令和5年2月1日
アカデミア美術館
アカデミア美術館はフィレンツェ美術学校の付属美術館です。
ミケランジェロの彫刻数点と13~16世紀のフィレンツェ派絵画などを収めています。
ミケランジェロ・ブオナローティ(1475~1564年)は、フィレンツェ出身で、イタリアルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人です。
優れた芸術作品を多く残し、その多才さから、レオナルド・ダ・ヴィンチと同じく、「万能の人」と呼ばれています。
ミケランジェロはダ・ヴィンチより23歳年下で、さらに8歳若いラファエロを加えたこの3人は、「ルネサンス三大巨匠」と称されています。
ミケランジェロ自身は絵画を軽視していましたが、西洋美術界に非常に大きな影響を与えた2点のフレスコ画を残しています。
ヴァチカン市国にあるサン・ピエトロ大聖堂システィーナ礼拝堂の、天井画「創世記(そうせいき)」と祭壇(さいだん)壁画「最後の審判」です。
一方、ミケランジェロが最も重要視したのが彫刻で、その中でも最高傑作として有名なのが、サン・ピエトロ大聖堂の「ピエタ」(処刑されたイエス・キリストを腕に抱く聖母マリア)とアカデミア美術館の「ダヴィデ像」です。
ダヴィデ像は、16世紀初頭、26歳のミケランジェロが、メディチ家(ピエロ2世(ロレンツォ・メディチの子))を市外に追い出したフィレンツェ市民の依頼で、3年かけて制作した作品です。
ダヴィデは旧約聖書の「サムエル記」に登場する、紀元前1,000年頃の英雄です。
英語の男性名デイヴィッドDavidはダヴィデに由来しています。
ちなみに、旧約聖書とは「天地創造」や「ノアの方舟(はこぶね)」などの物語が記(しる)された、ユダヤ教・キリスト教の経典です。
イスラエルの最初の王であったサウルは、神の命令に背(そむ)き、裏切りました。
神が次のイスラエル王候補として目を付けたのが、羊(ひつじ)飼(か)いの少年ダヴィデでした。
ダヴィデはハンサムで竪琴(たてごと)が上手(じょうず)でしたが、勇敢な戦士でもありました。
サウルが率(ひき)いるイスラエル人たちは、ペリシテ人との戦いを繰り返していました。
たまたま戦陣を訪(おとず)れたダヴィデは、ペリシテ最強の巨人戦士ゴリアテに挑発され、羊飼いの杖と、袋に詰めた石だけを持ってサウルの前に出ました。
突進してくるゴリアテに向かってダヴィデが石を投げました。
石はゴリアテの額(ひたい)に命中し、ゴリアテがうつ伏せに倒れました。
ダヴィデはゴリアテの剣を引き抜き、その首を切り落としました。
ペリシテ軍はこれを見て総崩れになり、イスラエル軍が勝利しました。
以後も国を救う活躍を続けたダヴィデは、やがて2代目のイスラエル王となり、数十年に渡り国を統治しました。
ダヴィデの約1,000年後の子孫がナザレのヨゼフであり、ヨゼフの妻マリアがダヴィデの生誕地(せいたんち)ベツレヘムで産んだ子がイエス・キリストです。
ダヴィデ王は16世紀以降のフランスやイギリスのトランプ(カード)に、スペード♠のキングとして登場しています。
確かに、シンボルの竪琴を持って描かれています。
身長5.2mの大理石像は、ダヴィデが巨人ゴリアテに石を投げつけようと狙(ねら)いを定めている姿です。
筋肉が盛り上がり、静脈が浮き出て、緊張感に包まれています。
目を見据え、冷徹に口を結んだ表情が理性的です。
少年が巨人に立ち向かう像は、独裁政治を打ち倒す共和政と、周辺諸国に立ち向かう小国フィレンツェの象徴でもあります。
ダヴィデはユダヤ人ですから割礼(かつれい、包皮の切除)を受けている筈(はず)ですが、ミケランジェロは彼を包茎にしました。
そのため、この像が聖書に基づくと見なせるかどうか、いまだに論争が続いています。また、ダヴィデの睾丸は、左の方が右より下垂(かすい)しています。
これは、「男性の半数以上は、左の睾丸の方が右より下垂している」という統計学的事実と一致しています。
男性の読者諸賢(しょけん)、鏡(かがみ)を見てご確認下さい。