平成31年4月1日
前号で、日本中に「徘徊」外しが蔓延している事を紹介しました。
一方、「徘徊」という言葉を残す動きも見られます。
群馬県沼田市は「命のたからさがし訓練」との副題を付けたものの、「徘徊」という言葉を残しました。
市担当者は、「『徘徊』は理解し易いとの声が多いから」と理由を述べました。
埼玉県ふじみ野市も、平成15年から、認知症高齢者を対象にした身元確認用のシールを「ひとり歩き(徘徊)高齢者早期発見ステッカー」と名付けて配布し始めました。
「ひとり歩き」だけでは意味が通じない恐れがあるため、「徘徊」も残したのだそうです。
私は、前号で紹介した認知症介護研究研修東京センター永田久美子氏の「『徘徊』という言葉が認知症者への偏見を助長している」という意見は、全く的(まと)が外れていると思います。
認知症者が夜間、家人の就寝中に屋外に裸足で出かけても、これを「徘徊」と呼べば「偏見を助長する」のでしょうか?
あるいは、前号で紹介した名古屋や神戸の事業所のように、「この人は理由があって、『一人歩き』をしに『お散歩』に『お出かけ』しただけだ。問題行動ではない」と「寄り添う」のが正しい対応なのでしょうか?
「徘徊」を「一人歩き」に言い換え、悠長(ゆうちょう)に構えていては、認知症老人の交通事故や踏切事故はなくなりません。
前号で紹介したニッセイ基礎研究所山梨惠子氏は、2007年12月に愛知県大府(おおぶ)市で91才の認知症男性が電車にはねられ死亡した事故をどのように論評するのでしょうか?
この老人は「徘徊」していたのではなく、理由があって踏切の遮断機をくぐったのだ、とでも言うのでしょうか?
JR東海から700万円の損害賠償を請求された遺族に「おじいちゃんが『お出かけ』したのには理由があるのだからね」と慰めたところで、何の足しにもなりません。
認知症者に対する誤解や偏見を避けるためという理由で、「徘徊」や「呆け(ボケ)」「痴呆」という言葉で呼ぶのは止めよう、という「言葉狩り」が横行しています。
認知症者の人権に配慮し、尊厳を守るためだそうです。
しかし、たとえ本人には出かける理由があるにせよ、赤信号でも道路を渡ったり、遮断機をくぐって踏切内に入る危険があるのなら、それを「お散歩」に「お出かけ」するなどと言ってごまかしてはいけません。
「徘徊」は事故に遭う危険を伴うと、警戒するべきです。
高齢者の尊厳を守るのと、事故を未然に防ぐのとは、別の問題です。
危険を回避しても、高齢者の尊厳は傷つきません。
前号で紹介した群馬県沼田市や埼玉県ふじみ野市が「徘徊」を外さないで残したのは賢明です。
「『徘徊』と呼ぶ事が認知症への理解を妨げる」というのも間違った考えです。
むしろ、はっきり「徘徊」と認識して警戒してこそ、事故を未然に防げるのです。
次号に続く