Message from the Directorを更新しました(Jan 1,2025)。
Exploring the History of Medicine, Part 51: Florence, Part 31
明けましておめでとうございます。今年もご愛読下さい。
シニョリーア広場(君主の広場)Piazza della Signoria
13-14世紀の自治都市フィレンツェの人々は共和政を旨(むね)とし、ことあるごとに広場に集まり、議論を戦わせ、挙手によって採決を行いました。
広場の一角の、丸いブロンズの敷石が埋まっている所が、ジロラモ・サヴォナローラGirolamo Savonarolaが拷問(ごうもん)の末、絞首刑となり、さらに火あぶりにされた場所です。
サヴォナローラはドミニコ会修道院の厳格な修道士で、人間の肉体や欲望を賛美するルネッサンスや、その推進者のメディチ家を猛烈に批判しました。
彼は「世俗文化が堕落し切っている」と嘆き、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で市民に訴えました。
そして、このシニョリーア広場に美術品や装飾品を山のように積み上げて、焼き払ってしまいました。
サヴォナローラはこれを「虚栄の焼却」だと主張しました。
15世紀末の出来事です。
歴史的には、宗教改革の先駆けと考えられています。
しかし、厳格な思想はルネッサンス期のフィレンツェでは受け入れられず、経済が停滞しました。
翌年、サヴォナローラから心が離れた市民が、彼を捕らえました。
さらに、ドミニコ会の台頭を疎(うと)ましく思っていたフランチェスコ会やメディチ家の人々は、サヴォナローラに「火の試練」を課しました。
「真の予言者なら、燃え盛る火の上を歩いてみせろ」と迫ったのです。
彼は「神を試してはいけない」と拒否しました。
すると、これを言い訳と見た市民は彼を裁判にかけ、無理やり罪人に仕立て上げ、絞首刑の後、火あぶりにしたのです!
ランツィのロッジアLoggia dei Lanzi
シニョリーア広場は政治の中心地で、市民集会がしばしば開かれました。
そして、集会が雨でも続けられるように、14世紀に回廊(ロッジア、屋根付き廊下)が建設されました。
名称の「ランツィ」とは、コジモ1世(コジモ・デ・メディチ)の統治下で、回廊ををランツクネヒト(ドイツ人傭兵)が使った史実に由来します。
ランツクネヒトが訛(なま)ってランツィになったのです。
現在は、古代やルネッサンス期の彫刻が並び、さながら屋根付きの屋外美術館です。
その中でも、我々が見逃せないのが、チェリーニ作「ペルセウス像」です。
勇者ペルセウスが、切り落としたばかりの怪物メドゥーサの首を、左手で高々と掲(かか)げています。
ミラノ編やヴェネツィア編で説明したように、メドゥーサはギリシア神話に登場する怪物ゴルゴンの3姉妹の一人です。
生来、美しい女性だったメドゥーサが、海神ポセイドンと交わったのがことの発端です。
戦いの女神(軍神)アテナがこれに嫉妬(しっと)し、メドゥーサを醜(みにく)い怪物に変えてしまいました。
美しい髪の毛の一本一本は毒蛇の姿となり、ニョロニョロと動きました。
イノシシの歯、青銅の手に変えられ、翼まで生やされました。
おまけに、目はギラギラと輝き、見た者を石に変えてしまう魔力を持っていました。
勇者ペルセウスは軍神アテナから盾(たて)を借り、眠っているメドゥーサに忍び寄りました。
目を合わせると石に変えられてしまうため、楯に映った怪物を見ながら、その首を見事、切り落とすことに成功したのです。
肝硬変などの門脈圧亢進症では、門脈血が臍帯静脈に流れ込み、下大静脈に向かいます。これを側副(そくふく)血行路と呼び、ここを流れる血液量が多くなると、腹壁(ふくへき)皮下静脈が放射状に怒脹(どちょう)します。
この様子が、のたうつ蛇のように見えるため、「メドゥーサの頭」と呼ばれます。
詳しくは、令和3年3月号のミラノ編 その5をご覧下さい。