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Exploring the History of Medicine, Part 51: Florence, Part 31
2009年6月10日
今回も、我が国の周産期医療(ひいては医療制度その物)の崩壊のもう一つの原因である、医療訴訟の増加について述べます。
福島県立大野病院の事件では、医師の無罪が確定した後も、今なお民事裁判が継続中です。亡くなった産婦の御尊父は「じゃあ、なぜ娘は死んだんだ?」と反論したと報道されていました。最愛の家族を亡くされた悲しみはお察し申し上げますが、「誰も悪くなければ患者は死なない」という考えは誤りです。「出産」とは、世界では250人に1人が死亡する危険な行為なのです。医師は患者さんを救うために全力を尽くしました。最初から死なせるつもりだったのではありません。患者さんは病気で亡くなったのです。患者さんの命を救う事が出来なかったら訴えられるのなら、医師は医療に携わる事が出来なくなります。従って、無罪判決は至極妥当な判決です。
この医師逮捕に関して、日本母性保護産婦人科医会は声明を発し、「この様に稀で救命する可能性の低い事例で医師を逮捕するのは産科医療を崩壊させかねな い」と批判しました。実際、この事件は昼夜を問わず地域医療に貢献していた全国の医師の意欲を低下させ、リスクのある医療行為に対しての萎縮を招きまし
た。もともと、1994年以降継続的に国内の産科医数は減少していますが、2006年の当該事件以降は益々産科を敬遠する傾向が強まりました。産科を掲げ る病院は、1990年には2,459施設ありましが、その後毎年減少し続けており、2008年には1,177施設となりました。この18年間で半分以下に
減少してしまった訳です。こうして、全国各地で多くの出産難民が生じています。そして、産科以外でも訴訟リスクの高い医療現場から医師が去る事態となって いるのです。私の愚息はまだ医科大学の2年生ですが、早くも将来の進路について、「訴訟の多い科(外科、産婦人科等)には進まない」と言っています。
出産では、生まれてくる子供と母親の両方、すなわち2人(もしくはそれ以上)の人間の命が同時に危険にさらされます。しかも、進歩した現代医学を享受す る日本では、両方とも健常に生存する事が求められ、また、それが当然とみなす人が圧倒的に多いのです。患者の権利意識が高まり、「うまくいって当然」の風
潮なのです。ですから、母児のどちらかでも障害が残ったり死亡したりすれば、これまた当然のごとく訴訟が提起されます。従って、あらゆる診療科目の中でも 産科は最も訴訟が多いのです。その上、賠償金がとてつもなく高額なのです。例えば、新生児が脳性麻痺になり、裁判で医師の過失が認定されると、賠償金は1
億数千万円が相場とされ、日本医師会が運営している医師賠償責任保険はすでにパンク状態と言われています。
訴訟大国の米国の現状はもっと悲惨です。医療訴訟の多い産婦人科や心臓外科では医師賠償責任保険の保険料が年間に10万ドル(1ドル100円として約 1,000万円)にも達し、医師達を苦しめているのです。年収20万ドル(約2,000万円)だった外科医が、保険料が18万ドル(約1,800万円)に
なったため、差し引き年収が2万ドル(約200万円)のワーキングプアに転落してしまい、廃業に追い込まれる例も多発しているそうです。良しきに付け悪し きに付け、米国の後を追いかけている我が国でも、同様の事態となれば医療崩壊に拍車がかかる事でしょう。
高い賠償金に備えるためには、当然、高い保険金を払う必要があります。そして、高い保険金を払うためには、これまた当然、高い診療報酬を得る必要があり ます。ところが、既に何度も述べたように、現状の診療報酬はあまりに低額で、その中から高い保険金を支払う事など到底不可能なのです。当直明けの連続勤務
(36時間連続労働)や頻繁な夜間呼び出しが常態化している過酷な労働環境に加えて、低賃金といつ訴えられるか判らない恐怖が重なれば、余程の馬鹿かお人 好しでなければ逃げ出すのが当たり前ではないでしょうか?これが、日本中の病院で産科、小児科、外科等の外来・病棟が閉鎖に追い込まれている原因なので す。日本医療の崩壊の根本原因なのです。
では、この「医療崩壊」をくい止めるためにはどうすれば良いのでしょうか?
①簡単な事です。患者が医師を訴えなければ良いのです・・・。しかし、これだけ医学が進歩し、しかも国民の権利意識が高くなった社会で、「死んだり障害が残ったりしても訴えるな」と言っても、戯言(たわごと)としか受け止めてはもらえないでしょう。
せめて耳を傾けて頂けるような表現をするとすれば、「医療に内在する不確実性を理解して欲しい」と言い替えておきます。しかし、このように抽象的な解決策を論じても、直ちに医療訴訟が減少するとは思えません。
② そこで、医師が研鑽を積み、現代医学で期待出来る最善の医療を提供する事を前提としつつ、最良の結果を伴わなかった際に生じ得る高額の損害賠償請求に備え て、どうしても診療報酬を大幅に引き上げる事が必要となるのです。増加する医療訴訟に備えるための高い保険金を支払うためには、診療報酬を増額するしかな いのです。
そしてさらに、診療報酬引き上げは、過酷な医療現場に医師を呼び戻して医師不足を解決し、交替勤務を可能とし、多忙な医師に休息を与え、物心両面において豊かな生活を取り戻させるためにも是非とも必要なのです。