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Exploring the History of Medicine, Part 51: Florence, Part 31
令和4年4月1日
消防署
前回、述べたように、ヴェネツィアには自動車がありません。
当然、消防車もなく、運河に面した消防署には消防ボートが停泊していました。
サン・ジャコモ・デル・オーリオ医学校
リアルト橋とサンタ・ルチア駅の中間辺りにサン・ジャコモ・デル・オーリオ教会があります。
その裏手の広場の一角に、サン・ジャコモ・デル・オーリオ医学校と、付属の解剖学研究所の跡があります。
パドヴァ大学の解剖学教室をモデルにして、17世紀に建てられました。
残念ながら、19世紀に、火事で廃校になったそうです。
この辺り一帯は、地元では「解剖学の広場」と呼ばれています。
近傍の運河には、「解剖橋」という、世にも珍しい名前の橋があります。
研究所が運河に面して建てられたのには意味があります。
解剖に供する遺体を運ぶ船は、運河を通って、研究所の横に着き、遺体を荷揚げしたのです。
だから、ここに架かる橋が「解剖橋」と呼ばれるようになったのです。
サン・ジャコモ"San Giacomo"とは、日本語では聖ヤコブ"Jacob"、スペイン語ではサンチャゴ"Santiago"と呼ばれる聖人で、イエス・キリストの十二使徒(弟子の中でも、特別の権威を与えられた12人)の一人です。
ちなみに、ラテン語ではJacobus(ヤコブス)、英語では Jacob(ジェイコブ)、 James(ジェームズ)、フランス語では Jacques(ジャック)です。いずれも男子の名です。
後に福音書を記したヨハネ(やはり十二使徒の一人)の兄で、弟のヨハネと共にガリラヤ湖で漁師をしていましたが、網の手入れをしていたところをイエスに呼ばれ、ヨハネと共にイエスの弟子になりました。
イエスが十字架で処刑された後、ヤコブはユダヤで布教活動をしていましたが、西暦44年、キリスト教徒を弾圧するユダヤの王ヘロデ・アグリッパ1世に処刑されました。
十二使徒の中で最初の殉教者です。
処刑後、弟子たちが彼の遺体を小舟に乗せて海に出たところ、神に導かれるようにしてスペインのガリシアに到着し、ここで遺体を葬りました。
その後、イスラム教徒によるイベリア半島征服の混乱の中で墓は忘れ去られていましたが、9世紀、明るい星に導かれ、羊飼いが野原の中に聖ヤコブの墓を見つけました。
この場所が現在のサンティアゴ・デ・コンポステーラ"Santiago de Compostela"で、ヴァチカン、エルサレムと並んでカトリック教会の三大巡礼地の一つとされています。
コンポステーラ"Compostela"とは「星の野原」という意味です。
その後も、キリスト教徒がイスラム教徒と領土争いを繰り返していた「レコンキスタ(国土回復運動)」と呼ばれる時代、たびたび白馬にまたがった騎士姿の聖ヤコブが天から現れ、キリスト教徒を勝利に導いたと言われています。
現代でも聖ヤコブがスペインの守護聖人として広く崇拝されている所以(ゆえん)です。
ホタテ貝は聖ヤコブのシンボルで、フランスではホタテ貝を「聖ヤコブの貝」と呼ぶそうです