2009年10月1日
今回も、民主党の医療政策の目玉である「自公政権の社会保障費削減方針を撤廃、総医療費をOECD加盟国平均まで引き上げ」政策について述べます。
政権交代により社会保障政策が大きく転換され、医療費が大幅に増額されようとしています。この歴史的な政策転換には、国際的な視点から、格好の前例があります。
それは、1997年の英国です。
英国では、1979年に保守党が政権をとり、マーガレット・サッチャーが首相となりました。サッチャー政権とそれに続くメージャー政権は、「英国病」と国際的に揶揄(やゆ)された状況――不況で失業率が高く、各種国民の負担も高い経済の停滞状況――を打開する施策の一環として、「小さな政府」を唱えました。そして、1980年代後半から「規制緩和」を進め、公的負担を低減し、民間活力を導入して、徹底的な競争原理により経済の活性化と国際競争力の強化を目指す政策を執りました。実施されたのは、支出を増やすのではなく、「効率」を高める政策でした。その「聖域無き改革」は医療も例外ではありませんでした。具体的には、医療機関の間に競争原理を導入し、民間企業による医療提供と医療保険への民間参入推進が行われました。
サッチャー改革は、財政難を背景にした改革でしたが、結局は不成功に終わりました。競争の結果、不採算病院の閉鎖とそれによる地域の病床不足、さらに医 療職の雇用減少が起こったのです。必然的に、医療事故が増加し、かかりつけ医への受診待ちや病院への入院待ち、さらには手術までの待機日数等も増加し、国
民の政府への不信感は募(つの)っていきました。保守党(サッチャー政権)による医療制度改革は、いわば市場化の試みだった訳ですが、市場化では、競争原 理の悪い面ばかりが表れてしまいました。競争により生じた医療の質の格差が甚だしくなったのです。居住地域や貧富の差によって受けられる医療が違う状況と
なってしまいました。これは、「院長から一言(平成21年7月1日、及び8月1日)」で述べた小泉「構造改革」の顛末(てんまつ)と構図がそっくりではあ りませんか!
小泉総理が断行した「構造改革」とは、医療分野への市場原理の導入であり、その結果もたらされたのは、万人平等であるべき公的医療保険制度の破壊です。
現在の日本の状況は、まさしく、かつての英国の姿と重なるのです。
1997 年、トニー・ブレアが率いる労働党が政権を奪取しました。
ブレア首相は、保守党とは正反対の、大胆な医療制度改革を実行しました。
改革の2本柱は「医療への公的支出増加」と「医療従事者の増員対策」です。
特に、国民に必要十分な質の高い医療を確保するためには著しく財源が不足しているという観点から、医療費の増加策を前面に打ち出した事が、極めて革命的と評価されています。では、ブレア首相は医療費をどの位、増やしたのでしょうか?
2000年には対GDP比で7%以下だった医療費を、2008年には9.2%まで増やしたのです。実額では、1997年ブレア首相就任時の2倍以上になりました。
その結果、病院の入院待ち日数等の諸分野において医療の質が著しく改善しました。
かつて、日本と英国はGDPに占める医療費の割合(対GDP比)において、G7の中で最下位争いをしていました。1995年以降、日本の方が英国より高 い時代が続きましたが、2004年に追いつかれ、2006年にはついに英国(8.4%)が日本(8.1%)を上回りました。
これは、民主党政権誕生以前の日本とブレア改革以降の英国との、対照的な政策の差を反映していると言えます。すなわち、英国はブレア改革により医療費を増 額してマンパワーを増やしたのに対し、日本は小泉改革により社会保障費の自然増を毎年2,200億円ずつ減らし医療崩壊を招いたのです。
民主党は、自公政権の社会保障費削減方針を撤廃し、総医療費をOECD加盟国平均まで引き上げる事を公約しています。
政権交代による医療費増額政策への転換という点において、我が国と英国の軌跡は酷似しており、民主党の医療政策は大いに評価できます。