2009年5月12日
今回は、我が国の周産期医療(ひいては医療制度その物)の崩壊のもう一つの原因である、医療訴訟の増加について述べます。
2.増加する医療訴訟
医事関係訴訟(医療訴訟)は近年、著しく増加しています。最高裁判所の諮問に対する医事関係訴訟委員会の2005年6月の答申によれば、第一審医事関係訴訟新受件数(裁判所がその年に新しく受け付けた訴訟の数)は、1995年には488件だったのが、10年後の2004年には1,107件と2倍以上に増加しているのです。その間の、通常民事訴訟が若干の減少傾向にある事と比較すれば、医療訴訟の増加傾向は顕著です。医師1,000人当たり毎年3人が新たに医療訴訟の被告になっている勘定です。
かつては、医療訴訟のほとんどは民事訴訟でしたが、最近では、医療行為上の過失につき刑事責任を問う刑事訴訟が増加しています。その中でも、まだ我々の 記憶に新しいのが福島県立大野病院産科医逮捕事件です。これは、帝王切開手術を受けた産婦が死亡した事について、手術を執刀した産婦人科の医師1人が業務
上過失致死と医師法に定めた異常死の届出義務に対する違反の容疑で2006年2月に逮捕・拘留され、3月に福島地方裁判所に起訴された事件です。
事件当時、同院の常勤産科医はこの医師1人のみでした。医師は帝王切開術にて新生児を娩出した後に、術前には予測困難な癒着胎盤の所見を認めたので、まず 癒着した胎盤の剥離を試みました。しかし、出血が止まらないため子宮を摘出しましたが、その30 分後に心室細動という重篤な不整脈が突然発生し、産婦が死亡したのです。
裁判では、医師1人で手術に臨んだ事や、癒着胎盤を認めた時点で直ちに子宮摘出術を行わなかった事などについての過失の有無が争点となりました。そし て、起訴から2年5カ月後の昨年(2008年)8月、裁判長は被告医師に無罪を言い渡し、福島地方検察庁が控訴を断念したため、無罪判決が確定しました。
亡くなった産婦は誠にお気の毒です。お悔やみ申し上げます。だからと言って、懸命に手術・治療にあたった医師に罪をなすりつけてはいけません。治療にお ける医師の判断や手術法の選択にまで捜査当局が踏み込み、患者を救命しようとした医師を逮捕・拘留・起訴してしまった事実は、日本全国の産科医のみなら ず、多くの臨床医に脅威を与えました。
本来、結果の完全な予測が不可能な営みである医療行為に対して、「結果が予見出来たにもかかわらずそれを回避しなかった事」を罪とする業務上過失致死罪 を適用するのはナンセンスです。もし、こんな事がまかり通ってしまえば、出産を始め、危険を伴う種々の医療行為を引き受ける医師が存在しなくなる恐れすら あります。
医療とは神が人に与える加護ではなく、人が人を救おうとする行為です。必ず成功が約束された所作ではないのです。不成功に終わる事もあるのです。
「結果が悪ければ医師が悪い」「医師が全部責任を負え」と後で言われてしまうのなら、医師は分娩に立ち会えなくなります。分娩だけに限られた事ではあり ません。外科系の医師にとって、手術中、予期せぬ事態に遭遇する事は珍しくありません。そこで、最大限の自分の力で努力しても結果が悪い事も当然ありま
す。結果が悪ければ逮捕・拘留・起訴されてしまうとなれば、余程のお人好しでない限り手術を引き受ける医師はいなくなります。
次号へ続く