令和5年7月1日
フローレンス・ナイチンゲール
ナイチンゲールが生まれたのは1820年で、今から約200年前です。
彼女の誕生日にちなんで、「国際看護師の日」は毎年5月12日と決められています。
共に英国貴族出身の裕福な両親は、3年(!)にも及ぶ新婚旅行に出かけました。
その途中、フィレンツェで生まれたのがフローレンス・ナイチンゲールです。
フィレンツェで生まれたため、その英語名「フローレンス」と名付けられたのです。
教育熱心な父親は、彼女に国語(英語)はもちろん、イタリア語、ギリシャ語、哲学、歴史、さらに女性には不要と考えられていた数学まで教えました。
成長した彼女は、美女で教養が高く、社交界の花形になりました。
しかし、30才を過ぎて、婚約者や財産を捨て、ロンドンの病院の看護婦になりました。当時の看護婦は、資格もなく、卑しい職業であったにもかかわらず、です。
そして、1853年クリミア戦争が勃発すると、彼女は現在のイスタンブールにあったスクタリ陸軍病院に、看護婦仲間と共に赴任しました。
病院の外観は豪華でしたが、糞尿を流す下水の上に建てられていて、不衛生でした。
しかも、ナイチンゲール達は現場の医師団から邪魔者扱いされました。
医師団の長官が、本国(イギリス)に「問題なし」と報告していたため、彼女達が活動し、実態が知られてしまうと困るからです。
さらに、軍の命令系統が非効率で、「医療品が足りない」ことを現地の司令官に伝えるために、わざわざ本国の司令官を通さなければなりませんでした。
ここで、ナイチンゲールは官僚主義・無気力・不合理な男社会に立ち向かいました。
誰もやりたがらなかったトイレ掃除を皮切りに、徐々に自分の権限を拡大しました。
時には上官と対立し、物資が入った箱をゲンコツで叩き割り、医薬品を奪い取りました。
彼女は状況をタイムズ紙に報告した上、ヴィクトリア女王に直訴して寄付を集め、私財も投じて、医療品・食料品を確保しました。
彼女が精力的に環境を改善したお蔭で、傷病兵の死亡率が、半年で42%から2%に激減しました。
彼女は夜間もロウソクの灯りを頼りに傷病兵を見回ったので、彼らから「ランプの貴婦人」として、慕われました。
帰国後、傷病兵の死因を分析し、900ページに及ぶ報告書を政府に提出しました。
この中で、彼女は世界で初めてグラフを使用したため、統計学の先駆者と呼ばれます。
彼女は近代看護学を確立し、60才時に看護専門学校(ナイチンゲールスクール)を設立しました。世界初の、宗教とは無関係の看護学校です。
その後、彼女は「クリミアの天使」と呼ばれるようになり、やがて、看護婦が「白衣の天使」と呼ばれるようになりました。
しかし、彼女はこの呼称を嫌い、「天使とは、美しい花を振りまく者ではなく、病人のために戦う者だ」と語りました。
看護と衛生に生涯を捧げた彼女は、90歳で、教え子と猫に囲まれて、亡くなりました。
サンタ・クローチェ教会で洗礼を受けたナイチンゲールを記念して、教会中庭に面する壁に「ランプの貴婦人」像があります。
像の台座にはラテン語で”HORAM NESCITIS”(時間を知らない)と記されています。
彼女が極めて献身的に、昼夜を問わず、患者の世話や看護に取り組んだことを端的に表現しています。