(コロッサーレcolossale)建造物でした。
東京ドームや甲子園球場より一回り小さい位の大きさです。
後世、表面を飾っていた大理石や上階部分の石材が持ち去られたため、現在のような姿になってしまいました。
観客席は身分・性別により仕切られていました。
地下には、猛獣の檻(おり)や器材・道具置き場のほか、人間・動物の移動のための大がかりな昇降装置(エレベーター)もありました。
猛獣と剣闘士、または剣闘士同士の凄惨(せいさん)な戦いが見世物にされました。
剣闘士(グラディエーター)となる者の大半は戦争捕虜や奴隷、犯罪者でした。
剣闘士は勝ち続ければ富を得ることもできましたが、ローマ人達からは「野蛮人」と見なされました。
その社会的地位は低く、売春婦と同類の最下等とされ、蔑(さげす)まされました。
剣闘士は養成所で長期にわたり訓練を施(ほどこ)されてから闘技会に出場しました。
しかし、重罪人は訓練を受けることもなく獄中から闘技会に引き出され、防具なしで戦い、大半は命を落としました。
養成所では闘技を指導する元(もと)剣闘士の訓練士や、高度な技術を持つ医師・マッサージ師などが働き、剣闘士の養成を行いました。
剣闘士は、訓練士によって、行進の仕方、武器の扱い、足技、突き刺した剣でどうやって動脈を切るかなどを指導され、徹底的にしごかれました。
藁(わら)人形を相手に殴りかかる練習をし、練習試合で経験を積みました。
訓練中の剣闘士は闘技会以外でのケガと反乱を防止するため、金属ではなく木製の武器を与えられました。
訓練についていけない落伍(らくご)者は闘獣士(とうじゅうし)になるか、過酷な罰が与えられ、耐えられずに自殺する者もいました。
ある者は便所の汚物洗浄用の棒を喉に突っ込み窒息死、また、別の者は馬車で移送中に車輪に頭を突っ込み絶命しました。
ローマ人の見世物として仲間同士で戦わされるのを嫌い、互いに喉を絞めあって果てた連中もいます。
訓練生の宿舎は厳重に監視され、夜は鍵を掛けて閉じ込められました。
彼らには栄養豊富な食事、特に大麦が主食として与えられました。
古代ローマでは、大麦を食べると脂肪が増えて出血を防げると考えられていたからです。
ただし、当時のローマ市民の主食は小麦であり、大麦は家畜の飼料だったので、剣闘士は侮蔑(ぶべつ)的に「大麦食い」と呼ばれました。
午前中は野獣狩りが催されました。世界中から集められたクマ、トラ、ライオン、ヒョウなどの猛獣やゾウ、キリンといった珍獣が闘技場に放たれ、闘獣士たちがこれを狩り殺しました。闘獣士は武装しており、猛獣と戦って生き残る者もいました。
しかし、無防備の重罪人と猛獣との戦いは公開処刑であり、大抵の重罪人が猛獣に食い殺されました。
午後は、罪人の処刑が行われました。
彼らは武器を持たされ、罪人同士で死ぬまで戦うか、剣闘士と戦って殺されました。
罪人の処刑が終わると、剣闘士の試合が始まりました。
決着がついた後、敗者について、観客が助命か処刑かを選択できました。
勝者にはシュロの小枝が与えられ、卓越した者には月桂冠が授けられました。
時には、詩人に讃(たた)えられ、壺(つぼ)などに肖像画が描かれたり、多額の金品や婦人達の愛顧(あいこ)を得る者もいました。
剣闘士は年に3回か4回程度の試合を行い、20戦ほどを経験するまでに死ぬか、引退しました。生き残る確率は20人に1人程度でした。
皇帝は見世物を提供して、庶民の人気を稼ぎ、社会に山積する問題から目をそらさせたのです。
キリスト教の公認後、血なまぐさい見世物は次第に下火になり、6世紀の半ばには廃止されました。
因みに、闘技場を英語でアリーナarenaといいます。
これは、ラテン語のharena(砂地)に由来します。
剣闘士や動物が流した血が貯まらないように、床に砂を敷き詰めたから「砂地」なのです。
横浜アリーナも、さいたまスーパーアリーナも、砂地という意味だったのですね。知りませんでした。