平成28年10月1日
片桐小八郎(こはちろう)(源 景重(かげしげ))は、敵(平家(へいけ))の大軍の真っ只中に踊り出て、敵を斬って落としたのを皮切りに、凄まじい戦いぶりを見せました。
しかし、太刀(たち)が真っ二つに折れるに至り、己(おのれ)の武運(ぶうん)が尽きたことを悟(さと)って、脇差(わきざし)を抜き、名のある敵と刺し違えたそうです。
主人のために身を捨てて大軍に斬り込み奮戦するも、運の極みを潔(いさぎよ)く受け入れ、敵と刺し違えた小八郎。
敵と戦う最中に太刀が真っ二つに折れるというドラマティックな描写と相まって、鎌倉時代の軍記物語の理想の武士像と言えます。
片桐(片切)の家督は源 景重の子・為安(ためやす)が継ぎますが、領地(片切郷)は平家によって没収されました。
幸いにも、その25年後、為安は壮年の源 頼朝(よりとも)(鎌倉殿(どの))に歓待され、小八郎の働きに感謝する頼朝によって所領を返還されました(「吾妻鏡(あづまかがみ)(1184年6月23日の項)」)。
こうして、片桐為安は源 頼朝によって船山城に戻る事が出来ました。
ちょうど、源 頼朝により平家が京を追われた年です。
写真1は船山城の守護神、御射山(みさやま)神社です。この神社周辺には片桐の名が付く里が七つあり、七里(ななさと)と呼ばれました。
船山城はその後、戦国時代に伊那に侵攻した武田信玄(しんげん)に占領されました。
そして、天正10年(1582年)、織田信長(のぶなが)が信濃へ侵攻した際、片桐為安から数えて12代目の片桐長公(ちょうこう)を攻めました。
長公は討ち死に、船山城は陥落、片桐長公の父・政公(せいこう)は切腹しました。
こうして、船山城は築城(ちくじょう)から470年後に断滅(だんめつ)したのです。
片桐長公の法名(ほうみょう)は瑞応寺殿天祐長公大居士です。
片桐長公の長男である長経は慶長年間、徳川に仕え、次男の片桐為経は浪人に落ちぶれました(「伊那武鑑根元記(いなぶかんこんげんき)」:江戸時代初期に書かれた、伊那地方の武家の消息を書いた文献)。
船山城の東南に瑞応寺(ずいおうじ)という寺があります(写真2)。
片桐氏の菩提寺(ぼだいじ)です。片桐長公の法名に因(ちな)んで名付けられました。
お盆の法事でてんてこ舞いの住職に強引に頼み込んで、片切郷や船山城の話を伺う事ができました。
住職が特別に片桐長公の位牌を見せてくれたので、丁重に合掌しました(写真3)。
父親が切腹させられ、自らも織田信長に斬り殺された430年前の先祖(片桐長公)の無念が伝わって来ました。まさに、万感(ばんかん)胸に迫る思いでした。
それにしても、織田信長に討たれた片桐氏が、すぐ後(のち)の片桐且元(かつもと)の代には、織田の家臣・豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)に仕えたのです。
戦国の世の習いとは言え、「昨日の敵は今日の友」です。
歴史は皮肉ですね。
初めて訪れた片桐の郷は、旅館の仲居さんが言っていた通り、どこまでも田んぼ・畑・果樹園が続く、緑豊かな村でした。
果樹園の中の細い農道に迷い込み、引き返せなくなったり、側溝に脱輪しそうになったりの珍道中でしたが、先祖発祥の地を感慨深く巡りました。
片桐家の長男である私にとって、のどかな風景を眺めながら、片桐氏が城を奪われ離散した悲哀に思いを馳(は)せる夏となりました。
以上で、「番外編 片桐発祥の地を訪ねて」を終わります。
楽しんで頂けたでしょうか?
次号より、「血液型と性格」の話に戻ります。