令和4年7月1日
ルネッサンス
フィレンツェFirenze(英語:フローレンスFlorence)はトスカーナ地方の中心地です。
この街の起源は、古代ローマ時代、ジュリアス・シーザーの頃にさかのぼります。
紀元前1世紀、ローマ人はここにフローレンティアFlorentia(ラテン語で「花の都」「繁栄する都」)という名前の街(まち)を建設したのです。
ローマ神話のフローラFlora(「花・春・豊饒(ほうじょう)」の女神)が語源です。
古代ローマから2,000年の歴史を有し、街全体がユネスコ世界遺産に指定されています。
15世紀には、フィレンツェがルネッサンスの中心地となりました。
ダンテ、ボッカチオ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなどがここを舞台に活躍しました。
ルネッサンス"Renaissance"とは、「再生、復活」を意味し、15世紀頃にフィレンツェを中心に興(おこ)った学問、芸術、文化の一大革新活動です。
その特徴は、ギリシア・ローマ時代の古典文化の復興、科学への取り組み、人間性の尊重、そして個性の解放でした。
ルネッサンスが1400年代(15世紀)に起こったので、イタリアではルネッサンス期をクワトロチェントQuattrocentoと呼びます。400という意味です。
それにしても、どうしてイタリアでルネッサンスが興ったのでしょうか?
ビザンツ帝国(東口ーマ帝国)が、オスマン帝国の圧迫に耐えかねて、西ヨーロッパに助けを求めたのが始まりなのです。
14世紀末、ビザンツ皇帝はヨーロッパを訪(おとず)れ、救援を要請してまわりました。
その一行の中に学者がいて、イタリアの各地で知識人にギリシア語を伝授しました。
それに最も興味を示したのがフィレンツェでした。
ギリシア文明への注目がこうして始まりました。
ギリシア語熱は高まり、ギリシア哲学やギリシア美術にも注目が集まりました。
プラトン(紀元前5-4世紀、ギリシャの哲学者)の著作を神秘的に解釈する新プラトン主義が起き、フィレンツェの知識人を虜(とりこ)にしました。
その中に、メディチ家のコジモ・デ・メディチ(コジモ1世)もいました。
コジモ1世はギリシア文献学の必要性を痛感し、研究のための学院を自費で作りました。
それが、アカデミア・プラトン(プラトン学院)です。
そして、15世紀、コンスタンチノープルがオスマン・トルコに攻め落とされ、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)が滅亡しました。
すると、イタリアの商人達はコンスタンチノープルに殺到し、ギリシア関連の写本・文献を買いあさりました。
こうして、フィレンツェを代表とするイタリアの都市は、ギリシア文明を研究し、再生しました。
つまり、ルネッサンスとは、イタリアに起きたギリシア文明ブーム、プラトン・ブームだったのです。
同時に、古代ギリシア医学の流れを汲(く)むアラビア医学が西欧にもたらされました。
ルネッサンスにより、古代ギリシア医学の再興が起きた訳です。
そもそも、紀元前の古代ギリシア医学が、西洋医学の始まりです。
病気に伴う現象を注意深く観察し、理論を立て、そこから導き出された治療法を確立した、素晴らしい学問でした。
もちろん、現代の日本の医学も西洋医学の流れを汲むことは、言うまでもありません。
紀元前3~2世紀、アレキサンダー大王の東方遠征に伴い、古代ギリシア医学は大きな発展をしました。
いつの時代でも、大きな戦争を契機として医学が進むのは皮肉なことです。
そして、古代ローマ帝国の時代にガレノスが現れ、古代ギリシア医学を理論的に集大成したガレノス医学を確立しました。
4世紀末、古代ローマ帝国は東西に分裂しました。
東ローマ帝国では古代ギリシア医学の流れを汲むアラビア医学が、西ローマ帝国ではガレノス医学の流れを汲む僧院(教会・修道院)医学が、それぞれ主流となっていきました。
西ローマ帝国はゲルマン民族の大移動により、5世紀末に滅亡しましたが、僧院医学はその後も受け継がれていきました。
中世の修道院には、付属病院が設けられ、修道女が看護にあたりました。
僧院医学では、新しい研究や治療が行われることはなく、看護・療養が主体でした。
15世紀、オスマン帝国により東ローマ帝国が滅亡し、西へ逃れた人々により、古代ギリシア医学の流れを汲むアラビア医学がヨーロッパにもたらされました。
ここに、ルネッサンスが始まり、古代ギリシア医学が再興しました。
ルネッサンス期には、ヨーロッパ各地に大学が設立され、人体への本格的な探求が始まり、解剖も盛んに行われるようになりました。
万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチが精密な人体解剖図を描いたのも、ヴェサリウスが本格的解剖書「人体の構造(ファブリカ)」を著したのも、ルネッサンス期でした。
医学の歴史を訪ねて 第4回 ミラノ編、第13回 ヴェネツィア編をご参照下さい。