令和3年5月1日
ヴェネツィアの歴史
5世紀頃、ヴェネト族がフン族、ゴート族などの外敵侵入から逃れて、海の干潟(ひがた、ラグーナ)に避難し、街を作りました。
つまり、ヴェネツィアはイタリアの多くの都市と異なり、古代ローマ帝国時代の地方都市として始まったのではなく、何もない海に、土地その物をゼロから作り上げたのです。
まず、干潟の軟弱な地盤に、何千・何万もの木の杭(くい)を打ち込みました。
水に浸(つ)かって空気に触れない木は、長い年月を経(へ)て、真っ黒なコンクリートの柱のようになりました。
その上に石、さらにレンガを敷(し)き詰め、家を建てる土台を作りました。
浅いラグーナに、船が通れる航路(運河)も作りました。
自動車が走れる道路はありません。
ヴェネツィアの交通手段は船だけです。
ヴェネツィア人は、自然の威力の前で、協力して、ラグーナにある土地を守らなければなりませんでした。
7世紀末に最初のドージェ(総督)が選出されて以来、ヴェネツィアではずっと市民による共和制が守られました。
独裁君主が現れることも、派閥に別れて権力闘争をすることもありませんでした。
そして、海の上の街ゆえに、最初から、海上貿易に有利でした。
地中海をたどって、ギリシャの各都市や、当時の政治経済の中心、コンスタンチノープル(東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都、現在のイスタンブール)と交易する事ができたのです。
ヴェネツィアの繁栄の始まりです。
11世紀、第1回十字軍が聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回するため、出発しました。
これは、ヴェネツィアの商人にとっては大きなビジネスチャンスでした。
十字軍戦士を船で東方へ運ぶことを請(う)け負(お)い、東方貿易の商権を手に入れたのです。
ヴェネツィアなど北イタリア諸都市は、ライバルのビザンツ商人に替わって、東地中海に商圏を拡大し、香辛料(こうしんりょう)の貿易で巨万の富を得ました。
一方、14世紀にヨーロッパを襲ったペスト(黒死病)は全ヨーロッパの3分の1(3,500万人)の命を奪いました。
そして、「疫病(えきびょう)の元凶(がんきょう)はユダヤ人だ」という風評が流布(るふ)し、ユダヤ人の大量虐殺や追放が各地で行われました。
何万人ものユダヤ人がイタリアに渡り、ヴェネツィアにもユダヤ人が増加しました。
当時、様々な職種から締(し)め出されていたユダヤ人(ユダヤ教徒)の多くは、金貸し業を営みました。
キリスト教徒は、「利子を取るのは神の教えに反する」という理由で、金貸し業が禁止されていたからです。
貿易によってお金が動く都市ヴェネツィアでは、ユダヤ人は大(おお)儲(もう)けしました。
シェイクスピアの「ベニスの商人」は16世紀末の戯曲(ぎきょく)で、ユダヤ人同士のお金の貸し借りの話です。
ヴェネツィアでユダヤ人の多くが金融業に就(つ)いていたのを知っていたから、シェイクスピアはこんな話を書いたのでしょう。
ヴェネツィア共和国の繁栄は、18世紀末、ナポレオンに征服されるまで、1,100年余りも続きました。
当然、イタリアを占領したナポレオンは、イタリアでは悪評です。
しかし、ナポレオンのお蔭でコムーネの時代に終焉(しゅうえん)がもたらされ、後にイタリアが統一国家になれたのだ、とも言えるのです。
次号に続く