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Exploring the History of Medicine, Part 51: Florence, Part 31
令和5年6月1日
サンタ・クローチェSanta Croce(聖なる十字架)教会
フィレンツェにおけるフランチェスコ派教会の拠点として、13世紀に建てられました。ゴシック建築の代表で、ルネッサンスの凝縮です。
ガリレオやミケランジェロなど著名人が多数埋葬されており、「すべての神々の栄光の神殿」として知られています。
ガリレオ・ガリレイ「真実を疑うな、常識を疑え」
16世紀後半に生まれたガリレオ・ガリレイは、天文や物理の問題について考える際、アリストテレスなどの既存の理論体系や、教会などの多数派が支持する説を鵜呑(うの)みにはしませんでした。
彼は、自ら実験を行い、実際の現象を自分の眼で確かめ、その結果を数学的に分析するという手法で、様々な発見をしました。
そのため、彼は哲学や宗教から科学を切り離すことに貢献したという理由で、「科学の父」と呼ばれています。
彼の発見は、振り子の等時性(とうじせい)、物体の落下の法則、慣性の法則など、数えきれません。
特筆すべきは、彼が、17世紀初頭にオランダで望遠鏡が発明されたことを知るや否や、いち早くそれを改良し、天体観測に用いたことです。
ガリレオは、木星には4つの衛星があることを発見しました。
彼は彼を庇護(ひご)したメディチ家コジモ2世に感謝の意を込めて、4つの衛星をまとめて「コジモの星たち」(後に「メディチの星たち」に改称)と名付けました。
ガリレオは金星や月の満ち欠けも観測しました。
彼が天体を望遠鏡で観察した結果、導き出した結論は、古代ギリシャ以降2,000年間信じられてきた「全ての天体は地球の周りを回っている」という天動説に基づく宇宙像を真っ向から否定するものでした。
すでにガリレオが生まれる前に亡くなっていたコペルニクスは、著作「天球の回転について」で、「金星は満ち欠けをする筈(はず)だ」と記(しる)し、地動説を唱えていました。
ガリレオは実際に天体観測によって、コペルニクスの地動説を証明したのです。
カトリック教会や一部の天文学者たちは「望遠鏡で見た世界は虚像にすぎない」と、ガリレオを批判しました。
それでも地動説を主張し続けたガリレオに対し、ローマ・カトリック教会は「地動説を信じることは異端である」と断じ、裁判を起こしました。
論争の結果、裁判官はガリレオに地動説を唱えないよう、注意・勧告しました。
しかし、なおも彼は地動説の研究を続け、「天文(てんもん)対話(たいわ)」という本を執筆しました。
教皇が交代したドサクサに紛れて、この著書を出版したものの、翌年、ガリレオはローマへの出頭を命じられてしまいました。
そして、2回目の裁判にかけられました。
そこで、彼は有罪判決を受け、死刑は免れたものの、終身刑を宣告されました。
この時、彼が「それでも地球は動く」とつぶやいた、という話は有名です。
ガリレオはやがて失明しました。
望遠鏡の見過ぎのためと言われています。
けれども、彼はその後も研究を続け、成果を弟子や息子などに口述筆記させたのです。
17世紀半ば、77歳のガリレオはフィレンツェ郊外で没しました。
しかし、罪人という理由で墓を作ることが許されず、やっとサンタ・クローチェ教会に葬られたのは、死後95年間も経ってからのことでした。
さらに、死後350年を経た1992年、ついにローマ法皇ヨハネ・パウロ2世がガリレオの有罪判決が誤りであったと公に認め謝罪しました。
我々の記憶にも新しいところです。
墓の中央には望遠鏡を持ったガリレオが鎮座し、両側にはそれぞれ天文学と物理学を表す女性の彫刻が立っています。
そして、ガリレオが発見した、木星の4つの衛星も、中央に誇らしく刻まれています。